19 - ⑤に書いたように、『增訂豆州志稿』(明治21~29年)には
長濱神社は今明神と云ふ 長濱村村社 祭神 阿波咩命 なるべし 式内長濱神社也
按ずるに当社は 神集島(神津島のこと) 長濱神社 の分祠にて阿波賣命を祀るならん
とあります。
この長濱神社というのが、東京都神津島村長浜に鎮座する式内社(名神大社)伊豆国賀茂郡 阿波命神社(あはのみことのかみやしろ)。御祭神は地元で「長浜さま」とも呼ばれる「阿波咩命」(あわのめのみこと)です。東京都における名神大社は、阿波命神社と同島に鎮座する物忌奈命神社の二社のみです。
『續日本後紀』巻第九に
伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。此島に坐ス阿波神ハ是三嶋大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也
とあり、阿波咩命は伊豆国一宮である式内社(名神大社)伊豆国賀茂郡 伊豆三嶋神社(三嶋大社)の三嶋神の本后で、物忌奈命(ものいみなのみこと)は、二神の子と確認できます。
「三嶋」とは元々は伊豆諸島を指しますが、現在の三嶋大社鎮座地は、大社がこの地に祀られたことにより、後にその鎮座地名が「三島」となったものです。御祭神は伊豆諸島の開拓神とされます。
三嶋大社の御祭神に関しては「大山祇命」「事代主命」の両説があり、決着を見ないまま、現在は二柱の神をお祀りしています。大山祇命説の最古史料は鎌倉時代の『東関紀行』の次の一文と言われています。
伊豆の国府に至りぬれば、三嶋の社のみしめうち拝み奉るに、松の嵐木ぐらく音づれて、庭のけしきも神さび渡れり。此社は、伊豫の國三嶋大明神を遷し奉ると聞くにも、能因入道、伊予守実綱が命によりて歌詠みて奉りてけるに、炎旱の天より雨俄に降りて、枯れたる稻葉も忽ち緑に返りける、あら人神の御名残なれば、木綿襷かけまくも畏く覚ゆ。
『増訂豆州志稿』では
『雍州府志』(1686)に曰く、天平五年(733)、伊豆国賀茂郡三島大明神現出ス、爾後、摂津国島下郡、伊予国越知郡ニ之ヲ勧請スト。
と、逆に、摂津国の三島鴨神社と伊予国の三嶋大明神(大山積神社)は伊豆三嶋神の分祀とする説も紹介されています。同書は
『改暦雑事記』に曰く、崇峻天皇庚戌ノ年(590)伊予国三島大明神出現、光仁天皇宝亀十年(779)自予州遷豆州(予州より豆州に遷す)。
などの諸説も紹介した上で「皆定説ナシ」と締めくくっています。
大山祇命分祀説は「他国から伊豆国への遍座」としては、ほぼ定着した説でしたが、江戸時代に平田篤胤が事代主命説を主張し、多くの国学者の支持を得ました。
事代主命説は、古くは室町時代の『二十二社本縁』「賀茂事」条に
賀茂社 賀茂和 山城之 賀茂、葛木乃 賀茂登天 坐寸 各別之神也
葛木乃 賀茂波 鴨登天 書計里
都波八重事代主乃神登天 云 賀茂家乃 陰陽道乃 祖神登天 奉斎也 此地神ニテ坐寸
伊豆国 賀茂郡仁坐寸留 三嶋乃神 伊予国仁坐寸留 三嶋神 同躰仁天 坐寸登 云恵利
と見え、平田篤胤もこれを根拠としたようです。
葛城の鴨神・名神大社「鴨都波八重事代主命神社」を引き合いに、伊豆国「賀茂郡」の三嶋鴨も事代主命を奉斎する社とするものです。さらに「伊予国に坐する三嶋神」もまた「同躰にて坐す」と云えり、とあり、これは著者の考えではなく、室町時代にその伝承があったことが確認できます。
にも関わらず、この説が大山祇命説ほど支持されなかったのは、伊予の三島神までを事代主命とした点にあるのではないでしょうか? にわかに信じがたし、なのでしょう。
どちらの説とて「伊豆と伊予の三島神は同神」つまり、所詮「三島」括りで語っているに過ぎませんが、大山祇命説では賀茂との結びつきが説明できず、事代主命説ではそれが可能、というのが篤胤の考えなのだと思います。
ところがその後、大正に入り、大山祇命説が復権します。それは「山城賀茂」「葛城鴨」以外に「三嶋賀茂」とも呼ぶべき大山祇命系統の別系賀茂氏が存在するという主張です。
ただし、平田篤胤説が受け入れられたことには、他にも当然然るべき理由があります。平田篤胤ほどの神道オタク博学が、二十二社本縁のみを根拠として事代主命説を推すわけがなく、その情報量を駆使して考察したはずです。むしろ大山祇命説の方が「三嶋や賀茂という名の一致のみ」に頼った上っ面の説でしょう。違うというなら他に何があるのでしょう?
例えば、ここに書いているように伊豆三島神の本后は同賀茂郡鎮座の阿波神ですが、大山祇命と阿波比咩命が夫婦なのでしょうか?大山祇命が伊豆諸島を開拓されたのでしょうか?
また、近代では、伊豆三島はオリジナルのミシマ(御島)であり、大山祇命説も事代主命説も共に後世の付会とする説が主流とのことです。では同様に阿波神はどう説明するのでしょうか? これまた伊豆オリジナルの阿波なのでしょうか?
これらは『三宅記』に代表される「神話」に影響された考えとも見えますが「伊豆諸島を開拓した神」を直接お祀りしているというのはおとぎ話の類で、現実には、まず、それらの地を開いた人々の存在があり、後に彼らがその「祖神・氏神」を祀ったものでしょう。それが古代の神道の本質的な祀りです。
つまり、これまでの御祭神説は「三嶋」「賀茂」「大山祇命」「事代主命」という名詞からの逆算的考察のみで、「阿波」にはどの研究者も一切見向くことがありませんでした。
上は、2009年に私が書いた記事ですが、今もこのころから大して進展していません。「事代主命の本后の名は阿波咩命(天津羽羽命)」と紹介するのみで、ではその天津羽羽命はどのような女性なのか? 紹介・調査・考察した文章はどこにも一行も見当たりませんでした。
※ もちろん、レジェンド「すえドン」さんのブログを除く
その後、忌部氏や阿波古代史が注目される機会が増えたことにより、古代房総半島に安房(出土木簡では阿波の表記)国を築いた阿波忌部が東進の途中、伊豆諸島に残した痕跡か?、とも言われるようになりましたが、「阿波神の阿波」が「阿波国の阿波」との「仮説」を立ててみるならば、天津羽羽命が阿波忌部天日鷲命の血縁女性であることも、式内社事代主神社が全国で阿波国だけにしかないことも、二柱の神々が夫婦であるという伝承が阿波国内にもあることなども、この情報化時代、即座に知ることができるはずです。「三島神」解明の端緒が阿波国にあるのでは? という視点くらいは、小学生でも持つのが普通ではないでしょうか?
そもそも、元々そこに「伊豆」があったのではなく、そこを開拓した人々の祖神(おやがみ)が「イツ(ヅ)の事代主」であったから、その地名が伊豆になったのです。伊豆はイズではなくイヅなのです。
平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩神社の項で、
此の神の后を伊古奈比咩神と申す。
また本后を阿波命神と申す。また阿羽羽(あはは)命神といい、また阿波神といい、また天津羽羽(あまつはは)神という。
この神は天石門別神の娘にて、産みしみ子は五柱に坐す。その一柱の名は物忌奈神と申す。この神は伊豆の国に坐す神也。
と記します。
◯◯命と◯◯神は、同義で使われます。
「阿波命神社」の御祭神とは「阿波命」であり「阿波神」であり「阿波咩命」=「阿波比咩命」です。
式内社「阿波波神社」御祭神は「阿波比売命」でした。
つまり、「阿波比売」とは「阿波神」であり「阿波波神」であることから、「阿波の波波比売」神であると導かれます。
そこで阿波国に目を向けると「阿波のハハ比売」とは「阿波の天津羽羽命」以外になく、姫は事代主命の后であられることから、篤胤は伊豆三嶋神事代主神説を支持しているのです。
全て分かったうえで「三島神社に事代主神座す」と断言しているのです。そして、その「どう全てなのか?」の一端を今、私がこのシリーズで書いているのです。
何故、「阿波神」の御神名で「阿波比咩命」が祀られているのか?
何故、その御鎮座地名が「長浜」なのか?
何故、もう一人の后神の御鎮座地名が「白浜」なのか?
何故、事代主神が「三島神」なのか?
全てに意味があり、全てが繋がっているのです。
そんな平田篤胤でさえ、その天津羽羽神については『大日本神名辭書』言うところの「御事跡明らかならず」です。
その解明は、もうすぐそこです。
三嶋大社の鎮座地について、延喜式に現在とは違う伊豆国「賀茂郡」とあるのは、元社がそこにあったためで、『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条に
伊豆国言上 三嶋神 伊古奈比咩神 二前預名神 此神塞深谷摧高巌 平造之地 二千町許 作神宮二院 池三処 神異之事不可勝計
伊豆国言上す、三島神 伊古奈比咩神、二前を名神に預る。此神、深谷を塞ぎ、高巌を摧(くだ)き、平造の地二千町許(ばかり)、神宮二院 池三処を作し、神異の事勝計すべからず。
とあり、三島神は后神の一柱である伊古奈比咩神と共に神威を表したと記し、その中には「神宮二院 」の造設も含まれ、『和名抄』伊豆国賀茂郡にも「大社(おおやしろ)郷」が見えることから、元々は伊古奈比咩命神社が鎮座する現下田市の白浜に並び祀られていたと考えられています。
上の画像『續日本後紀』後段に「阿波神の祟り」とあるのは、承和5年(838)7月5日夜の上津島(神津島)の噴火が、占いの結果、三嶋大社の後后(伊古奈比咩命神)が神位を授かった(832年 名神)にも関わらず、本后たる阿波神が未だ無位だったことに対する神の怒りによるものとみなされたものです。
そのため、承和7年(840年)10月14日に、阿波神と物忌奈乃命は従五位下を賜り『続日本後紀』、その後は、
嘉祥3年(850年)10月8日 従五位上 阿波神 伊古奈比咩命神 物忌奈乃神
仁寿2年(852年)12月15日 正五位下 阿波咩命神 伊古奈比咩命神 物忌寸奈命神
『日本文徳天皇実録』
と、本后と長子、後后の神々で同じ神階を授かってゆきます。
三嶋大社が白浜の地から現三島市の地へ移遷した理由も、当然のこと、阿波神のヤキモチを人々が勝手に恐れてのことでしょう。御自分を神津島において夫と後后が仲良く白浜に並び祀られるなど「ゆるせるわけがない」に違いない、と想像するのは必然です。
阿波神は、怒らせると怖い「祟る神」
との認識を持たれた女神、ということも記憶する必要があります。