前回、「もうひとり、有名な 天石門別神の娘 と云われる女神がいらっしゃいます」と締めくくった、その女神が坐しますのは、阿波ではなく、土佐国の朝倉社です。
以前書いたように「勝浦」の本来の訓みは「カツラ」が正しく、土佐においては訓みを優先し勝浦浜の漢字表記を「桂」浜に変えました。阿波で「勝浦・勝占」(カツラ)の神といえば事代主命ですが、勝浦浜の北方、土佐一宮土佐神社には兄の阿遅鉏高日子根神が祀られます。そして西方には土佐二宮朝倉神社が鎮座。御祭神は后神と伝わる天津羽羽神です。
両神社と勝浦浜・長浜は直線距離で9~10Kmほど離れており、一見無関係に見えますが、実は古代の浦戸湾は内陸に大きく入り込んでおり、その入り口がこの浜でした。
現在の高知市街中心部は海水の下です。勝浦浜・長浜の真北の浜辺に見える鳥居が高鴨社(現在の土佐神社)。入り江の西端は福井まで海水が来ていますが、その西の小山の麓に朝倉神社が鎮座します。
土左の國の風土記に曰はく 土左の郡(こほり)朝倉の郷(さと)あり
郷の中(うち)に社(やしろ)あり
神のみ名は天津羽羽(あまつはは)の神
天石帆別(あまのいはほわけ)の命
今 天石門別(あまのいはとわけ)の神のみ子なり
過去記事でも触れましたが、ネットに流れている文章(各地の伝承含む)には不確かな点があったため、原文を確認しました。
※例えば、岩波書店・日本古典文学大系の『風土記』でも、天石帆別「命」が「神」となっていて、次の「今」の文字が抜けています。
「天石帆別神」を①「天津羽羽神の別名」とする解釈と、②「天石門別神の別名」とする解釈がありますが、釋日本紀には「天石帆別命 今 天石門別神」と記されており、②の文意かと思われます。
①「神名は天津羽羽神(天石帆別命)」「今 天石門別神」の「子」なり
② 神名は天津羽羽神 「天石帆別命 今 天石門別神」の「子」なり
※「子」=「天津羽羽神」なので、① だと文章が成立しません。
『土佐国式社考』では「度会氏曰く、天石帆別命の五字は注文に當たると為す。天石門別神は吾川郡に坐す天石門別安國玉主天神(式内社)のことなり。此(か)く言う天津羽羽神は即ち天石帆別命而して玉主天神の子也」と記します。
谷秦山(たにじんざん)は続けて
石帆別(いはほわけ)は『新撰姓氏録』に石穂押別(いはほおしわく)と作(な)す。『日本書紀』は磐排別(いはおしわく)は吉野国樔(くず)部らの始祖(もとつおや)なりと云う。
大和国吉野郡の式内社 波寶神社 の波寶(はほ)の音は羽羽(はは)に通じ、国樔は吉野の大姓にて、波寶神社はその祖神を祀るもの也、とし、御祭神は天津羽羽神であろう、との自説を展開します。
※現在は御祭神を 住吉明神、神功皇后 とするが、本来の御祭神は不明で『大和志料』は祭神不詳、『神名帳考証』は磐排別神としています。
この見方が正しければ、国樔の後裔氏族は、自らの氏神・祖神を磐排別ではなく、天津羽羽神と認識していたことになります。
神武天皇行幸吉野時 川上有遊人 于時天皇御覧 即入穴 須臾又出遊 窃窺之喚問 答曰 石穂押別神子也 尓時詔賜国栖名
然後孝徳天皇御世 始賜名人国栖意世古 次号世古二人 允恭天皇御世乙未年中七節進御贄 仕奉神態 至今不絶
※『新撰姓氏録』に石帆別=石穂押別と記しているわけではない。
気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社(いぶきいかづちなるいかづちよしのおおくずみたまのかみやしろ)二座
という式内社があります。名神大社でありながら廃絶社となっており、社地も御祭神も不明です。
この神社について『和州五郡神社神名帳大略注解』に
波多郷稲渕山山上 古老口談伝
氣吹雷響雷神社氣吹戸神也 其水吹出神謂之氣吹雷神也
其氣戸水神謂之鳴水雷神也
或曰 吉野大国栖御魂神社磐穂押別神之子也
元社在 吉野郡国栖村 故云吉野大国栖御魂神 奉遷座此所 未考其由矣
とあります。
『大略注解』は、二座の御祭神を
吉野大国栖御魂神 = 磐穂押別神之子
であるとします。
この社名について、延喜式に高市郡の社と記されることから「気吹雷響雷」神が社名で「吉野大国栖御魂」神は、後世の付記注釈のようなもの(気吹雷響雷神=吉野大国栖御魂神)が併記されるようになったもの、という見方があります。
仮にその通りであれば、上の口伝を当てはめると、御祭神は「氣吹雷神」と「鳴雷神」で、その神々の実体が、吉野大国栖御魂である「磐穂押別神之子」であるところの「氣吹戸神」となります。
上記リンク先にあるように、磐穂押別神之子は、記紀では「石押分之子」「磐排別子」(いはおしわくのこ)と記され、「之子」は「石押分(の子供)」という意味ではなく愛称である、とも言われていますが、それはそう考えなければ意味がわからない、ということに過ぎないのではないでしょうか。
石穂押別 = 石帆別 = 天石門別神であるなら、
「石押分之子」とは「天石門別神の子」である 天津羽羽神 を指すと言えます。
それでこそ、吉野郡の式内社 波寶神社が、吉野国樔の祖神として天津羽羽神を祀るもの、という谷秦山の言に繋がってゆきます。
その御祭神が「石押分」神、ではなく「石押分之子」神である「天津羽羽」神であるなら波寶(はは)神社 の社名も理解できるというものです。
波寶(はほう)が羽羽(はは)に通ず、という説明には抵抗を感じる方もいると思われますが、
古代「は」の発音は「ふぁ」でした。
波寶(はほ)→(ふぁふぉ)の神
羽羽(はは)→(ふぁふぁ)の神
漢字に惑わされてはいけません。
アサクラ神といえば、紀伊国名草郡に、式内社の 朝椋(あさくら)神社 があります。
現在は大国主命をお祀りしていますが、本来の御祭神は不明です。
『紀伊続風土記』(1806~1839年)もまた、谷秦山同様、天石帆別命を国栖の祖とし、朝椋神は土佐国・朝倉神社と同神の「天石帆別命」ではないか、と記しています。
朝倉神=天津羽羽神ですから、ここでも『釈日本紀』土佐国風土記逸文にある天石帆別神を天津羽羽神の別名と解釈していることが分かります。
ただし、「御祭神・天石帆別命」が間違いだったとしても、朝倉神と朝椋神が同神である可能性は極めて高いでしょう。
甲斐国一宮である 式内社「浅間神社」(笛吹市一宮町・論社の一社)社家の古屋家に伝わる『古屋家家譜』という大伴氏の古系譜があります。
この系譜に大伴氏祖神の一柱として 天石門別安国玉主命 の神名があり、「一名 大国栖玉命」「一名 大刀辛雄命」「紀伊国名草郡朝椋神社 同国同郡九頭神社等是也」とあります。さらには「妻神 八倉比売命」と付記されています。
この系図が正しければ、 朝椋神社の御祭神は、土佐国に天津羽羽神の父と伝わる天石門別安國玉主天神ということになります。また『古屋家家譜』は「妻神 八倉比売命」としていることから、確信を持って朝椋神を天津羽羽神の父神と断言しています。
天石門別安國玉主神=天石門別神ですから、天石門別神=天手刀雄神で、その后神が八倉比売神という関係は『安房斎部系図』に一致します。
『阿波国風土記編輯雜纂』の「倭大國玉神大國敷神社」の項にも「天日鷲命ハ 即日向皇子ニテ 是天石門別神 其御霊ヲ倭大國玉神トイフ 天石門別神 櫛磐竃神ノ后神ヲ 天石門別八倉姫トイフ」とあります。
ただし、『安房斎部系図』では、天手刀雄神と八倉比売神の御子が天日鷲命。近しい混乱が見られます。
神名の中には、代々その名を引き継ぐものがあるため混乱を生むことがりますが、先に正解を書くと、八倉比売神とは天石門別神の妻ではなく娘です。(天石門別神と天石門別安国玉主神、八倉比売と天石門別八倉比売は一代違いの別人である可能性もあるわけです。私は密かに天石門別安国玉主神とは天石門別神の御子であるあの神である可能性を考えています)
しかしながら、朝椋(あさくら)神は、朝倉(あさくら)神。
朝倉神が天津羽羽神なら、朝椋神も天石門別安國玉主神ではなく、その娘・天津羽羽神です。
そして、実はこの天津羽羽神こそが八倉比売神なのです。
上記の情報をまとめると、
吉野の国栖の大御魂神 は 磐穂押別神(天石門別神)之子
であり、その名は
氣吹雷響雷神 = 気吹戸主 = 天津羽羽神
となります。
『倭姫命世記』には、
多賀宮一座 豊受荒魂 也 伊弉那伎神所生神 名 伊吹戸主
亦名日 神直日大直毘神 是也
とあり、
氣吹雷響雷神とは、天津羽羽神 であり 豊受大神荒魂 である、
ということがわかります。
※ 参考ブログ
昌幸さん御元気にされておられるかな?