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My blog 空と風 へようこそ。

2006年から Yahoo!ブログを書いていましたが、サービス閉鎖に伴い、それまでの記事をはてなブログに引っ越しました。

元は黒色背景でしたので、記事の一部が配色の関係で読みづらくなっています。リンク先が旧ブログのアドレスのままでリンク切れになっているページがあります。少しづつ直してゆきます。

Yahoo!ブログでは、閉鎖時点で50数万のアクセスをいただきました。

読んでくださった皆様に感謝いたします。こちらでもよろしくお願いいたします。

 

 

鳥の一族 19 - ⑧ 番外編 伊古奈比咩命 その参

伊豆の伊古奈比咩命は「賀茂族の姫」と伝承され、

延喜式神名帳に記される伊豆国名神大社五社の內、

 

伊豆三島神社三嶋大社

伊古奈比咩命神社

阿波神社阿波命神社

物忌奈命神社(阿波神の子)

 

の四社が鎮座するのは、伊豆国賀茂郡でした。


 

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もう一社の名神大社・楊原(やなきはら)神社(御祭神・大山祇命)は田方郡(現在は沼津市に属す)に在り、またその南方・同市内に長浜神社が鎮座します。

 

伊豆国賀茂郡四十六座の式内社の中に「加毛神社 二座」があり、現在は、この「二座」が「加畑賀茂神社」と「三島神社」の二社に分かれたと伝わります。

加畑賀茂神社の御祭神は「事代主神」ですが、江戸時代までは「伊予国三島大明神大山祇神社)が、伊豆諸島から伊豆半島に上陸した地」との謂れと共に「大山祇命」とされていました。江戸時代の「謂れ」ほど当てにならないものはありませんが、もしこれが正しければ「大山祇神=三島神=加毛神」ということになります。「伊豆諸島から伊豆半島に上陸した神」とは三嶋大社の御祭神を指しますから「三嶋大社の神は賀茂神」と言っていることになります。伊古奈比咩命が賀茂族の姫なら、同族婚です。

三島神社の御祭神は「溝杙姫命」で、三島溝橛耳神の娘(玉櫛媛・三島溝樴姫・勢夜陀多良比売活玉依毘売)のことであり、事代主命の后神です。

 

そうすると、加毛神社の御祭神は、①「事代主命と后」または、②「大山祇命と溝杙姫」で、1①は夫婦神、②は「三嶋つながり」の神二座となります。

大山祇神三嶋神ですが、大山祇神と三島溝橛耳神 の関係は、未だ・誰も、明らかにしておりません。大山祇神の正体は、日本の神々の中で、また日本の歴史の中で最大の謎といえるでしょう。

 

式内社 土佐国 幡多郡 賀茂神社

 


四国に目を向けると、土佐国の土佐大神「味鋤高彦根命」は「迦毛大御神」といいます。土佐国幡多郡には、式内社賀茂神社」が鎮座します。現在、御祭神は別雷命とされますが、『神祇志料』では味耜高日子根神、『土佐国式社考』では大鴨積命、『邉海松布』では大賀茂都美命、『神社覈録』では祭神不詳、と諸説あります。

それぞれ「賀茂神」の社名からの推察なのでしょう。

 

また、香美郡には式内社「大川上美良布神社」が鎮座します。

御祭神は大田々祢古命です。

大田田根子は『日本書紀』によれば「大物主神の子」、『古事記』では「大物主神の5世孫」、『先代旧事本紀』「地祇本紀」にでは「事代主神の7世孫」で、物語上は崇神天皇の御宇の人物です。

大田田根子・大三輪大友主が「三輪氏」の祖であり、『三輪高宮家系図』によれば、祖神に当たる「大物主神」を「大国主命と都美波八重事代主命」親子二代の別名としています。ちなみに同系図によれば、大田田根子は「都美波八重事代主命の8世孫」、「天事代主籖入彦命の7世孫」となります。

 

上記賀茂神社の御祭神として名の挙がる「大鴨積命」とは、大田田根子(または孫)に当たり、
先代旧事本紀』に、崇神朝に賀茂君を賜姓(しせい)されたと記されます。

『大三輪神三杜鎮座次第』にも、「葛城賀茂神社 大田田根子命の孫大賀茂祇命、勅を承け、杜を葛城邑賀茂の地に立て事代主命を奉斎す。仍りて賀茂君の氏を賜ふ」とあります。

 

事代主命三嶋溝杭命(陶津耳命)の娘・玉依姫との間の子である天日方奇日方命神武天皇皇后・媛蹈鞴五十鈴媛の兄)は鴨王(かものきみ)と称されます。大田田根子曾祖父に当たる人物です。

 

つまり、事代主命は賀茂神であり、妻は三嶋溝杭命の娘であり、兄は迦毛大御神であり、子孫は鴨氏であり、三島と賀茂の血のつながりは大物主神事代主命)の父・初代大物主神大国主命)の代まで遡れることがわかります。三島明神との説のある事代主命ですが、伝承上、三島神の血筋はその妻の側であり、果たして事代主命自身が三島を名乗れるのかどうか?

これを説明したものは今までのところ「鳥の一族」だけであると自負しています。

 

幡多郡とは、上古「波多国」があったところで、現高知県は、古代「都佐国」と「波多国」の二国に別れていました。

先代旧事本紀』「国造本紀」に

波多国造、瑞籬(みづがき)朝御世、天韓襲命、依神教云、定賜国造」

崇神天皇の御世、神のお告げにより天韓襲命を波多国造に定めた)、

また、

都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼、定賜国造」

成務天皇御世、長阿比古(ながのあびこ)同祖三島溝杭命の九世孫、小立足尼(をたてすくね)を都佐国造に定めた

とあります。

 

波多国造 天韓襲命 第10代天皇御宇

都佐国造 小立足尼 第13代天皇御宇

 

都佐国の方が後代に国造を置かれていますが、ここでまた三島溝杭命の名が登場します。引き合いに出される長阿比古は、つまり長氏であり、

新撰姓氏録』に

公(ながのきみ)大奈牟智神の児、積羽八重事代主命の後なり」

長柄首(ながえ(ら)のおびと) 天乃八重事代主神の後なり」

続日本後紀』』承和二年(835)十月に

摂津国人、従五位下長我孫葛城(ながのあびこかつらぎ)及其同族合三人、長宗宿禰の姓を賜る。事代主命八世孫、忌毛宿禰の苗裔(びょうえい)也」

とあり、合わせ見ることで「長氏は事代主命と三島溝杭命を祖神とする」ことがわかります。

 

都佐国の隣り、阿波の海岸部に当たる長国は、「国造本紀」に

「長国、志賀高穴穂宮御世、観松彦色止命九世孫、韓背足尼、定賜国造」

とあり、都佐国造と同じく成務天皇御世、韓背足尼(からせのすくね)を長国造に定めたと記されます。

 

阿波国名方郡の式内社に「御間都比古神社」があります。

 

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名東郡は元名方郡の一部。長国なら那賀郡ではないか?と考える向きがあるが、一般に言われるように「北部の粟国・南部の長国」というのは根拠のない一説であり、私説では阿波の海岸部は全て(北部の名方・板野郡域も)長国の一部である。

 

御祭神は社名の通り「御間都比古神」ですが、この神を「御真津日子訶恵志泥命」(孝昭天皇)とする説と、上記「観松彦色止命」とする説、「御真津日子訶恵志泥命=観松彦色止命」とする説、「孝昭天皇の「同母弟」(いろと)である武石彦奇友背命」とする説など、諸説あります。

孝昭天皇は第5代天皇、長国造を定めた成務天皇は第13代天皇。「観松彦色止命9世孫、韓背足尼」とあり、代替わりの年齢は一定ではないので世代的な矛盾は特にありません。

 

『阿府志』には「御間都比古神社、同郡佐那河内村中峰にあり。俗に中峰とも云う。三木松ノ神。祭神一座観松彦香殖稲天皇人皇五代孝昭天皇也。神主井開伊豫」とあります。

『阿波志』では「御間都比古祠延喜式亦小祠と為す。中辺村にあり。今中峰また三木松と称す。即ち観松彦色止命、蓋(けだ)し、遠孫韓脊宿弥之を祀る也」と記します。

 

現在御祭神を観松彦色止命とするのは、上記の通り、江戸時代からの仮説(『阿波志』を編した佐野山陰は「国造本紀」の記述から、“蓋し”(思うに)「観松彦色止命を遠孫に当たる韓脊宿弥が祀った」のだろう、と仮説を述べた)で、「国造が自らの祖神を奉斎した」という“尤もらしい説明が可能”だからですが、千年の昔からそう伝承されてきたわけではありません。現在伝わる古伝というのは、ほとんどが江戸時代の国学者らによる諸文献からの考察です。佐野山陰は儒学者であり、その目には日本の古社が「子孫による祖神祀り」のために造営されてきた様子が亮然と写ったのでしょう。

 

『阿府志』には「神主・井開伊豫」とありますが、この神官家・井開氏は、同村大宮の初代神主「佐那大人猪飼真人」の血筋で、猪飼氏は『新撰姓氏録』に「猪甘首(いかいのおびと)、天足彦国押人命之後也」とある通り、孝昭天皇の第一皇子の後裔です。古代には現在のような職業神職はおらず、御祭神を奉じるのは皆その子孫です。

 

 

中田憲信(なかたのりのぶ)の編纂になる『諸系譜』の中に「長公」系譜が収められています。

中田憲信(1843~1910)は、播磨国生まれ。神職~判事職を経て、明治24年(1891)徳島地方裁判所の検事正に補職します。その関係で『諸系譜』には徳島県関係の古文書・系図が極めて多く所収され、その詳細さにおいて『阿波国徴古雑抄』を凌ぐとまで評価されています。

 

『諸系譜』「長公」

次世代デジタルライブラリー

 

タイトルの通り、長公は都佐国造と同じく、その祖を事代主神と子の「天八現津彦命」(あめのやあきつひこのみこと)とします。

『諸系譜』はこの天八現津彦命について「一云観松比古命」と記します。その孫が「伊侶止乃命」、さらにその七世事代主神10代)が「韓背宿禰(足尼)」(長国造)です。

「国造本紀」上の「観松彦色止命九世孫、韓背足尼」の観松彦色止命とは、長公系譜上は、事代主神の子・天八現津彦命のことだと分かります。

 

「諸手足尼」の子「小立宿禰」(都佐国造)は、押古呂命の兄弟である振根命から枝分かれした4代目の孫で、祖神・事代主神の9代目子孫となります。

これが「国造本紀」では「三島溝杭命九世孫」となっており、『諸系譜』上の三島溝杭命九世孫は父の諸手足尼の方となりますが、系図にも「都佐国造等の祖」とあり、上古の系譜情報としてはかなり正確と言えるのではないでしょうか?

 

上に書いた続日本後紀』の「長我孫」は「事代主命八世孫である忌毛宿禰の苗裔」とされ、『新撰姓氏録』にも、

摂津国 神別 地祇 我孫 大己貴命天八現津彦命之後

とありますが、『諸系譜』では、「天八現津彦命の八世孫」が忌毛足尼(長我孫祖)と記され、ここでも1代の違いがあります。

 

『諸系譜』  事代主神10世孫、   韓背宿禰(長国造)

「国造本紀」 観松彦色止命9世孫、韓背足尼(長国造)  第13代天皇御宇

「国造本紀」 三島溝杭命9世孫、小立足尼(都佐国造)第13代天皇御宇

『諸系譜』  事代主神9世孫、 小立宿禰(都佐国造)    

『諸系譜』  事代主神9世孫、 忌毛足尼(長我孫祖)

続日本後紀事代主命8世孫、 忌毛宿禰(長我孫祖)

「地祇本紀」 事代主神7世孫、 大田田根子    

『三輪高宮家系図事代主命(7)8世孫、大田田根子 第10代天皇御宇

「国造本紀」 不明      天韓襲命(波多国造)第10代天皇御宇

 

※第13代天皇の御宇に事代主命の9~10世孫が国造になるということは、各初期天皇の実際の在位期間がそれぞれ短かったことを語るものです。

 

「国造本紀」には「長阿比古の祖も小立足尼と同じく三島溝杭命」であると記されています。つまり、三島溝杭命と事代主命は直系の関係ということになります。

さらにもし、事代主命が三島溝杭命だったらどうでしょう? 

都佐国造・小立宿禰の系譜情報も、

「国造本紀」は、三島溝杭命9世孫

『諸系譜』では、事代主神9世孫

で、これを裏付けます。

 

「大物主」の名がそうであったように、「三島溝杭」の名もまた「先代から襲名する」可能性は十分あるのです。

むしろ、それでこそ、事代主神が三嶋大神であることの証となるのではないでしょうか? ではなぜ、事代主命が三島溝杭の名を“先代”から引き継ぐことが可能なのでしょうか? これもまた「鳥の一族」でしか説明がつきません。

 

式内社・御間都比古神社が、もし「長国造が祖神を祀ったもの」であるならば、御祭神天八現津彦命でしょう。事代主命の複数の子の中で後の「長氏の祖」となる人物が「天八現津彦命」(観松彦命)だからです。ただし、この奉斎関係自体が仮説なのです。神官が祭祀当初から猪飼氏だったならば御祭神はその祖神ということになり、孝昭天皇である可能性が高まります。

土佐国岡郡の式内社に「小野神社」(御祭神・天足彦国押人命)があり、御祭神の子孫・猪飼氏と「長」つながりで興味を引きます。

 

話はそれますが、そもそも大田田根子を祀る式内社が、なぜ大和国ではなく土佐国に鎮座するのでしょうか? 大和では大神神社の摂社で祖神の一柱として祀られるにすぎません。大和国に尋ねれば、高賀茂神同様に「土佐に島流しされた」とでも言いかねません。

古代の主要な神社というのは、全て「子や子孫が特に優れた親や祖先を祖神・氏神として祀ったもの」であり、大川上美良布神社の存在は大田田根子の子孫である鴨氏が土佐国にいた証であり、土佐神社や深淵神社、場合によっては、その他複数の式内社を、その初期においては同族が奉斎した可能性があります。

 

都佐国造の「小立足尼」に通じる「尾立」(ひじ)という地名が、朝倉神社の北方約1.5kmの地にあります。また、神社の東方2.5kmにある「カクソ」という地名は「国造」のなまりとも云われています。
さらにその南方1kmは「鴨部」地名であり、鴨部大明神とも呼ばれる「郡頭(こおりず)神社」に大国主命が祀られています。


小立足尼は一般に「をたて」宿禰と訓まれますが、『高知市史』には「小立足尼(ひじのすくね)が国造となり当地を領有、そのため小立のち転化して尾立となった」という地名由来が記されており、その位置関係から、朝倉神社は大田田根子系ではなく、天八現津彦命系の子孫が奉斎した可能性もあります。

 

阿波古代史先達の説にも、大田田根子の痕跡を阿波国の中に探し、オオタミノ等の地名との関係を指摘するものがあります。それをさらに深堀りしたものが2011年に書いた下の記事です。

 

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個人的には、崇神天皇の御宇、大田田根子が居たのは讃岐国の「村」(綾川町)ではないかと考えています。倭迹迹日百襲姫が大田田根子を探すために神憑った場所である「神浅茅原」(かんあさちはら)とは、隣の萱原(かやはら)村(綾川町)でしょう。「茅原」は(ちはら・かやはら)です。ただし、地名「茅原」(かやはら)はミマ・ミノを北に登った山上(徳島香川県境)にもあります。

繰り返しになりますが、初期の神社は子孫が祖神を祀るものです。倭迹迹日百襲姫命主祭神とする式内社大和国には無く、讃岐国式内社 田村神社・水主神社、二社のみです。現住所では、讃岐国一宮・田村神社の約6km西方に「陶」「萱原」が並びます。

 

式内社 土佐神社は『延喜式神名帳』では「都佐神社」であり、御祭神は大田田根子の子孫である鴨氏がどこからか土佐国分祀(遷し坐した)のでしょう。従って、元社は讃岐国阿波国の鴨神ではないでしょうか? 私は御祭神そのまま、こちらであると仮定します。

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先の賀茂神社に話を戻しますと、同幡多郡には他に二社の式内社が在ります。

一社は「高知神社」(たかちにいますかみのやしろ)。御祭神は「都味歯八重事代主神」です。この社名も事代主神の遍座を表すのは一目瞭然です。

 

式内社 土佐国 幡多郡 高知坐神社

 

土佐国式社考』は、

度会氏曰、旧事紀云、都味歯八重事代主神、座大和國 高市郡高市

蓋(けだし)、高知坐神事代主命歟(か?)。

高知 高市、相通

譬(たとえれば)、如(ごとし)摂津筑前住吉同神、駿河甲斐淺間同神之類。

旧事紀又云、事代主神化為八尋熊鰐、通三島溝杭女活玉依姫

国造本紀云、都佐国造、志賀高穴穗朝御代、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫小立足尼定賜国造。

日本後紀云、攝津国人長我孫葛城、事代主命八世孫忌寸宿禰苗裔也。

神名帳云、大和国高市郡渡多神社、亦與此同神歟(か?)

 

とあり、

『旧事紀』には「大己貴神辺津宮に坐まして高降姫神を娶り、一男都味歯八重事代主神を生む。倭国高市郡高市社に坐す」とあり、「高市」と「高知」は通じるため、御祭神も同じで、「高知坐神」とは「事代主命」であろうと説きます。

式内社大和国高市郡 高市御縣坐事代主神社」のこと

また上記、『旧事紀』の「都味歯八重事代主神、八尋熊鰐となりて三島溝杭の娘活玉依姫のもとへ通い一男一女を生す」、同「国造本紀」の「都佐国造、志賀高穴穂朝御世、長阿比古同祖、三島溝杭命九世孫、小立足尼を国造に定め賜ふ」、『続日本後紀』の「摂津国の人長我孫子葛城、事代主命八世の孫忌寸ノ宿禰の苗裔なり」の記述を紹介し、大和国高市波多神社も御同神か?との仮説で締めくくっています。

 

 

つまり谷秦山は、土佐国の「高知」「幡多」と、大和國の「高市」「波多」は地名で通じ、幡多郡の「賀茂」神社と高市郡高市御県坐「鴨」事代主神社はカモ氏で通じ、「高知神」と「高市神」は御祭神・事代主命で通じる、と言いたいのです。

ここまで一致すれば、幡多郡賀茂神社の御祭神も事代主命かもしれません。

一般的な「賀茂神社の御祭神は別雷命」という決めつけは、木を見て森を見ず 的な仮説・推測の可能性もあります。

 

谷秦山の視線は(この社においては)、このように大和国にしか向けられていませんが、すでに書き進めてきたように、幡多郡式内社が強い近似性を持つ国が伊豆国です。

 

幡多郡三社のうち最後の式内社を、土佐国 幡多郡 「伊豆多神社」といいます。

 

 

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続く

 

 

 

鳥の一族 19 - ⑧ 番外編 伊古奈比咩命 その弐

 

逮于人定、大地震

挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。

諸国郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社、破壌之類、不可勝数。

由是人民及六畜多死傷之。

時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃、没為海。古老曰、若是地動未曾有也。

是夕、有鳴声、如鼓聞于東方。

有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益三百余丈、更為一嶋。

則如鼓音者。神造是嶋響也。

土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。

 

 

南海トラフ巨大地震津波高(気象庁想定)

 

日本書紀天武天皇十三年(684)の白鳳地震は、南海トラフ三連動地震の記録であり、マグニチュードは8.25と推測されています。とすると、最大震度は6~7クラス、10~20m級の大津波も宮崎から伊豆半島にかけての広範囲に押し寄せたと考えられます。

その地震津波被害の日本書紀による具体的記録が「伊予・土佐・伊豆」に限定されているのは何故でしょうか? 古代史の阿波説に鑑みれば、およそ二つの理由が考えられます。一つは前回紹介した岩利大閑説。もう一つが今回書く「神への畏怖」です。

 

前回、「一部の人は、この両地域の地震を起こした神の一致性を頭に描いたのです」と書きましたが、鋭い人は、直ちにその意味を理解したことと思います。

古代人は、天変地異・自然災害は疎か、旱魃や豪雨までも「神の意思」であると考えたのですが、たとえば、四国を見ても、大津波が寄せたのは太平洋側の南部であり、瀬戸内側では同様の被害が出ませんでした。津波発生のしくみを彼らは知りません。

 

どちらの神による、どのような理由で、被害の地域差が生じたのか?

という考え方をするのです。

 

東を見れば、大津波伊豆半島まで押し寄せました。そこに祀られる神は、伊豆国一宮「三嶋大明神」でした。

 

西の九州は、『記紀』に、倭健命やその第二子・仲哀天皇による熊襲(九州南部)征伐の様子が語られますが、『続日本紀』も、養老4年(720)の隼人反乱を伝え、この頃(684)は、まだ朝廷の一部(完全な支配下)ではありませんでした。

 

その手前、土佐国を襲った津波豊予海峡を北上しますが、佐田岬半島から北で急激に衰えます。そこには、伊予国一宮「三嶋大明神大山積神が鎮座します。

この高縄半島に日本最古の温泉「道後温泉」がありますが、『紀』の「時伊予湯泉没而不出」は当然この湯のことです。

 

これを、当時の人々が、果たして偶然と考えるか否か? です。

古代史の見方には、歴史学や考古学等有力な手段がありますが、「宗教の視点が疎か」であると、常々私が言うのはまさにこういった点なのです。

 

このシリーズで見てきたように、伊豆諸島を造成した「三島神」の本后は阿波神なりと『続日本後紀』に記され、平田篤胤は、その本后を「阿波命神と申す。また阿羽羽命神といい、また阿波神といい、また天津羽羽神という」と説きます。

土佐国二宮の御祭神は、一宮土佐大神の后神「天津羽羽神」です。

 

白鳳地震の記録に名の挙がった、この「伊予、土佐、伊豆」の地名。

これが偶然なわけない、ことくらいは気づいていただかなければ困ります。

 

 

伊予三島神土佐阿波神伊豆三島神神津島阿波神

この神々の鎮座地の間の海にだけ押し寄せた高津波

当時の朝廷や人々がその意味を全力で探るのは必然中の必然です。

 

人知を駆使し、卜占・託宣、あらゆる手段を使い、地震津波の意味・神の意志を知ろうとしたでしょう。

 

①「三島・阿波」神に東西を挟まれる地域だから津波が押し寄せたのか?【神の怒り】

②「三島・阿波」神が東西に鎮座した故、それより先には津波が来なかったのか?【神の守り】

 

さらに、『紀』土佐国伊予国の被害を記された「四国」に目を向けると、当然、津波室戸岬から阿波国の海岸部に向かって北上します。そして瀬戸内海の玄関口、古代の板野郡(現鳴門市を含む)で、また急速に衰えます。

そこに鎮座するのは、阿波国一宮・大麻比古神社。御祭神・猿田彦神は、三輪氏の祖神・事代主命の別名です。

津波の押し寄せた範囲の海の中で、三島神に東西を挟まれた瀬戸内海だけは波の高さが弱まりました。三島の神に特別な力を確信するのは必然でしょう。大山祇神に至っては別名を「和多志大神」とも伝わる海神(ワタツミ)なのです。

 

 

鳥の一族 19 - ⑧ に書いたように、国史上初めて神階を与えられた神社は

 

天平神護二年(766)「伊予国神野郡伊曽乃神越智郡大山積神、並授従四位下久米郡伊予神、野間郡野間神、並授従五位下」です。

伊曽乃神と大山積神三島明神)は、いきなり従四位下を授かるという異例の扱いです。(その後、ともに正一位名神大社

この御祭神・伊曽乃神とは「天照大神の荒魂」です。

 

 

awanonoraneko.hatenadiary.com

を、ご覧ください。

 

天津羽羽命と同神である可能性が極めて高い波寶神。

この波寶神社御祭神は丹生都比売命という説が有力です。

三韓征伐から帰還された神功皇后が、『播磨国風土記』に云う爾保都比売命(丹生都比売命)を、紀伊国大和国に祀る地を求められました。

波寶神社はその一社(現在の御祭神の一柱が神功皇后)で、この爾保都比売命は、その記述の一致性から『日本書紀』における神功皇后に神託を下された神であったことが分かります。

そしてその神々は、審神者による問いかけに対し、

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒魂)、事代主神住吉三神

であることを告白しました。

 

つまり、伊曽乃神とは、

天津羽羽命波寶神丹生都比売命天照大神荒魂

であり、大山積神三島明神)とともに、国史上、初めて(高位の)神階を与えられた理由が、白鳳地震にリンクしてくるのです。

 

 

伊曽乃神社 HPより

 

 

白鳳地震で大きな被害を受けた四国。その中でも特に被害が大きかったのは地震津波のダブルパンチを受けた土佐国でした。

日本には明確な根拠もないまま日本最古をを謳う観光神社が数多ありますが、よくよく見れば最古級の有名社でも八世紀に創建されたものが多いことが分かります。

土佐神社は『日本書紀天武天皇四年(675)三月二日条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」、朱鳥元年(686)八月一三日条に「秦忌寸石勝を遣して、幣を土左大神に奉る」とみえる本物の最古級神社です。その土佐大神でさえ、延喜式では「都佐神社」であり、御祭神はどこからか土佐に遷坐したことが名乗られています。

 

この土佐大神は、大国主命の子「味鋤高彦根命」であり、その弟「事代主命」は三嶋神であり、それぞれの后が共に「天津羽羽命」である、と伝承されていることになります。

さらに「鳥の一族」に書いたように、二神の父である大国主命とは三嶋溝杭耳命ですから、彼らは大山祇神三嶋大明神に何らかの形で繋がる一族だということがわかります。

 

三嶋溝杭耳命の息子・事代主命三島明神なのですから、その兄・味鋤高彦根命もまた三島神であった可能性があります。

 

しかし、そのような伝承はないため、もう一つの可能性が高まります。

それは、二人の父・大国主命賀茂建角身命・三嶋溝杭耳命)から、「鴨」氏を味鋤高彦根命が継ぎ、「三島」氏を事代主命が継いだ、という氏族継承です。

そして、ある理由から、事代主命はまた、兄の鴨氏をも引き継ぐことになりました。

 

鴨(賀茂)と、三島(三嶋)に接点などあるのか?

忘れていませんか?

 

伊豆の三嶋神は、伊豆下賀茂より賀茂族の

姫・伊古奈比咩命を后に迎えた、と「伊古奈比咩神社縁起」にあります。

延喜式神名帳に記される伊豆国式内社92座88社。

うち、名神大社は五社。

楊原神社(御祭神・大山祇命)は田方郡に。そして、

 

伊豆三島神社三嶋大社

伊古奈比咩命神社

阿波神社阿波命神社

物忌奈命神社(阿波神の子)

 

名神大四社が鎮座するのは、

伊豆国賀茂郡 です。

 

 

 

鳥の一族 19 - ⑧ 番外編 伊古奈比咩命 その壱

今回は、伊古奈比咩命について、このシリーズにおける番外編として、また備忘録として書くことにします。

実は、江戸時代のある史料(このあとの回で公開)をFacebookで紹介し、みなさんの意見を聞いた中で、ある古代史研究家の方から驚くようなコメントをいただきました。仮説の一つではありますが、その意見をもとに自分なりに検証したいと思います。

 

 

awanonoraneko.hatenadiary.com

 

 

上に書いたように、伊豆三嶋神本后長浜神阿波咩命」、後后白浜神伊古奈比咩命」とされています。『続日本後紀』・斉衡2年(855)~貞観11年(869)に記される「阿波神はこれ三嶋大社の本后なり」、平田篤胤の『古史伝』・文化9年(1812)~文政8年(1825)の「事代主神また三島神社に座す。此の神の后を伊古奈比咩神と申す。また本后を阿波命神と申す」等の文献がこれを語っています。

 

 

 

続日本後紀 巻第9-13 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

上の続日本後紀』は19-⑦に貼付したものの続きです。阿波神の祟り(神津島の噴火)の理由を書いた部分で、一行目の三嶋大社本后」が阿波神(阿波咩命)であり、「(先んじて)冠位を賜った後后」とあるのが伊古奈比咩命です。

 

日本後紀』承和7年(840)の、天長9年(832)5月22日条に

 

伊豆国言上す。三島神 伊古奈比咩神、二前を名神に預る。此神、深谷を塞ぎ、高巌を摧(くだ)き、平造の地二千町許(ばかり)、神宮二院 池三処を作す。神異の事勝計すべからず。

 

とあります。

 

 

 

 

神階(神位)は『続日本紀天平神護二年(766)の「伊予国神野郡伊曽乃神、越智郡大山積神、並授従四位下、充二神戸一各五烟、久米郡伊予神、野間郡野間神、並授従五位下、神戸各二烟」とあるのを国史初見とし、嘉祥4年(851)には制度化され、全国の神社の御祭神に正六位以上の神階が授けられました。このとき六位とされたのは、それまで無位だった神々です。

神階は朝廷の位階と同じく、従五位下から上が別格とされ、伊古奈比咩命のように、それ以前から「名神」とされていた神、並びに「大社」を授かっていた神は、自動的に従五位下となりました。

 

『續日本後紀承和7年(840)9月の記事に、その2年前の神津島の噴火が「阿波神の祟りによるものだった」と記され、同年10月に「無位だった阿波神と物忌奈乃命が従五位下を奉授する」と記された、その異例の授与の意味が理解できると思います。

ところで、上記の「名神」とは何か? というと、「名神」という「国家に大事のある時に奉幣使を遣わして神に幣帛を捧げ祈願する臨時の祭り」があり、「その対象と定められた神」のことです。

 

最初に、古代史の友人(県外の方)が「驚くような意見を述べた」と書いた、その内容とは「阿波比咩命と伊古奈比咩命は同神」というものでした。史料やネット上の文章も含め、私自身も考えたこともない意見です。あの平田篤胤の考察にさえ挙がっていません。何故ならば、全ては続日本後紀』の記述が出発点になっているからです。つまり、阿波比咩命と伊古奈比咩命の関係を再考するためには『続日本後紀』の記述の正否を検討することになります。

 

過去に何度も指摘しましたが、古代のことを知るためには、古代人の感性や常識に従わなければなりません。古代の日本人にとって「神の祟り」は、迷信や空想ではなく「現実としてあるもの」でした。天変地異はその代表的な祟りの一つです。一般人はもちろん審神者も「神の怒り」の意味を知ろうとする時には、当然「その背景」を考えます。本物の審神者は神の言葉を伝えるのでしょうが、職業や立場的に審神者として朝廷や国司から答えを求められた場合は、当然知識を動員して「それらしい答え」を示す必要があります。これはこの件に限らず、公的に神意を知る必要がある時は、どんな場合でも同じです。(例えば、内宮と外宮の関係など)

 

 

神津島 有史以降の火山活動」気象庁 より


今回の話の場合、まず、承和5(838)年の「神津島の噴火」があり、人々は、当然それは、そこに祀られる神(阿波神と物忌奈乃命)の怒りだと考えました。

その噴火がどのようなものだったのか?『続日本後紀』の記述を振り返ってみましょう。

 

九月乙未(二十三日) 伊豆国が次のように言上してきた。

賀茂郡に上津島(神津島)という名の造作をしている島があります。

この島に鎮座する阿波神は、三嶋大社の本来の后神です。また、鎮座しています物忌奈乃命は、阿波神の御子神です。

 

※ 此嶋 坐 阿波神、是三嶋大社本后也、又 坐 物忌奈乃命、 即 前社 御子神

 

この島に新たに神宮四院(院は建物のある一画)と石室二間・二間・(高殿)十三基が出現しました。

上津島の様相は草木が繁茂し、島の東・南・北には険しい山地が展開していて人も船も近づけず、わずかに西に船が着岸できる浜があります。

今回、島は咸(ことごと)く焼け崩れて、海岸に陸地と砂浜二千町ほどが出現しました。島の東北の隅に新しく神院ができ、その中に高さ五百丈(1.5kmほど、周囲八百丈(2.4kmほどの、鉢を伏せた形の高台ができ、東方の海岸の端に四段の階があり、青・黄・赤・白色の砂が敷かれた状態になっていて、その上に高さ四丈ほどの閣があります。

次に島の南の海岸には、それぞれ長さ十丈ほど、広さ四丈ほど、高さ三丈ほどの石室が二間出現しました。その中には五色の尖った石が屛風のように立ち、岸壁には波が打ち寄せ、山川の上を雲が飛んでいくように見え、何とも称しがたい微妙な光景です。石室の前には夾纈(染色法の一で、板締め)の幔幕が懸けられたように見え、五色の砂の拡がる美しい浜となっています。

次に島の南の海辺の一方には一の磯があり、そこは三分の二が悉(ことごと)く金色で、表現しかねるほどのまばゆい屛風を立てたようになっています。

また、島の東南の隅には、それぞれ高さ二丈ほど、広さ一丈ほどの白土で築き固められた二重の垣で囲まれた一つの院が新たに出現しています。垣の南には二つのがあり、院内の中央に周囲六百丈ほど、高さ五百丈ほどの高台があります。その南の隅の岸辺には十二基の閣室が出現し、そのうちの八基は南を向き、四基が西向きで、それぞれ周囲二十丈ほど、高さが十二丈ほどあります。

院の上方にある階の東には屋一間が出現し、瓦葺き様で、長さ十丈ほど、広さ四丈ほど、高さが六丈ほどあり、その壁は白石で立ち固め、南側に戸口が一つあります。その西方にも一屋が出現し、黒瓦で葺いた形をし、その壁は赤土で塗られ、東に戸口が一つあります。この院内の小石や砂は皆金色です。

また、島の西北の隅にも新しい院が出現していますが、周囲の垣は未完成です。この院内には、それぞれ周囲八百丈ほど、高さ六百丈ほどの二つの高台があります。その形は盆を伏せたように見え、南の岸辺の片隅に二重の階が出現し、白砂が敷かれています。

高台の頂上部は平らで美しく見えます。

北方から西南にかけて長さ十二里(47km)ほど、広さ五里(19km)ほどが悉く砂浜となり、西北から北東にかけて長さ八里ほど、広さ五里ほどが、同様に砂浜となりました。

新しくできた右の二院の所在する場所は、元来は海中でした。

また、島の山の峰に一つの院と一つの門が出現しました。

頂上に人が坐った形をした高さ十丈ほどの石があり、右手に剣をとり左手に桙を持ち、その後には侍者がいて跪いて主人を見上げているように見えます。頂上のあたりは高く険しくて見極めることができません。

 

以上記した以外、あたりは焼け続けており、詳しく記すことができません。

島では去る承和五年七月五日夜に火を噴き始め、上津島の周辺の海中が焼け、炎が野火の如く広がり、十二人の童子が次々に炬を持ち、火をつけながら海の方へ下りていきました。童子らは陸地同様に海上を進み、水が地中に滲みこむように消えていきました。

大きな石を噴き上げ、焼き崩し、炎は天に達するほどでした。あたりは朦朧として、あちこちに火炎が飛び、このような状態が十日も続き、灰であたりは覆われてしまいました。

 

そこで、諸々の神官や村役人を召集して卜ってみますと、

三嶋大社の本后である阿波神が五人の子を生みましたが、後后の方が位階を賜ったにもかかわらず、叙階に預からず、それを求めて祟りをなし怪異を起こした

ことが判りました。

 

阿波神は、神官や村役人が卜占の結果である祟りのことを告げなければ、荒々しい火で神官らを亡者とし、国郡司が阿波神の位階授与のために尽力しなければ、国郡司を亡ぼし、尽力して願を成就すれば、天下・国郡は平安で、産業は豊かになり、穀物は稔ることになるだろうということでした。

 

今年七月十二日に上津島を眺めますと、煙で四面が覆われ何も見えませんでしたが、最近雲霧がとれて、神が作りました院の類はっきり見えるようになりました。

これは 神が感応したことによるものであります。

 

 

 

 

十月 丙辰(十四日)

無位阿波神物忌奈乃命に並びに従五位下を授け奉った

伊豆国で島の造作を行うという霊験によってである。


森田悌 続日本後紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫

※一部()でふりがなや説明を加えました。

※一丈(約3m)百丈(約300m)

 

神津島 - 地質概説 -より引用(以下)

 

「上津島本體、草木繁茂、東南北方巌峻..、人船不到、纔西面有泊宿之濱」
とあるのは噴火前の状態を示すもので、

「今咸焼崩、与海共成陸地幷沙濱、二千許町」
は主として当時の谷に沿って山腹を流下した火砕流が海に広がって新しい陸地を造ったことに相当し、

「其嶋東北角有新造神院、其中有壟、高五百許丈、基周八百許丈、其形如伏鉢」
は壟=冢(つか)であることから、この文章は天上山全体を記述していると見て間違いない。

「上津島左右海中焼、炎如野火、十二童子相接取炬、下海 附火.......」
火砕流が海に流入する状況を描写したものである。

これらの記事を総合すると、承和5年7月5日(西暦838年7月29日)から神津島で始まった噴火は火砕流流出を神いなから“鉢を伏せたような”山(火砕丘+溶岩円頂丘)を峰き上げた。

山城国平安京では、18日には火山灰が降ったりやんだりし、20日には東方に当って神鼓を打つような音(爆発音)が聞かれた。
7月から9月にかけて、本州中部の広い範囲にわたって降灰が見られたが、農作物などへの被害はなかった。
承和7年9月(西暦840年10月)になっても「燎燄未止」と書かれているところを見ると、噴出物はなお高温であったものと思われる。

 

~引用ここまで~

 

 

時系列で見ると、

 

1️⃣ 天長9年(832)5月22日 三嶋神・伊古奈比咩命、両神が「名神」を授かる。

2️⃣ 承和5年(838)7月5日  神津島の噴火が始まる。

3️⃣ 承和7年(840)7月12日 噴煙に覆われ、遠目には未だ島が見えず。

             卜占の結果、噴火は阿波神の祟りであり、神は

             「後后が奉授した神階を同様に自分にも授けるよう」

             朝廷に働きかけることを国郡司に要求。

4️⃣ 承和7年(840)9月23日 伊豆国がこれを言上したことにより

              火山活動が収束に向かう。

              視界が晴れ島の様子が明らかになる。

5️⃣ 承和7年(840)10月14日 阿波神・物忌奈乃命、従五位下を奉授。

 

という流れになります。

 

 

www.youtube.com

 

 

伊豆小笠原諸島は、今も火山活動により島が出現したり海中に沈んだりしていますが、神津島の噴火も、天上山の形成、地形の変化を伴い、京の都まで火山灰が飛ぶという凄まじいものでした。

古事記では、伊邪那岐命伊邪那美命による国生み神話が描かれますが、このとき人々はタイムリーに「島の造成」というものを目の当たりにしたわけです。

当時の人々にとって、この造成は「神の働き」によるものですが、そのすさまじい様子は、同時に「神の怒り」による祟りであると受け止められました。

そこで現地の人々は、この「神の意志」を探ろうとし、神官や役人を招集します。

このようなケースで彼らが知ろうとするポイントは、常に三つです。

 

①祟りなす神は、どなたであるか?

②何をお怒りなのか?

③怒りを静めていただくためには何をお望みなのか?

 

神津島では複数の人間を招集していることからも「卜占」と同時に、人間の頭でも「考えた」様子が伺えます。そこで、彼らの気持ちになって考えてみましょう。

①は、誰しもが「神津島で祀られる神」=「阿波神・物忌奈乃命」だと思うでしょう。

そこで、②に考えを巡らせると「天長9年(832)に、三嶋神と伊古奈比咩命神が朝廷から神位を授かった」という事実に行き着いた。おそらく、全員一致で「これだ!」と思ったに違いありません。

当然、次に、阿波比咩と伊古奈比咩の関係を考えます。「もし、伊古奈比咩が三嶋神の正妻であるならば、阿波比咩にこれほど激しく祟る道理はないだろう」しかし「阿波比咩と伊古奈比咩が本后と後后の関係」ならば「自分を長浜において、夫と後后が仲良く白浜で祀られ、あまつさえ共に名神に選ばれた」ことは「許しがたい人間の所業」となるだろう。

と、人間側の思考で物語づけた。といったところが『続日本後紀』記述の正体なのでしょう。

 

もちろん「阿波比咩は三嶋神の本后」という部分は独立した伝承だった可能性もあります。ただ、この情報は見ての通り、朝廷や神祇官のものではなく「伊豆国からの言上」であり、その出処は「祟りの原因を探った卜占」です。

そこに実際の夫婦関係の情報が含まれていたかどうか?は不明です。また「伊古奈比咩は三嶋神の本后」との伝承があったならば、どちらかの間違いか二比咩が同一人物ということになるに過ぎません。

 

一方の「伊古奈比咩側はどのように伝承しているのか?」というと、これもあまり参考にはなりません。時代はぐっと下り、鎌倉時代末期の成立と云う『三宅記』と呼ばれる神社縁起による情報となります。これは本地垂迹説に基づく社の縁起を語っており、三嶋神の出自や伊豆諸島の造成の部分は取るに足りない中世神話です。この後の時代に続く『神道集』に似たところがありますが、神話の中に実際の当時の伝承が含まれている可能性を含み、そこだけには注目する必要があります。

 

ただし、『伊古奈比咩命神社』伊古奈比咩命神社刊(1943)によれば、

 

何が故に先に顯現された伊古奈比咩命を後后とし、後に出現された阿波神を本后としたか(国史に記された順のことか?)については、その理由を説明するに苦しむが「召集諸祝刀禰等」でト占による神託であるから、强ひて言へば上津島の地異が嘗て見ない大規模なものであつた為め、畏れを為した結果、かかる神託を生むに至らしめたものであらうかとも想像せられる。

 

と、私と全く同じ見解を示しています。伊古奈比咩神社の由緒は『三宅記』から本地物の色を廃した内容となっており、その三宅記を要約すると、

 

三嶋神は、見目、若宮、剣の御子の随神と共に南方より黒潮に乗って北上し、伊豆に上陸した。富士の大神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、南伊豆の下賀茂より伊古奈比咩命を后に迎えた。次に、伊豆諸島(初島に始まり神津島・大島・三宅島・八丈島など十の島々)を造った後、白浜に還った。

 

というもので、内容から見れば、いかにも伊古奈比咩命が本后のようです。伊豆諸島には造島の後それぞれ后をを配置し、神津島の阿波比咩命はその中の一柱に当たるからです。伊古奈比咩神社は、阿波比咩命に配慮して、自社の御祭神を三島神「最愛の后」と表現しておられます。

 

 

上の時系列を更に詳しく見る前に「地震=神の祟り」について、古代人の認識を再確認します。『日本書紀』には数多くの地震の記録が存在しますが、

推古天皇七年(599)夏四月乙未朔辛酉(4月27日)には

 

地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。

 

四方に令(のりごと)して、地震の神を祭(いの)らしむ。

とあり、地震は神の為せる業、という当時の認識を確認できます。

 

そして、その後最大の地震の記録が「白鳳地震」です。

 

天武天皇十三年(684)冬十月壬辰(10月14日)

逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社、破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃、没為海。古老曰、若是地動未曾有也。是夕、有鳴声、如鼓聞于東方。有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益三百余丈更為一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。

 

国挙(こぞ)りて男女叫び唱ひて不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる。

時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(しろ)※約12平方キロ、没れて海と為る。古老の曰はく、『是の如く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ。

 

(同年)十一月庚戌(11月3日)

土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。

 

大潮高く騰(あが)りて、海水瓢蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調運ぶ船、多に放れ失せぬ。

 

 

話が一旦それますが、私は古代阿波国の首長一族が四国をすてて畿内へ移住したのは、この白鳳地震が直接の原因だと以前から言っていますが、人によっては「理由としては弱い」と反論します。しかし、私に言わせれば、それはこれらの地震を現代人の感覚で「大規模自然災害」だと捉えるからです。地震津波のメカニズムを知識として知っているからです。当時の人々は、それがやがて止むことも、いつかまた再活動することも知りません。一連の地震津波は「神の祟り」なのです。彼らがどれほど震えおののいたかを彼らの気持ちになって実感しなければなりません。

 

◎『日本書紀』における天武年間の地震活動(Wikipedia

 

天武4年
11月(675年終盤) - 是月 大地動
天武6年
6月14日(677年7月19日[J]、7月22日[G]) - 大震動

天武7年
12月(679年初頭) - 是月 筑紫国大地動之 地裂広二丈 長三千余丈 百姓舍屋 毎村多仆壌 是時百姓一家有岡上 当于地動夕 以岡崩処遷 然家既全 而無破壌 家人不知岡崩家避 但会明後 知以大驚焉
天武8年
10月11日(679年11月19日[J]、11月22日[G]) - 地震
11月14日(679年12月21日[J]、12月24日[G]) - 地震
天武9年
9月23日(680年10月21日[J]、10月24日[G]) - 地震
天武10年
3月21日(681年4月14日[J]、4月17日[G]) - 地震
6月24日(681年7月15日[J]、7月18日[G]) - 地震
10月18日(681年12月3日[J]、12月6日[G]) - 地震
11月2日(681年12月17日[J]、12月20日[G]) - 地震
天武11年
正月19日(682年3月3日[J]、3月6日[G]) - 地動
3月7日(682年4月19日[J]、4月22日[G]) - 地震
7月17日(682年8月25日[J]、8月28日[G]) - 地震
8月12日(682年9月19日[J]、9月22日[G]) - 大地動
8月17日(682年9月24日[J]、9月27日[G]) - 亦地震 是日平旦 有虹当于天中央 以向日
天武13年
10月14日(684年11月26日[J]、11月29日[G]) - 白鳳地震
天武14年
12月10日(686年1月9日[J]、1月12日[G]) - 自西発之地震
朱鳥元年
正月19日(686年2月17日[J]、2月20日[G]) - 地震
11月17日(686年12月7日[J]、12月10日[G]) - 地震

※(ユリウス暦[J]・グレゴリオ暦[G])

 

繰り返しますが、当時の人々は当然「本震・余震」というものも知りません。長年に渡る余震の後の本震(白鳳地震)は「彼らの心を折った」大地震でした。その後に続く余震もまた「いつまた、あの大地震津波がこの土地を襲うのか」という恐怖に打ち震える現象だったに違いありません。

 

また以前から紹介するように、「この白鳳地震の被害の様子」は「主体」つまり「当時の都の場所」が書かれていません。岩利大閑氏はこれを「都が阿波にあった証拠」の一つとしています。何故ならば、この白鳳地震は「南海トラフ地震」であり、もし、都が大和にあったなら、その地震津波の被害の記録は、主に紀伊半島主体のものになるはずだからです。

土佐国津波が来て紀伊国に来ないはずがありません。土佐伊予の被害だけが書かれているのは、主語のない「国挙(こぞ)りて男女叫び唱ひて不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる」という地震の様子が、阿波讃岐のものだからです。他は被害を受けた隣接する国の名を挙げているのです。

 

この岩利大閑氏のロジックは、近年その証明が進んでいます。

 

ところで、この大地震に関する『日本書紀』の記述は、土佐を中心とした四国だけの災害に触れている。このため、南海トラフに沿う3つの震源域(東海・東南海・南海)の西端にあたる南海地震の最古の記録と評価されてきた。

しかし近年、日本各地で進められてきた過去の津波堆積物の調査から、さらに東に当たる三重県志摩半島静岡県磐田市を流れる太田川の流域で、7世紀後半とみられる津波堆積物が発見された。白鳳大地震の発生は西暦684年だから、それらの堆積物は、白鳳大地震によるものと推定された

したがって、『日本書紀』に記された白鳳大地震は、南海トラフに沿う3つの震源域がほぼ同時に活動した、いわゆる3連動地震だった可能性が高いと判断されたのである。

※引用元

【国土を脅かす地震と噴火】6 日本書紀に残る記録② 広大な土地が海面下に/伊藤 和明|労働新聞連載記事|労働新聞社

 

ならば何故、土佐ではなく、都に近いはずの大和周辺諸国津波被害の様子が語られないのでしょうか?

 

 

そしてもう一点、ここには不思議な記述があります。

赤字で示したように、伊予・土佐以外にもう一か所だけ、その名の挙がった地域があります。それが「伊豆」です。

 

是夕、有鳴声、如鼓聞于東方。

有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益三百余丈、更為一嶋

則如鼓音者、神造是嶋響也。

 

この夕、東方で鼓のような音が鳴り響いた。

ある人曰く「伊豆島の西と北の二面が自然に三百余丈まで広がり、更に一つの島と為った。則ち、鼓の音の如く聞こえたものは、神がこの島をお造りになった際の響きである」と。

 

ここで国史初見の伊豆諸島の地震と島の造成の様子が記され、それがまた神の仕業であると認識されていたことに注意する必要があります。

南海トラフ三連動地震の報告で、四国と伊豆の地名だけが挙がっているのは偶然ではありません。一部の人は、

 

この両地域の地震を起こした神の一致性を頭に描いたのです。

 

 

■ 長くなったので2回に分けます。■