※ 一部、式内社(倭大國玉神大國敷神社)比定① 倭大國魂神社の記事と重なります。
※ 参照 古事記に見る 阿波の方言と地名
その翌年には、人民の心は荒み、反逆する者まで現れた。
その勢いは徳をもってしても治まらず、天皇は朝夕天神地祗に祈った。
また、皇女渟名城入姫命に命じ、倭大国魂神を祀らせた。
ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰え、祀り続けることが出来なかった。
ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰え、祀り続けることが出来なかった。
大国主神の別名のひとつが「大国魂大神」であるため、同神とする説もあるが、大国主神の娘下照姫命と結婚した天津族、天若日子の父の名は「天国魂神」であり、単純に「国魂神」がつくから同じ神といえるものでもなく、本居宣長なども同一神とする説を否定している。
その正体はともかく、「倭国の国魂神」であることは間違いない。
殆どの日本人の思い違いに、 「倭」と「大倭」=「大和」の同一視がある。はなはだしい場合は=「日本」としている。
この点に注視するだけで、歴史の見え方が変わってくるほどの間違いである。
殆どの日本人の思い違いに、 「倭」と「大倭」=「大和」の同一視がある。はなはだしい場合は=「日本」としている。
この点に注視するだけで、歴史の見え方が変わってくるほどの間違いである。
御間城入彦五十瓊殖天皇 (みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
『記』では
御真木入日子印恵命 (みまきいりひこいにえのみこと)
美萬貴天皇 (みまきのすめらみこと)
である。
皇后(大彦命の娘)の名も、御間城姫(みまきひめ)、御真津比売命(みまつひめのみこと)。
天皇皇后の名はこの地名から名付けられている。
国が平和に治まらないのは吾が意によるものである
もし我が子の大田田根子命(おおたたねこのみこと)を吾を祀る祭主とし、
市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、
国はたちどころに平和を取り戻すであろう
と、託宣した。
偶然か、この郡里地区は昭和中期まで和傘の産地であった。
郡里(こうざと)は、神郷(こうざと)の可能性もある。
郡里(こうざと)は、神郷(こうざと)の可能性もある。
下加茂神社は6世紀創始の古社、他の神社は式内社(論社含む) ※右下クリックで拡大
八十子神社 御祭神 八千矛命 (大国主命)
天都賀佐毘古神社 御祭神 級長津彦命 (伊射奈美命の子)
弥都波能賣神社 御祭神 弥都波能売神 (伊射奈美命の子)
建神社 御祭神 建速須佐之男命
倭大國玉神大國敷神社 御祭神 倭大國魂神 大國敷神
伊射奈美神社 御祭神 伊射奈美命
三島溝咋耳命の別名は陶都耳命(すえつみみのみこと)である。
『旧事記』には大陶祇(おおすえつみ)とあり、陶器造りの長だったとみえる。
また『記』では、美努(みの)村と記されているが、美馬町のすぐ西隣が三野(みの)町である。
「三輪」は「みわ」の他「みのわ」とも読み、三繩(みなわ)に訛った可能性がある。
故、大神の為に酒醸(か)むに、此の河の水を用ゐる。故、河の名と為す。
川の水を使って大神の酒を造った故、その川の名を神河(みわがは)と名付けた、というわけである。
つまり、大神 は おおみわ と訓み、この神とは 大物主神 のことである。
これは吉野川のことで、土佐の山中から発し伊予と阿波の境近くに北上し、みなわ郷を過ぎて東に直角に曲がり阿波を横断する大河である。
その三繩郷付近を流れる吉野川に西から流れこむ川を伊予川という。
現在の県境線をぴったり当てはめて風土記に記される古伝承を解釈するほうがナンセンスというものである。
仍りて、これを歌して曰はく、
許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺
椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐
此の神酒(みき)は 我が神酒ならず
倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久
この酒は私の造った酒ではありません。
倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。
幾世までも栄えよ、栄えよ。
茲に、天皇これを歌して曰はく、
宇磨佐階 瀰和能等能能 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏
味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
一晩中酒宴を開いて、三輪の社殿の朝の戸を押し開こう。三輪の戸を。
医家(いげ)神社ではないかと思っている。
医家神社は、現在池田町の街中に降ろされているが、元はシンヤマという山の上にあった。
このシンヤマとは、下の地図で三縄駅のマークがある場所のすぐ北である。
シンヤマ とは 神山 なのだろう。
徳島県人には、漢字地名を気軽に別読みする癖がある。例えば、私の町では徳島一の高峰剣山(つるぎざん)を、みな(けんざん)と呼んでいた。剣山(けんざん)○○というような法人もある。私は子供の頃、母親に「つるぎざんとけんざんとどっちが正しいの?」と訊いたことがあるが「さぁ?」という返事だった。那珂・那賀地名の書き方・読み方でも紹介したように、地名・自然地名の読み方や使う漢字について厳格になったのは、平成になって以降つい最近のことなのは全国共通である。