伊豆の伊古奈比咩命は「賀茂族の姫」と伝承され、
伊古奈比咩命神社
物忌奈命神社(阿波神の子)
もう一社の名神大社・楊原(やなきはら)神社(御祭神・大山祇命)は田方郡(現在は沼津市に属す)に在り、またその南方・同市内に長浜神社が鎮座します。
伊豆国賀茂郡四十六座の式内社の中に「加毛神社 二座」があり、現在は、この「二座」が「加畑賀茂神社」と「三島神社」の二社に分かれたと伝わります。
加畑賀茂神社の御祭神は「事代主神」ですが、江戸時代までは「伊予国の三島大明神(大山祇神社)が、伊豆諸島から伊豆半島に上陸した地」との謂れと共に「大山祇命」とされていました。江戸時代の「謂れ」ほど当てにならないものはありませんが、もしこれが正しければ「大山祇神=三島神=加毛神」ということになります。「伊豆諸島から伊豆半島に上陸した神」とは三嶋大社の御祭神を指しますから「三嶋大社の神は賀茂神」と言っていることになります。伊古奈比咩命が賀茂族の姫なら、同族婚です。
三島神社の御祭神は「溝杙姫命」で、三島溝橛耳神の娘(玉櫛媛・三島溝樴姫・勢夜陀多良比売・活玉依毘売)のことであり、事代主命の后神です。
そうすると、加毛神社の御祭神は、①「事代主命と后」または、②「大山祇命と溝杙姫」で、1①は夫婦神、②は「三嶋つながり」の神二座となります。
大山祇神は三嶋神ですが、大山祇神と三島溝橛耳神 の関係は、未だ・誰も、明らかにしておりません。大山祇神の正体は、日本の神々の中で、また日本の歴史の中で最大の謎といえるでしょう。

四国に目を向けると、土佐国の土佐大神「味鋤高彦根命」は「迦毛大御神」といいます。土佐国幡多郡には、式内社「賀茂神社」が鎮座します。現在、御祭神は別雷命とされますが、『神祇志料』では味耜高日子根神、『土佐国式社考』では大鴨積命、『邉海松布』では大賀茂都美命、『神社覈録』では祭神不詳、と諸説あります。
それぞれ「賀茂神」の社名からの推察なのでしょう。
また、香美郡には式内社「大川上美良布神社」が鎮座します。
御祭神は大田々祢古命です。
大田田根子は『日本書紀』によれば「大物主神の子」、『古事記』では「大物主神の5世孫」、『先代旧事本紀』「地祇本紀」にでは「事代主神の7世孫」で、物語上は崇神天皇の御宇の人物です。
大田田根子の孫・大三輪大友主が「三輪氏」の祖であり、『三輪高宮家系図』によれば、祖神に当たる「大物主神」を「大国主命と都美波八重事代主命」親子二代の別名としています。ちなみに同系図によれば、大田田根子は「都美波八重事代主命の8世孫」、「天事代主籖入彦命の7世孫」となります。
上記賀茂神社の御祭神として名の挙がる「大鴨積命」とは、大田田根子の子(または孫)に当たり、
『先代旧事本紀』に、崇神朝に賀茂君を賜姓(しせい)されたと記されます。
『大三輪神三杜鎮座次第』にも、「葛城賀茂神社 大田田根子命の孫大賀茂祇命、勅を承け、杜を葛城邑賀茂の地に立て事代主命を奉斎す。仍りて賀茂君の氏を賜ふ」とあります。
事代主命と三嶋溝杭命(陶津耳命)の娘・玉依姫との間の子である天日方奇日方命(神武天皇皇后・媛蹈鞴五十鈴媛の兄)は鴨王(かものきみ)と称されます。大田田根子の曾祖父に当たる人物です。
つまり、事代主命は賀茂神であり、妻は三嶋溝杭命の娘であり、兄は迦毛大御神であり、子孫は鴨氏であり、三島と賀茂の血のつながりは大物主神(事代主命)の父・初代大物主神(大国主命)の代まで遡れることがわかります。三島明神との説のある事代主命ですが、伝承上、三島神の血筋はその妻の側であり、果たして事代主命自身が三島を名乗れるのかどうか?
これを説明したものは今までのところ「鳥の一族」だけであると自負しています。
幡多郡とは、上古「波多国」があったところで、現高知県は、古代「都佐国」と「波多国」の二国に別れていました。
『先代旧事本紀』「国造本紀」に
「波多国造、瑞籬(みづがき)朝御世、天韓襲命、依神教云、定賜国造」
(崇神天皇の御世、神のお告げにより天韓襲命を波多国造に定めた)、
また、
「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼、定賜国造」
(成務天皇の御世、長阿比古(ながのあびこ)同祖、三島溝杭命の九世孫、小立足尼(をたてのすくね)を都佐国造に定めた」
とあります。
①波多国造 天韓襲命 第10代天皇御宇
②都佐国造 小立足尼 第13代天皇御宇
都佐国の方が後代に国造を置かれていますが、ここでまた三島溝杭命の名が登場します。引き合いに出される長阿比古は、つまり長氏であり、
『新撰姓氏録』に
「長公(ながのきみ)大奈牟智神の児、積羽八重事代主命の後なり」
「長柄首(ながえ(ら)のおびと) 天乃八重事代主神の後なり」
『続日本後紀』』承和二年(835)十月に
「摂津国人、従五位下、長我孫葛城(ながのあびこかつらぎ)及其同族合三人、長宗宿禰の姓を賜る。事代主命八世孫、忌毛宿禰の苗裔(びょうえい)也」
とあり、合わせ見ることで「長氏は事代主命と三島溝杭命を祖神とする」ことがわかります。
都佐国の隣り、阿波の海岸部に当たる長国は、「国造本紀」に
「長国、志賀高穴穂宮御世、観松彦色止命九世孫、韓背足尼、定賜国造」
とあり、都佐国造と同じく成務天皇の御世、韓背足尼(からせのすくね)を長国造に定めたと記されます。
※名東郡は元名方郡の一部。長国なら那賀郡ではないか?と考える向きがあるが、一般に言われるように「北部の粟国・南部の長国」というのは根拠のない一説であり、私説では阿波の海岸部は全て(北部の名方・板野郡域も)長国の一部である。
御祭神は社名の通り「御間都比古神」ですが、この神を「御真津日子訶恵志泥命」(孝昭天皇)とする説と、上記「観松彦色止命」とする説、「御真津日子訶恵志泥命=観松彦色止命」とする説、「孝昭天皇の「同母弟」(いろと)である武石彦奇友背命」とする説など、諸説あります。
孝昭天皇は第5代天皇、長国造を定めた成務天皇は第13代天皇。「観松彦色止命9世孫、韓背足尼」とあり、代替わりの年齢は一定ではないので世代的な矛盾は特にありません。
『阿府志』には「御間都比古神社、同郡佐那河内村中峰にあり。俗に中峰とも云う。三木松ノ神。祭神一座観松彦香殖稲天皇。人皇五代孝昭天皇也。神主井開伊豫」とあります。
『阿波志』では「御間都比古祠延喜式亦小祠と為す。中辺村にあり。今中峰また三木松と称す。即ち観松彦色止命、蓋(けだ)し、遠孫韓脊宿弥之を祀る也」と記します。
現在御祭神を観松彦色止命とするのは、上記の通り、江戸時代からの仮説(『阿波志』を編した佐野山陰は「国造本紀」の記述から、“蓋し”(思うに)「観松彦色止命を遠孫に当たる韓脊宿弥が祀った」のだろう、と仮説を述べた)で、「国造が自らの祖神を奉斎した」という“尤もらしい説明が可能”だからですが、千年の昔からそう伝承されてきたわけではありません。現在伝わる古伝というのは、ほとんどが江戸時代の国学者らによる諸文献からの考察です。佐野山陰は儒学者であり、その目には日本の古社が「子孫による祖神祀り」のために造営されてきた様子が亮然と写ったのでしょう。
『阿府志』には「神主・井開伊豫」とありますが、この神官家・井開氏は、同村大宮の初代神主「佐那大人猪飼真人」の血筋で、猪飼氏は『新撰姓氏録』に「猪甘首(いかいのおびと)、天足彦国押人命之後也」とある通り、孝昭天皇の第一皇子の後裔です。古代には現在のような職業神職はおらず、御祭神を奉じるのは皆その子孫です。
中田憲信(なかたのりのぶ)の編纂になる『諸系譜』の中に「長公」系譜が収められています。
中田憲信(1843~1910)は、播磨国生まれ。神職~判事職を経て、明治24年(1891)徳島地方裁判所の検事正に補職します。その関係で『諸系譜』には徳島県関係の古文書・系図類が極めて多く所収され、その詳細さにおいて『阿波国徴古雑抄』を凌ぐとまで評価されています。

タイトルの通り、長公は都佐国造と同じく、その祖を事代主神と子の「天八現津彦命」(あめのやあきつひこのみこと)とします。
『諸系譜』はこの天八現津彦命について「一云観松比古命」と記します。その孫が「伊侶止乃命」、さらにその七世(事代主神10代)孫が「韓背宿禰(足尼)」(長国造)です。
「国造本紀」上の「観松彦色止命九世孫、韓背足尼」の観松彦色止命とは、長公系譜上は、事代主神の子・天八現津彦命のことだと分かります。
「諸手足尼」の子「小立宿禰」(都佐国造)は、押古呂命の兄弟である振根命から枝分かれした4代目の孫で、祖神・事代主神の9代目子孫となります。
これが「国造本紀」では「三島溝杭命九世孫」となっており、『諸系譜』上の三島溝杭命九世孫は父の諸手足尼の方となりますが、系図にも「都佐国造等の祖」とあり、上古の系譜情報としてはかなり正確と言えるのではないでしょうか?
上に書いた『続日本後紀』の「長我孫」は「事代主命八世孫である忌毛宿禰の苗裔」とされ、『新撰姓氏録』にも、
とありますが、『諸系譜』では、「天八現津彦命の八世孫」が忌毛足尼(長我孫祖)と記され、ここでも1代の違いがあります。
「国造本紀」 観松彦色止命9世孫、韓背足尼(長国造) 第13代天皇御宇
「国造本紀」 三島溝杭命9世孫、小立足尼(都佐国造)第13代天皇御宇
『諸系譜』 事代主神9世孫、 忌毛足尼(長我孫祖)
『三輪高宮家系図』事代主命(7)8世孫、大田田根子 第10代天皇御宇
「国造本紀」 不明 天韓襲命(波多国造)第10代天皇御宇
※第13代天皇の御宇に事代主命の9~10世孫が国造になるということは、各初期天皇の実際の在位期間がそれぞれ短かったことを語るものです。
「国造本紀」には「長阿比古の祖も小立足尼と同じく三島溝杭命」であると記されています。つまり、三島溝杭命と事代主命は直系の関係ということになります。
さらにもし、事代主命が三島溝杭命だったらどうでしょう?
都佐国造・小立宿禰の系譜情報も、
「国造本紀」は、三島溝杭命9世孫
『諸系譜』では、事代主神9世孫
で、これを裏付けます。
「大物主」の名がそうであったように、「三島溝杭」の名もまた「先代から襲名する」可能性は十分あるのです。
むしろ、それでこそ、事代主神が三嶋大神であることの証となるのではないでしょうか? ではなぜ、事代主命が三島溝杭の名を“先代”から引き継ぐことが可能なのでしょうか? これもまた「鳥の一族」でしか説明がつきません。
式内社・御間都比古神社が、もし「長国造が祖神を祀ったもの」であるならば、御祭神は天八現津彦命でしょう。事代主命の複数の子の中で後の「長氏の祖」となる人物が「天八現津彦命」(観松彦命)だからです。ただし、この奉斎関係自体が仮説なのです。神官が祭祀当初から猪飼氏だったならば御祭神はその祖神ということになり、孝昭天皇である可能性が高まります。
※土佐国・長岡郡の式内社に「小野神社」(御祭神・天足彦国押人命)があり、御祭神の子孫・猪飼氏と「長」つながりで興味を引きます。
話はそれますが、そもそも大田田根子を祀る式内社が、なぜ大和国ではなく土佐国に鎮座するのでしょうか? 大和では大神神社の摂社で祖神の一柱として祀られるにすぎません。大和国に尋ねれば、高賀茂神同様に「土佐に島流しされた」とでも言いかねません。
古代の主要な神社というのは、全て「子や子孫が特に優れた親や祖先を祖神・氏神として祀ったもの」であり、大川上美良布神社の存在は大田田根子の子孫である鴨氏が土佐国にいた証であり、土佐神社や深淵神社、場合によっては、その他複数の式内社を、その初期においては同族が奉斎した可能性があります。
都佐国造の「小立足尼」に通じる「尾立」(ひじ)という地名が、朝倉神社の北方約1.5kmの地にあります。また、神社の東方2.5kmにある「カクソ」という地名は「国造」のなまりとも云われています。
さらにその南方1kmは「鴨部」地名であり、鴨部大明神とも呼ばれる「郡頭(こおりず)神社」に大国主命が祀られています。
小立足尼は一般に「をたて」宿禰と訓まれますが、『高知市史』には「小立足尼(ひじのすくね)が国造となり当地を領有、そのため小立のち転化して尾立となった」という地名由来が記されており、その位置関係から、朝倉神社は大田田根子系ではなく、天八現津彦命系の子孫が奉斎した可能性もあります。
阿波古代史先達の説にも、大田田根子の痕跡を阿波国の中に探し、オオタ・ミノ等の地名との関係を指摘するものがあります。それをさらに深堀りしたものが2011年に書いた下の記事です。
個人的には、崇神天皇の御宇、大田田根子が居たのは讃岐国の「陶村」(綾川町)ではないかと考えています。倭迹迹日百襲姫が大田田根子を探すために神憑った場所である「神浅茅原」(かんあさちはら)とは、隣の萱原(かやはら)村(綾川町)でしょう。「茅原」は(ちはら・かやはら)です。ただし、地名「茅原」(かやはら)はミマ・ミノを北に登った山上(徳島香川県境)にもあります。
繰り返しになりますが、初期の神社は子孫が祖神を祀るものです。倭迹迹日百襲姫命を主祭神とする式内社は大和国には無く、讃岐国の式内社 田村神社・水主神社、二社のみです。現住所では、讃岐国一宮・田村神社の約6km西方に「陶」「萱原」が並びます。
式内社 土佐神社は『延喜式神名帳』では「都佐坐神社」であり、御祭神は大田田根子の子孫である鴨氏がどこからか土佐国に分祀(遷し坐した)のでしょう。従って、元社は讃岐国か阿波国の鴨神ではないでしょうか? 私は御祭神そのまま、こちらであると仮定します。
先の賀茂神社に話を戻しますと、同幡多郡には他に二社の式内社が在ります。
一社は「高知坐神社」(たかちにいますかみのやしろ)。御祭神は「都味歯八重事代主神」です。この社名も事代主神の遍座を表すのは一目瞭然です。

『土佐国式社考』は、
度会氏曰、旧事紀云、都味歯八重事代主神、座大和國 高市郡高市社。
蓋(けだし)、高知坐神事代主命歟(か?)。
高知 高市、相通。
譬(たとえれば)、如(ごとし)摂津筑前住吉同神、駿河甲斐淺間同神之類。
国造本紀云、都佐国造、志賀高穴穗朝御代、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫小立足尼定賜国造。
續日本後紀云、攝津国人長我孫葛城、事代主命八世孫忌寸宿禰苗裔也。
とあり、
『旧事紀』には「大己貴神辺津宮に坐まして高降姫神を娶り、一男都味歯八重事代主神を生む。倭国高市郡高市社に坐す」とあり、「高市」と「高知」は通じるため、御祭神も同じで、「高知坐神」とは「事代主命」であろうと説きます。
また上記、『旧事紀』の「都味歯八重事代主神、八尋熊鰐となりて三島溝杭の娘活玉依姫のもとへ通い一男一女を生す」、同「国造本紀」の「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼を国造に定め賜ふ」、『続日本後紀』の「摂津国の人長我孫子葛城、事代主命八世の孫忌寸ノ宿禰の苗裔なり」の記述を紹介し、大和国高市郡波多神社も御同神か?との仮説で締めくくっています。
つまり谷秦山は、土佐国の「高知」「幡多」と、大和國の「高市」「波多」は地名で通じ、幡多郡の「賀茂」神社と高市郡の高市御県坐「鴨」事代主神社はカモ氏で通じ、「高知神」と「高市神」は御祭神・事代主命で通じる、と言いたいのです。
ここまで一致すれば、幡多郡の賀茂神社の御祭神も事代主命かもしれません。
一般的な「賀茂神社の御祭神は別雷命」という決めつけは、木を見て森を見ず 的な仮説・推測の可能性もあります。
谷秦山の視線は(この社においては)、このように大和国にしか向けられていませんが、すでに書き進めてきたように、幡多郡の式内社が強い近似性を持つ国が伊豆国です。
幡多郡三社のうち最後の式内社を、土佐国 幡多郡 「伊豆多神社」といいます。

続く