水主神社(延喜式内社)
奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。
御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。
成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ
奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。
◎水主三山(熊野三社)
山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。
● 新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
● 本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神)
● 那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣司どる神)
◎水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神)
◎水主神社別当寺 大水寺(開は不詳)
水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。
本尊は、 阿弥陀如来(円光寺へ)
● 江戸末期まで、神仏混合
● 明治元年三月、神仏分離令
● 明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。
◎伝教大師 最澄(七六七~八二二)
延歴九年(24才の時)水主神社・大水寺に参籠する。
比叡山延暦寺創建す。(22才の時)天台宗
◎弘法大師 空海(七七四~八三五)
水主神社境内地に於て閼伽井水を掘り水主神社に奉献する。
高野山金剛峰寺・善通寺・真言宗 (現在の閼伽の井戸)
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。
社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。
本殿右手「国玉神社」 百襲姫命の母・倭国香姫命を祀る
本殿真後ろ「孝霊神社」 百襲姫命の父・孝霊天皇を祀る
「水神社」とその後方、弘法大師手堀の井戸
水主神社は、承和3年(836年)大明神(正一位)の神階を授けられた、讃岐最古の延喜式内社である。
御祭神は、倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)『日本書紀』 (『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命)。
大和の箸墓の主と考えられており、耶馬台国の卑弥呼とする説もある。
『日本書紀』崇神紀に、有名な「三輪山・箸墓伝説」が記されている。
倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の正体が蛇であることを知って驚き、倒れた拍子に、
箸が陰部に刺さって亡くなった、というものである。
その伝説から、奈良の「箸墓古墳」は、彼女の墓という説がある。
ただ、箸墓古墳という古墳名は、いつ誰が名付けたのか?調べても今のところ分からない。
「結論ありき」の命名の気がするがどうだろう?
根拠もなく、○○天皇の御陵だと、石碑だか看板だかを建てて地図にまで載せているような例もあることだし。
普通の人がそれを見れば(そうなんだ)と思ってしまうのは当然で、「歴史と観光を一緒にするな」という岩利大閑氏の意見はもっともである。
上の三輪山神話は、この記事で既に紹介している。
ここでは、一連の三輪山に関する伝説のルーツが、阿波ではないか?という仮説で、徳島県吉野川市川島町の「 二つ森 」に伝わる話を紹介した。
当社の境内社のひとつを見て驚いた。
香川県の神社誌などを持っていないため、詳しいことは分からないが、非常に興味をひかれる。
由緒書きには、倭迹々日百襲姫命は、七才の年に大和の黒田盧戸宮を出て、八才の時、讃岐引田の安戸の浦に着き、水主に宮を定められたとある。
「大和」の黒田盧戸宮とは、定説では「奈良」なのだが、「倭」が「阿波」のことであるとする研究者によれば、当然この黒田盧戸宮も「徳島市黒田」にあったとしている。
その「奈良」であるが、当社へ至る徳島から東かがわ市へ抜ける山道を「奈良街道」という。
阿波の「奈良」を出発して、奈良街道を北上し、「大阪峠」を抜けて「難波」へ出る。
古来からの地名である。
「讃岐こそ百襲姫の本貫地であり、大和朝廷の淵源を解く鍵が讃岐にあるように思う」と言う人もいる。
百襲姫は、讃岐でも、幼い頃より神意を伺い、まじない・占いを行い、知能の優れた方と伝えられるが、百襲姫のその巫女としての活躍の様子は、『日本書紀』崇神紀に記されているのである。
崇神天皇に頼まれ、災害がつづく理由を占ったところ、三輪山の大物主神が姫に神懸かりして、我を祀れば国は治まると言った、とされている。
また、三輪山と大物主神である。
大物主(大国主)神も、もちろん阿波の神なのである。
そのなかでも、阿波国との関係を見ることができるのだが、続きは「不思議の徳島」で。