空と風

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鳥の一族 19 - ⑧ 番外編 伊古奈比咩命 その壱

今回は、伊古奈比咩命について、このシリーズにおける番外編として、また備忘録として書くことにします。

実は、江戸時代のある史料(このあとの回で公開)をFacebookで紹介し、みなさんの意見を聞いた中で、ある古代史研究家の方から驚くようなコメントをいただきました。仮説の一つではありますが、その意見をもとに自分なりに検証したいと思います。

 

 

awanonoraneko.hatenadiary.com

 

 

上に書いたように、伊豆三嶋神本后長浜神阿波咩命」、後后白浜神伊古奈比咩命」とされています。『続日本後紀』・斉衡2年(855)~貞観11年(869)に記される「阿波神はこれ三嶋大社の本后なり」、平田篤胤の『古史伝』・文化9年(1812)~文政8年(1825)の「事代主神また三島神社に座す。此の神の后を伊古奈比咩神と申す。また本后を阿波命神と申す」等の文献がこれを語っています。

 

 

 

続日本後紀 巻第9-13 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

上の続日本後紀』は19-⑦に貼付したものの続きです。阿波神の祟り(神津島の噴火)の理由を書いた部分で、一行目の三嶋大社本后」が阿波神(阿波咩命)であり、「(先んじて)冠位を賜った後后」とあるのが伊古奈比咩命です。

 

日本後紀』承和7年(840)の、天長9年(832)5月22日条に

伊豆国言上す。三島神 伊古奈比咩神、二前を名神に預る。此神、深谷を塞ぎ、高巌を摧(くだ)き、平造の地二千町許(ばかり)、神宮二院 池三処を作す。神異の事勝計すべからず。

とあります。

 

 

 

 

神階(神位)は『続日本紀天平神護二年(766)の「伊予国神野郡伊曽乃神、越智郡大山積神、並授従四位下、充二神戸一各五烟、久米郡伊予神、野間郡野間神、並授従五位下、神戸各二烟」とあるのを国史初見とし、嘉祥4年(851)には制度化され、全国の神社の御祭神に正六位以上の神階が授けられました。このとき六位とされたのは、それまで無位だった神々です。

神階は朝廷の位階と同じく、従五位下から上が別格とされ、伊古奈比咩命のように、それ以前から「名神」とされていた神、並びに「大社」を授かっていた神は、自動的に従五位下となりました。

 

『續日本後紀承和7年(840)9月の記事に、その2年前の神津島の噴火が「阿波神の祟りによるものだった」と記され、同年10月に「無位だった阿波神と物忌奈乃命が従五位下を奉授する」と記された、その異例の授与の意味が理解できると思います。

ところで、上記の「名神」とは何か? というと、「名神」という「国家に大事のある時に奉幣使を遣わして神に幣帛を捧げ祈願する臨時の祭り」があり、「その対象と定められた神」のことです。

 

最初に、古代史の友人(県外の方)が「驚くような意見を述べた」と書いた、その内容とは「阿波比咩命と伊古奈比咩命は同神」というものでした。史料やネット上の文章も含め、私自身も考えたこともない意見です。あの平田篤胤の考察にさえ挙がっていません。何故ならば、全ては続日本後紀』の記述が出発点になっているからです。つまり、阿波比咩命と伊古奈比咩命の関係を再考するためには『続日本後紀』の記述の正否を検討することになります。

 

過去に何度も指摘しましたが、古代のことを知るためには、古代人の感性や常識に従わなければなりません。古代の日本人にとって「神の祟り」は、迷信や空想ではなく「現実としてあるもの」でした。天変地異はその代表的な祟りの一つです。一般人はもちろん審神者も「神の怒り」の意味を知ろうとする時には、当然「その背景」を考えます。本物の審神者は神の言葉を伝えるのでしょうが、職業や立場的に審神者として朝廷や国司から答えを求められた場合は、当然知識を動員して「それらしい答え」を示す必要があります。これはこの件に限らず、公的に神意を知る必要がある時は、どんな場合でも同じです。(例えば、内宮と外宮の関係など)

 

 

神津島 有史以降の火山活動」気象庁 より


今回の話の場合、まず、承和5(838)年の「神津島の噴火」があり、人々は、当然それは、そこに祀られる神(阿波神と物忌奈乃命)の怒りだと考えました。

その噴火がどのようなものだったのか?『続日本後紀』の記述を振り返ってみましょう。

 

九月乙未(二十三日) 伊豆国が次のように言上してきた。

賀茂郡に上津島(神津島)という名の造作をしている島があります。

この島に鎮座する阿波神は、三嶋大社の本来の后神です。また、鎮座しています物忌奈乃命は、阿波神の御子神です。

※ 此嶋 坐 阿波神、是三嶋大社本后也、又 坐 物忌奈乃命、 即 前社 御子神

 

この島に新たに神宮四院(院は建物のある一画)と石室二間・二間・(高殿)十三基が出現しました。

上津島の様相は草木が繁茂し、島の東・南・北には険しい山地が展開していて人も船も近づけず、わずかに西に船が着岸できる浜があります。

今回、島は咸(ことごと)く焼け崩れて、海岸に陸地と砂浜二千町ほどが出現しました。島の東北の隅に新しく神院ができ、その中に高さ五百丈(1.5kmほど、周囲八百丈(2.4kmほどの、鉢を伏せた形の高台ができ、東方の海岸の端に四段の階があり、青・黄・赤・白色の砂が敷かれた状態になっていて、その上に高さ四丈ほどの閣があります。

次に島の南の海岸には、それぞれ長さ十丈ほど、広さ四丈ほど、高さ三丈ほどの石室が二間出現しました。その中には五色の尖った石が屛風のように立ち、岸壁には波が打ち寄せ、山川の上を雲が飛んでいくように見え、何とも称しがたい微妙な光景です。石室の前には夾纈(染色法の一で、板締め)の幔幕が懸けられたように見え、五色の砂の拡がる美しい浜となっています。

次に島の南の海辺の一方には一の磯があり、そこは三分の二が悉(ことごと)く金色で、表現しかねるほどのまばゆい屛風を立てたようになっています。

また、島の東南の隅には、それぞれ高さ二丈ほど、広さ一丈ほどの白土で築き固められた二重の垣で囲まれた一つの院が新たに出現しています。垣の南には二つのがあり、院内の中央に周囲六百丈ほど、高さ五百丈ほどの高台があります。その南の隅の岸辺には十二基の閣室が出現し、そのうちの八基は南を向き、四基が西向きで、それぞれ周囲二十丈ほど、高さが十二丈ほどあります。

院の上方にある階の東には屋一間が出現し、瓦葺き様で、長さ十丈ほど、広さ四丈ほど、高さが六丈ほどあり、その壁は白石で立ち固め、南側に戸口が一つあります。その西方にも一屋が出現し、黒瓦で葺いた形をし、その壁は赤土で塗られ、東に戸口が一つあります。この院内の小石や砂は皆金色です。

また、島の西北の隅にも新しい院が出現していますが、周囲の垣は未完成です。この院内には、それぞれ周囲八百丈ほど、高さ六百丈ほどの二つの高台があります。その形は盆を伏せたように見え、南の岸辺の片隅に二重の階が出現し、白砂が敷かれています。

高台の頂上部は平らで美しく見えます。

北方から西南にかけて長さ十二里(47km)ほど、広さ五里(19km)ほどが悉く砂浜となり、西北から北東にかけて長さ八里ほど、広さ五里ほどが、同様に砂浜となりました。

新しくできた右の二院の所在する場所は、元来は海中でした。

また、島の山の峰に一つの院と一つの門が出現しました。

頂上に人が坐った形をした高さ十丈ほどの石があり、右手に剣をとり左手に桙を持ち、その後には侍者がいて跪いて主人を見上げているように見えます。頂上のあたりは高く険しくて見極めることができません。

 

以上記した以外、あたりは焼け続けており、詳しく記すことができません。

島では去る承和五年七月五日夜に火を噴き始め、上津島の周辺の海中が焼け、炎が野火の如く広がり、十二人の童子が次々に炬を持ち、火をつけながら海の方へ下りていきました。童子らは陸地同様に海上を進み、水が地中に滲みこむように消えていきました。

大きな石を噴き上げ、焼き崩し、炎は天に達するほどでした。あたりは朦朧として、あちこちに火炎が飛び、このような状態が十日も続き、灰であたりは覆われてしまいました。

 

そこで、諸々の神官や村役人を召集して卜ってみますと、

三嶋大社の本后である阿波神が五人の子を生みましたが、後后の方が位階を賜ったにもかかわらず、叙階に預からず、それを求めて祟りをなし怪異を起こした

ことが判りました。

 

阿波神は、神官や村役人が卜占の結果である祟りのことを告げなければ、荒々しい火で神官らを亡者とし、国郡司が阿波神の位階授与のために尽力しなければ、国郡司を亡ぼし、尽力して願を成就すれば、天下・国郡は平安で、産業は豊かになり、穀物は稔ることになるだろうということでした。

 

今年七月十二日に上津島を眺めますと、煙で四面が覆われ何も見えませんでしたが、最近雲霧がとれて、神が作りました院の類はっきり見えるようになりました。

これは 神が感応したことによるものであります。

 

 

 

 

十月 丙辰(十四日)

無位阿波神物忌奈乃命に並びに従五位下を授け奉った

伊豆国で島の造作を行うという霊験によってである。


森田悌 続日本後紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫

※一部()でふりがなや説明を加えました。

※一丈(約3m)百丈(約300m)

 

神津島 - 地質概説 -より引用(以下)

 

「上津島本體、草木繁茂、東南北方巌峻..、人船不到、纔西面有泊宿之濱」
とあるのは噴火前の状態を示すもので、

「今咸焼崩、与海共成陸地幷沙濱、二千許町」
は主として当時の谷に沿って山腹を流下した火砕流が海に広がって新しい陸地を造ったことに相当し、

「其嶋東北角有新造神院、其中有壟、高五百許丈、基周八百許丈、其形如伏鉢」
は壟=冢(つか)であることから、この文章は天上山全体を記述していると見て間違いない。

「上津島左右海中焼、炎如野火、十二童子相接取炬、下海 附火.......」
火砕流が海に流入する状況を描写したものである。

これらの記事を総合すると、承和5年7月5日(西暦838年7月29日)から神津島で始まった噴火は火砕流流出を神いなから“鉢を伏せたような”山(火砕丘+溶岩円頂丘)を峰き上げた。

山城国平安京では、18日には火山灰が降ったりやんだりし、20日には東方に当って神鼓を打つような音(爆発音)が聞かれた。
7月から9月にかけて、本州中部の広い範囲にわたって降灰が見られたが、農作物などへの被害はなかった。
承和7年9月(西暦840年10月)になっても「燎燄未止」と書かれているところを見ると、噴出物はなお高温であったものと思われる。

 

~引用ここまで~

 

 

時系列で見ると、

 

1️⃣ 天長9年(832)5月22日 三嶋神・伊古奈比咩命、両神が「名神」を授かる。

2️⃣ 承和5年(838)7月5日  神津島の噴火が始まる。

3️⃣ 承和7年(840)7月12日 噴煙に覆われ、遠目には未だ島が見えず。

             卜占の結果、噴火は阿波神の祟りであり、神は

             「後后が奉授した神階を同様に自分にも授けるよう」

             朝廷に働きかけることを国郡司に要求。

4️⃣ 承和7年(840)9月23日 伊豆国がこれを言上したことにより

              火山活動が収束に向かう。

              視界が晴れ島の様子が明らかになる。

5️⃣ 承和7年(840)10月14日 阿波神・物忌奈乃命、従五位下を奉授。

 

という流れになります。

 

 

www.youtube.com

 

 

伊豆小笠原諸島は、今も火山活動により島が出現したり海中に沈んだりしていますが、神津島の噴火も、天上山の形成、地形の変化を伴い、京の都まで火山灰が飛ぶという凄まじいものでした。

古事記では、伊邪那岐命伊邪那美命による国生み神話が描かれますが、このとき人々はタイムリーに「島の造成」というものを目の当たりにしたわけです。

当時の人々にとって、この造成は「神の働き」によるものですが、そのすさまじい様子は、同時に「神の怒り」による祟りであると受け止められました。

そこで現地の人々は、この「神の意志」を探ろうとし、神官や役人を招集します。

このようなケースで彼らが知ろうとするポイントは、常に三つです。

 

①祟りなす神は、どなたであるか?

②何をお怒りなのか?

③怒りを静めていただくためには何をお望みなのか?

 

神津島では複数の人間を招集していることからも「卜占」と同時に、人間の頭でも「考えた」様子が伺えます。そこで、彼らの気持ちになって考えてみましょう。

①は、誰しもが「神津島で祀られる神」=「阿波神・物忌奈乃命」だと思うでしょう。

そこで、②に考えを巡らせると「天長9年(832)に、三嶋神と伊古奈比咩命神が朝廷から神位を授かった」という事実に行き着いた。おそらく、全員一致で「これだ!」と思ったに違いありません。

当然、次に、阿波比咩と伊古奈比咩の関係を考えます。「もし、伊古奈比咩が三嶋神の正妻であるならば、阿波比咩にこれほど激しく祟る道理はないだろう」しかし「阿波比咩と伊古奈比咩が本后と後后の関係」ならば「自分を長浜において、夫と後后が仲良く白浜で祀られ、あまつさえ共に名神に選ばれた」ことは「許しがたい人間の所業」となるだろう。

と、人間側の思考で物語づけた。といったところが『続日本後紀』記述の正体なのでしょう。

 

もちろん「阿波比咩は三嶋神の本后」という部分は独立した伝承だった可能性もあります。ただ、この情報は見ての通り、朝廷や神祇官のものではなく「伊豆国からの言上」であり、その出処は「祟りの原因を探った卜占」です。そこに実際の夫婦関係の情報が含まれていたかどうか?は不明です。

 

一方の「伊古奈比咩側はどのように伝承しているのか?」というと、これもあまり参考にはなりません。時代はぐっと下り、鎌倉時代末期の成立と云う『三宅記』と呼ばれる神社縁起による情報となります。これは本地垂迹説に基づく社の縁起を語っており、三嶋神の出自や伊豆諸島の造成の部分は取るに足りない中世神話です。この後の時代に続く『神道集』に似たところがありますが、神話の中に実際の当時の伝承が含まれている可能性を含み、そこだけには注目する必要があります。

 

 

上の時系列を更に詳しく見る前に「地震=神の祟り」について、古代人の認識を再確認します。『日本書紀』には数多くの地震の記録が存在しますが、

推古天皇七年(599)夏四月乙未朔辛酉(4月27日)には

 

地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。

四方に令(のりごと)して、地震の神を祭(いの)らしむ。

とあり、地震は神の為せる業、という当時の認識を確認できます。

 

そして、その後最大の地震の記録が「白鳳地震」です。

 

天武天皇十三年(684)冬十月壬辰(10月14日)

逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社、破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃、没為海。古老曰、若是地動未曾有也。是夕、有鳴声、如鼓聞于東方。有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益三百余丈更為一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。

国挙(こぞ)りて男女叫び唱ひて不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる。

時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(しろ)※約12平方キロ、没れて海と為る。古老の曰はく、『是の如く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ。

(同年)十一月庚戌(11月3日)

土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。

大潮高く騰(あが)りて、海水瓢蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調運ぶ船、多に放れ失せぬ。

 

 

話が一旦それますが、私は古代阿波国の首長一族が四国をすてて畿内へ移住したのは、この白鳳地震が原因だと以前から言っていますが、人によっては「理由としては弱い」と反論します。しかし、私に言わせれば、それはこれらの地震を現代人の感覚で「大規模自然災害」だと捉えるからです。地震津波のメカニズムを知識として知っているからです。当時の人々は、それがやがて止むことも、いつかまた再活動することも知りません。一連の地震津波は「神の祟り」なのです。彼らがどれほど震えおののいたかを彼らの気持ちになって実感しなければなりません。

 

◎『日本書紀』における天武年間の地震活動(Wikipedia

 

天武4年
11月(675年終盤) - 是月 大地動
天武6年
6月14日(677年7月19日[J]、7月22日[G]) - 大震動

天武7年
12月(679年初頭) - 是月 筑紫国大地動之 地裂広二丈 長三千余丈 百姓舍屋 毎村多仆壌 是時百姓一家有岡上 当于地動夕 以岡崩処遷 然家既全 而無破壌 家人不知岡崩家避 但会明後 知以大驚焉
天武8年
10月11日(679年11月19日[J]、11月22日[G]) - 地震
11月14日(679年12月21日[J]、12月24日[G]) - 地震
天武9年
9月23日(680年10月21日[J]、10月24日[G]) - 地震
天武10年
3月21日(681年4月14日[J]、4月17日[G]) - 地震
6月24日(681年7月15日[J]、7月18日[G]) - 地震
10月18日(681年12月3日[J]、12月6日[G]) - 地震
11月2日(681年12月17日[J]、12月20日[G]) - 地震
天武11年
正月19日(682年3月3日[J]、3月6日[G]) - 地動
3月7日(682年4月19日[J]、4月22日[G]) - 地震
7月17日(682年8月25日[J]、8月28日[G]) - 地震
8月12日(682年9月19日[J]、9月22日[G]) - 大地動
8月17日(682年9月24日[J]、9月27日[G]) - 亦地震 是日平旦 有虹当于天中央 以向日
天武13年
10月14日(684年11月26日[J]、11月29日[G]) - 白鳳地震
天武14年
12月10日(686年1月9日[J]、1月12日[G]) - 自西発之地震
朱鳥元年
正月19日(686年2月17日[J]、2月20日[G]) - 地震
11月17日(686年12月7日[J]、12月10日[G]) - 地震

※(ユリウス暦[J]・グレゴリオ暦[G])

 

繰り返しますが、当時の人々は当然「本震・余震」というものも知りません。長年に渡る余震の後の本震(白鳳地震)は「彼らの心を折った」大地震でした。その後に続く余震もまた「いつまた、あの大地震津波がこの土地を襲うのか」という恐怖に打ち震える現象だったに違いありません。

 

また以前から紹介するように、「この白鳳地震の被害の様子」は「主体」つまり「当時の都の場所」が書かれていません。岩利大閑氏はこれを「都が阿波にあった証拠」の一つとしています。何故ならば、この白鳳地震は「南海トラフ地震」であり、もし、都が大和にあったなら、その地震津波の被害の記録は、主に紀伊半島主体のものになるはずだからです。

土佐国津波が来て紀伊国に来ないはずがありません。土佐伊予の被害だけが書かれているのは、主語のない「国挙(こぞ)りて男女叫び唱ひて不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊(やぶ)れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多(さは)に死傷(そこな)はる」という地震の様子が、阿波讃岐のものだからです。他は被害を受けた隣接する国の名を挙げているのです。

 

この岩利大閑氏のロジックは、近年その証明が進んでいます。

 

ところで、この大地震に関する『日本書紀』の記述は、土佐を中心とした四国だけの災害に触れている。このため、南海トラフに沿う3つの震源域(東海・東南海・南海)の西端にあたる南海地震の最古の記録と評価されてきた。

しかし近年、日本各地で進められてきた過去の津波堆積物の調査から、さらに東に当たる三重県志摩半島静岡県磐田市を流れる太田川の流域で、7世紀後半とみられる津波堆積物が発見された。白鳳大地震の発生は西暦684年だから、それらの堆積物は、白鳳大地震によるものと推定された

したがって、『日本書紀』に記された白鳳大地震は、南海トラフに沿う3つの震源域がほぼ同時に活動した、いわゆる3連動地震だった可能性が高いと判断されたのである。

※引用元

【国土を脅かす地震と噴火】6 日本書紀に残る記録② 広大な土地が海面下に/伊藤 和明|労働新聞連載記事|労働新聞社

 

ならば何故、都に近いはずの大和周辺国の津波被害の様子が語られないのでしょうか?

 

 

そしてもう一点、ここには不思議な記述があります。

赤字で示したように、伊予・土佐以外にもう一か所だけ、その名の挙がった地域があります。それが「伊豆」です。

 

是夕、有鳴声、如鼓聞于東方。

有人曰、伊豆嶋西北二面、自然増益三百余丈、更為一嶋

則如鼓音者、神造是嶋響也。

 

この夕、東方で鼓のような音が鳴り響いた。

ある人曰く「伊豆島の西と北の二面が自然に三百余丈まで広がり、更に一つの島と為った。則ち、鼓の音の如く聞こえたものは、神がこの島をお造りになった際の響きである」と。

 

ここで国史初見の伊豆諸島の地震と島の造成の様子が記され、それがまた神の仕業であると認識されていたことに注意する必要があります。

南海トラフ三連動地震の報告で、四国と伊豆の地名だけが挙がっているのは偶然ではありません。一部の人は、

 

この両地域の地震を起こした神の一致性を頭に描いたのです。

 

 

■ 長くなったので2回に分けます。■