空と風

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崇神天皇は阿波国美馬郡にいた


 
 
 
日本書紀によれば、崇神天皇の治世五年、疫病が流行し、人民に多数の死亡者がでた。
紀によれば、「大半」、記によれば、「人民死爲盡」(死に尽きなむとす)と記されている。
 
その翌年には、人民の心は荒み、反逆する者まで現れた。
その勢いは徳をもってしても治まらず、天皇は朝夕天神地祗に祈った。
 
これ以前、天照大神倭大国魂神、二柱の神を宮中に祀っていたが、この神々の勢を畏れ、
天皇は皇女である豊鍬入姫命に命じ、
天照大神倭の笠縫邑(かさぬいむら) に祀った。
また、皇女渟名城入姫命に命じ、倭大国魂神を祀らせた。
ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰え、祀り続けることが出来なかった。
 
 
これが、紀による 倭大国魂神 の初見である。
つまり、いつから宮中に祀られているのか、その神の別名など、不明な点が多い。
また、天照大神については「倭の笠縫邑」に祀ったとあるが、倭大国魂神については書かれていない。
しかし、文脈からすると、同じく笠縫邑かその付近としか考えられない。

 
大国主神の別名のひとつが「大国魂大神」であるため、同神とする説もあるが、大国主神の娘下照姫命と結婚した天津族、天若日子の父の名は「天国魂神」であり、単純に「国魂神」がつくから同じ神といえるものでもなく、本居宣長なども同一神とする説を否定している。
 
その正体はともかく、倭国の国魂神」であることは間違いない。
殆どの日本人の思い違いに、 「倭」「大倭」=「大和」の同一視がある。はなはだしい場合は=「日本」としている。
この点に注視するだけで、歴史の見え方が変わってくるほどの間違いである。

 
 
崇神天皇の和風諡号『紀』では
 
 御間城入彦五十瓊殖天皇 (みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
 
『記』では
 
 御真木入日子印恵命 (みまきいりひこいにえのみこと)
 
常陸国風土記』では、
 
 美萬天皇 (みまきのすめらみこと)
 
である。
皇后(大彦命の娘)の名も、御間城姫(みまきひめ)、御真津比売命(みまつひめのみこと)。
 
式内社・倭大國玉神大國敷神社の鎮座地は、『倭名抄』にも記される「阿波国美馬美萬〉郡」。
 
天皇皇后の名はこの地名から名付けられている。
 
 
こののち、倭迹迹日百襲姫命に神憑り、夢にも現れた大物主神が、
 
 国が平和に治まらないのは吾が意によるものである
 もし我が子の大田田根子命(おおたたねこのみこと)を吾を祀る祭主とし、
 市磯長尾市倭大国魂神を祀る祭主とすれば、
 国はたちどころに平和を取り戻すであろう
 
と、託宣した。
 
※ ちなみに大物主神の正体は、大国主命事代主命の両説がある。
 
天皇は喜び、大田田根子命を探させたところ、茅渟県(ちぬのあがた)の邑(すえむら)に見つかった。
古事記ではこの場所を、河内の美努(みの)の村と記している。
 
 
倭大国魂神社の鎮座する美馬町が、崇神天皇天照大神を 祀った地でもある倭の縫邑であるならば、周辺にその痕跡があるはずだが、
同じ美馬町郡里地区に鎮座する式内社天都賀佐(かさ)毘古神社が在る。
偶然か、この郡里地区は昭和中期まで和傘の産地であった。
郡里(こうざと)は、神郷(こうざと)の可能性もある。
 
 
御祭神である級長津彦神(しなつひこのかみ)、 級長津姫神(しなつひめのかみ)は、風の神であり、伊勢神宮の、内宮の別宮・風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮・風宮(かぜのみや)と同じである。
 
 
 
大田田根子命の名も地名から取られていると考えられるが、この天都賀佐毘古神社の南、吉野川対岸の地名が太田(貞光町である。
 
大田田根子命の先祖に玉櫛媛(たまくしひめ)がいるが、その別名は「活玉依姫(いくたまよりひめ)」「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)」「三島溝杭姫(みしまみぞくいひめ)」である。
 
三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)の娘で、神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母にあたる。
 
古事記では三輪の大物主神の妻、日本書紀では事代主命の妻、と記されている。
 
上記の地名「太田」(貞光町の東隣が、「三島」(穴吹町である。
 
 
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下加茂神社は6世紀創始の古社、他の神社は式内社(論社含む) ※右下クリックで拡大
 
 忌部神社          御祭神  天日鷲命 (天手力男命の子・阿波忌部の祖)
 八十子神社         御祭神  八千矛命 (大国主命
 天都賀佐毘古神社    御祭神  級長津彦命 (伊射奈美命の子
 弥都波能賣神社      御祭神  弥都波能売神 (伊射奈美命の子
 建神社           御祭神  建速須佐之男命 
 倭大國玉神大國敷神社 御祭神  倭大國魂神 大國敷神 
 伊射奈美神社       御祭神  伊射奈美命 
 下加茂神社         御祭神  玉依姫命 (賀茂別雷命の母)
 横田神社          御祭神  市杵島姫命 (建速須佐之男命の子)
 田寸神社          御祭神  多岐都比売命 (建速須佐之男命の子)
 鴨神社            御祭神  賀茂別雷命 (玉依姫命の子)
            または、御祭神  阿遅志貴高日子根神 (大国主命多紀理毘売命の子)
 

 
三島溝咋耳命の別名は都耳命(すえつみみのみこと)である。
『旧事記』には祇(おおすえつみ)とあり、陶器造りの長だったとみえる。
 
大田田根子命が見つかった場所は『紀』では、邑(すえむら)だった。
 
また『記』では、美努(みの)と記されているが、美馬町のすぐ西隣が三野(みの)である。
 
『倭名抄』阿波国三好郡(旧美馬郡)の郷名は、三繩〈美奈波〉 三津〈美都〉 三野〈美乃〉である。
 
大田田根子命は、大物主神=三輪の神を祀ったことにより、「三輪君等が始祖」となった。
 
「三輪」は「みわ」の他「みのわ」とも読み、三繩(みなわ)に訛った可能性がある。
 
 
土左国風土記逸文に、神河(萬葉集註釋 卷第一)がある。
 
 土左の國の風土記に曰はく、神河(みわがは)三輪川と訓(よ)む。

 源は北の山の中より出でて、伊與の國に届(いた)る。水淸し。
 
 故、大神の為に酒醸(か)むに、此の河の水を用ゐる。故、河の名と為す。
 
 
川の水を使って大神の酒を造った故、その川の名を神河(みわがは)と名付けた、というわけである。
つまり、大神 は おおみわ と訓み、この神とは 大物主神 のことである
 
仙覚律師は、例によって、おおみわ みわがわ の場所を探るべく、固定観念にとらわれず学問的に、全国の風土記にあたったところ、それが土佐国に見つかったため、萬葉集註釈』に記載しているわけだ
もちろん真っ先に見たのは「大和国風土記」だったに違いない。この意味は大きい。
 
 
土佐と伊予に渡る川というので、これを仁淀川とする説があるが、仁淀川は伊予が源流で土佐に流れ込む川である。
これは吉野川のことで、土佐の山中から発し伊予と阿波の境近くに北上し、みなわ郷を過ぎて東に直角に曲がり阿波を横断する大河である。
その三繩郷付近を流れる吉野川に西から流れこむ川を伊予川という。
現在の県境線をぴったり当てはめて風土記に記される古伝承を解釈するほうがナンセンスというものである。

 
崇神天皇の治世八年、天皇大田田根子を以て、大神を祭らしむ。
是の日に、活日(大物主神の掌酒・さかびと)、自ら神酒を擧げて、天皇に獻る。
仍りて、これを歌して曰はく、
 
 許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 
 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐
 
 此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 
 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久
 
 この酒は私の造った酒ではありません。
 倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。
 幾世までも栄えよ、栄えよ。
 
茲に、天皇これを歌して曰はく、
 
 宇磨佐階 瀰和能等能能 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏
 
 味酒(うまさけ) 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
 
 一晩中酒宴を開いて、三輪の社殿の朝の戸を押し開こう。三輪の戸を。
 
 
土佐国高知県風土記の内容と重ねてみれば、吉野川でつながり隣接する阿波国徳島県の県境に近い三繩郷の大物主神を祀る宮で、神酒を捧げたとみるのが自然である。
 
私は、この大物主神を祀った三輪の社 こそが、倭大國玉神大國敷神社の論社のひとつである
医家(いげ)神社ではないかと思っている。
 
医家神社は、現在池田町の街中に降ろされているが、元はシンヤマという山の上にあった。
このシンヤマとは、下の地図で三縄駅のマークがある場所のすぐ北である。
 
シンヤマ とは 神山 なのだろう。
徳島県人には、漢字地名を気軽に別読みする癖がある。例えば、私の町では徳島一の高峰剣山(つるぎざん)を、みな(けんざん)と呼んでいた。剣山(けんざん)○○というような法人もある。私は子供の頃、母親に「つるぎざんとけんざんとどっちが正しいの?」と訊いたことがあるが「さぁ?」という返事だった。那珂・那賀地名の書き方・読み方でも紹介したように、地名・自然地名の読み方や使う漢字について厳格になったのは、平成になって以降つい最近のことなのは全国共通である。
 
現在の地名でも、阿波の池田町三縄周辺の地名を見れば、その南に大田、西に天神山大和川と、その痕跡が見える。
 
 
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