空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

鳥の一族 19 - ⑥ 丹生都比売命

awanonoraneko.hatenadiary.com

 

前回、阿波咩命を御祭神とする長浜神社の鎮座地に、長浜、長井崎、長瀬、長岡という「」地名群の他、伊豆葛城山がそびえることを紹介しました。

阿波国紀伊水道を挟んで向かい合う紀伊国。流れる川も同じ吉野川紀の川)。その川沿いにもまた那賀郡があり、東隣に伊都郡。そこに「かつらぎ町」があります。町名は和泉葛城山に因むものです。

 

青字の範囲が那賀郡

 

 

awanonoraneko.hatenadiary.com

 

上では、波寶(はほ・ははふ)神社の真の御祭神は、吉野国樔の祖神である天津羽羽神との見方を示しましたが、『延喜式神名帳の「波寶神社」は、写本の一つ「卜部兼永本」には「波売宝神社」とあります。

日本文徳天皇実録』天安二年(858)、『日本三代実録貞観六年(864)、同八年に記載のある「波宝神社」は、いずれも同郡の式内社波比売神社」と並記され神階も常に同じ(画像でも並び授けると記述)になっています。

 

天安2年(858年)4月 『日本文徳天皇実録』- 坐大和国 従五位下 波寶神 波比売神 並預 官社  同年 波寶神 波比売神 従四位下
貞観6年(864年)6月23日 『日本三代実録』- 波寶神 波比売神 正四位下
貞観8年(866年)11月4日 『日本三代実録』- 波寶神 波比売神 従三位

 

 

 

 

卜部兼永本の「波売宝神」が単純な誤記でなければ、この二社の密接な関係を示唆するものかもしれません。比売神社の現在の御祭神は水波能売神です。本来の御祭神は波比売神ですから、波比売は水波能売の別名ということになります。「比売」の「波」は「水の比売」との解釈かもしれません。あるいは、波比売が本来水神であり、水波能売神を結びつけた可能性もあります。

ただ、リンク先で解説したように波宝(はほ)神は羽羽(はは)神ですから、「宝比売と比売は一体」と解すれば「波波比売」、つまり二柱の御神名もまた「天津羽羽神」を表しているようにも見えます。阿波比売命と己等乃麻知比売命のように、和魂と荒魂の関係なのかもしれません。そして実は、この天津羽羽神もまた「水神」の一面を備えた女神なのです。


波宝神社の鎮座地「夜中」については、神功皇后三韓征伐から帰還され、紀伊へ赴く際に当山で休まれたが、そのとき白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなったため、神に祈ると再び日が照りだした、との地名由来がありますが、波宝神が天津羽羽神であれば、その父は天石門別神=天手力男神ですから、日食説話と言われるこのエピソードは、むしろ天岩戸神話を彷彿させるものと言えるでしょう。

 

波宝神社」は、「吉野三山」と称される峰のうち、「銀峯山(白銀岳)」に、「波比売神社」は「金峯山(栃原岳)」に、「櫃ヶ岳八幡宮」が「銅岳(櫃ヶ岳)」に、それぞれ鎮座します。最も高い櫃ヶ岳(ひつがたけ)からは下に大和丹生川の流れを眺め、葛城山脈を北西に望む地勢となっています。

実は、諸説ある波宝神社の御祭神の一柱に「丹生都比売(にうつひめ)命」の御神名があります。

『天河への招待』(大山源吾著)に、「神功皇后紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山 小竹(シヌ)宮に入った」という土地伝承が紹介されており、「吉野」の語源も「ヨ」+「小竹(シヌ)」であると言います。

語源の正否はともかく、吉野の古代発音は「え(いぇ)しぬ」です。四国や関西での「えぇ」は「良い」ですから「え+シヌ」は「良(好)い+シヌ」と解釈できなくもありません。伊邪那岐命伊邪那美命の求婚シーン?でも

伊耶那美命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、えをとめを」とのりたまひき。

と言葉をかわします。「をとこ」【男】・をとめ【女】、この場合の【好】(え)は、上代語で、すばらしい・愛いとしい、という意味です。伊予国の「媛」も同じです。

波宝神社は銀峯山に鎮座する故、この「小竹宮」論社の一つとされています。

 

所変わり、『播磨国風土記』に「爾保都比賣命」という姫神の伝承があります。

 

 

 


『釋日本紀』卷十一 爾保都比賣命

播磨の国の風土記に曰く、息長帯日女命(神功皇后)、新羅の国を平けむと欲して下りましし時、衆(もろ)神に禱(いのり)たまひき。爾の時、国堅大神(くにかためまししおほかみ)のみ子、爾保都比賣命(にほつひめ)、国造 石坂比賣命(いはさかひめ)に著きて、教え曰く、「好く我がみ前を治め奉(まつ)らば、我ここに善き験(しるし)を出して、比比良木八尋桙底不附國(ひひらきの やひろほこ そこつかぬくに) 、越売眉引国(をとめの まゆひきのくに)、玉匣賀賀益國(たまくしげ かがますくに)、苦尻有寶国(こもまくら たからあるくに)、白衾新羅國 (しらふすま しらきのくに)を、浪(にのなみ)以ちて平伏(ことむけ)賜ひなむ」と、此く教へ賜ひて、ここに赤土(あかに)を出し賜ひき。其の土を天逆梓(あまのさかほこ)に塗りて神舟(みふね)の艫舳(ともとへ)に建て、又、御舟の裳(も)と御軍(みいくさ)の着衣(よろひ)とを染め、又、海水(うしほ)を攪(か)き濁して、渡り賜ふ時、底潜(くぐ)る魚(いを)、及高飛ぶ鳥等も往き来きせず、み前(さき)を遮(さ)ふるものなし。かく新羅を平伏(ことむけ)、已訖(をはり)還上(かへりたまひ)。乃ち其の神紀伊国管川(つつかは)の藤代峯(ふぢしろのみね)に鎮奉(しづめまつり)き。

 

※現在も魚を「いを」と呼ぶのは、徳島・和歌山・長崎・鹿児島くらいです。繋がりが見えますね。

※譯注 

國堅大神、伊弉諾尊 伊弉冉尊也。爾保都比賣命 丹生都比賣命。比比良木八尋桙根底不附國、越賣眉引國、玉匣賀賀益國、苫枕有寶國、白衾新羅國,皆稱讚新羅國之詞句。

日本紀譯注では「爾保都比賣命」を「丹生都比賣命」と同紳と見なしているようです。その音感、そして神託として「船と着衣を丹色に染めた」という内容から丹生都比賣命だと解釈するのは必然ともいえます。爾保都比賣命の父である国堅大神については「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」としていますが、これは「国堅」を、両神の神話での「是多陀用弊(このただよへ)流るを修理(つくろひ)(かた)め成せ」に結びつけた連想でしょう。

しかしながら、この「国堅」は「播磨国」の国堅(くにかため)であり、『播磨国風土記』に「志深(しじみ)の里、三坂にます神、八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)は、大物主神葦原志許男国堅めましし以後に、天より三坂岑(みさかのみね)に下りましき」とある大国主命伊和大神のことであるのは明白です。つまり、爾保都比賣命(丹生都比賣命)は伊和大神(大国主命)の娘ということです。

 

また、同風土記に「伊和大神の子、竜比古(いはたつひこ)命と妹竜比売(いはたつひめ)命」「伊和大神の子、建敷(たけいはしき)命」とあるように、国造「坂比賣(いはさかひめ)命」もまた、その血脈なのです。
そして、何度も解説したように発語の「ア」「イ」は異音同義、伊和(いは)大神とは阿波(あは)大神。同記にも「伊和大神の妹、阿和加比売命」とあります。

 

この「紀伊国管川藤代之峰」の管川(つつかは)は、現地名「筒香」のことと見なされており、『紀伊風土記天保10年(1839)は、「筒は狭き義、香は河の下略にて狭谷の義なるべし」、また藤代之峯は「上筒香東富貴和州坂本村三村の界にて高峰なり水呑峰又石堂峰又子粒獄ともいふ」と記しており、正確な地は不明ながら筒香の東・奈良県境の峰であり、そこは伊都郡かつらぎ町丹生都比売神旧鎮座地と云われています。

 

 

 

 

現在、筒香の地に丹生都比売命を祀る丹生神社が鎮座。その東、丹生都比売神社の旧鎮座地とされる藤代之峯(比定)を超えると、大和国吉野郡。吉野三山三社の東方には「丹生川上神社」の下社・上社・中社が鎮座します。下社御祭神は「丹生大明神」で丹生都比売命のこととする説があります。上社御祭神は「高龗神」(龍神)。中社御祭神は「罔象女神」(水波能売神)です。

 

吉野三山三社のうち櫃ヶ岳八幡神社の御祭神は、八幡神ですから應神天皇ですが、元々この神社は止雨祈願の対象であり、櫃に飯を盛り龍神に供える行事があることから、八幡社とある以前は竜神・水神を祀っていた可能性が高いと思われます。この一帯で祀られる神は、ことごとく丹生と水の神です。

 

※上記まとめ

 

①土地伝承

波宝神社の鎮座地名「夜中」は、神功皇后三韓征伐から帰還され、紀伊へ赴く途中銀峯山で休まれた際、白昼であるにも関わらず夜のように暗くなったため神に祈り、陽の光を取り戻した。

②土地伝承

神功皇后は、紀伊国日高郡に上陸して東進紀伊大和国境を越え、吉野丹生の里、銀峯山 小竹宮(波宝神社)に入った。

③『播磨国風土記

神功皇后新羅国を平定せんとしたとき、国堅大神の子である爾保都比売命が播磨国造の石坂比売命に神懸って託宣し、その言葉に従い船と着衣を丹色に染めて勝利した。皇后は、帰国後「紀伊国管川藤代之峰」に爾保都比売命を鎮め祀った。

 

③が現在の紀伊国一宮、伊都郡かつらぎ町に鎮座する丹生都比売神社の元社。話を総合すると、神功皇后は、その後大和国吉野郡を北東に進まれ、銀峯山の小竹宮(波宝神社)に入ったように見えます。

ところが、「夜中」の地名伝承は進行方向が逆であり、説話の混合でなければ、紀伊国日高郡大和国吉野郡→銀峯山と進み、小竹宮(波宝神社)から再び紀伊国を目指したように見えます。これは古代史における阿波説以外、意味不明の行動となります。

一連の行動を追うと、神功皇后は、三韓征伐を成功に導いた女神爾保都比売命を鎮め祀る地を求めて移動されたように見えます。そして経緯から推察すると、当然その場所に関しても託宣や卜占に適地を求めたことでしょう。それが結果的には藤代之峰銀峯山だったのではないでしょうか?

つまり、皇后は、まず藤代之峰に爾保都比売命をお祀りした。その後銀峯山へ移動。そこに元々小竹宮があったのではなく、目的の通りに、その山にもまた爾保都比売命を祀られたのです。ただし、こちらは比売の本名「ハハの神」の名で。

このとき、その ハハ に意図的に「」「」の字を当てたのです。それは、

「苦尻 有たからある)国、白衾新羅國 を、丹(にのなみ)以ちて平伏(ことむけ)賜ひなむ」

との神託を下された神だからです。

 

上に書いたように、その「波寶神」が「丹浪(にのなみ)」の神である「丹生都比売命」であり、その本名が「天津羽羽神」であるからこそ、その父「天手力男神」の天岩戸神話に似た夜中地名説話が生まれたのでしょう。このとき、神功皇后が「祈った神」は、吉野国栖の祖神「石押分(天手力男神)之子」である天津羽羽神なのでした。

さらに、そこにはより深い秘密が隠されています。天津羽羽神の真の姿が明らかになったとき、全てが繋がりを持つことが理解されるでしょう。

 

住吉大社伝来の『住吉大社神代記』に「住吉大神の宮、九箇處に所在(ませ)り」として、その一社に「紀伊国 伊都郡 丹生川上 天手力男 意気続々流(おけつづくる)住吉大神」と記されています。この「丹生川上」の地は上記・伊都郡高野町筒香の付近とされ、そこには丹生都比売命を御祭神とする「丹生神社」が鎮座します。

しかし現在、この住吉大神の宮は、橋本市胡麻生(ごもう)の「相賀(おうが)八幡神社」のことと考えられており、それは『紀伊風土記』に「天手力雄 気長足魂 住吉神社を祭り云々」とあることを根拠としているようです。ただし、丹生川上から胡麻生への移遷の時期や理由は全く不明です。これは単に「天手力男神と丹生の神が結びつかない」ことによる仮説(江戸時代の調査において該当する御祭神が他に見当たらなかった)なのでしょう。

土佐国式社考』の谷秦山が指摘するように、同郡内に「親子の神を並祀」することが古代において一般的なことならば、そして丹生の女神がその神の子であるならば、天手力男神を丹生川上に意図して祀る意味も理解できます。

そしてさらにいえば、この「伊都郡」。伊都(いと)は(いつ)の横訛りではないでしょうか? この女神の正体に気づいておられる方々には、この意味が直ちに理解できることでしょう。

 

このように、この地に祀られる女神に神功皇后が深く関わっておられる様子が浮かび上がりますが、それは、この女神が常に重要な局面で皇后に神託を下されたからです。では、その皇后への神の託宣の様子を見てみましょう。

 

神功皇后略歴(Wikipedia

仲哀天皇2年、1月に立后天皇の九州熊襲征伐に随伴する。
仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。

同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。

12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

明治時代までは一部史書常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていた。

 

熊襲征伐での神託(Wikipedia

仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。

仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮武内宿禰審神者(さには)として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒魂)事代主神住吉三神などであることを確認した。

 

※原文

三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主爲審神者。因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰「先日教天皇者誰神也、願欲知其名」逮于七日七夜、乃答曰「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。」亦問之「除是神復有神乎。」答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」

於是、審神者曰「今不答而更後有言乎。」則對曰「於日向國橘小門之水底所居而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。」問「亦有耶。」答曰「有無之不知焉。」遂不言且有神矣。時得神語、隨教而祭。

 

※神懸った皇后に下された神託は「熊襲征伐をやめ新羅を攻めるべし」というもの。

翌年皇后自ら神主となり審神者に語らせたところ、この神託を下した神は、

①撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命

②尾田吾田節之淡郡所居神

③天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神

④名表筒男・中筒男・底筒男神

であることが分かりました。②は神名ではありません。「名は」と名乗っているのは、①、④です。②の神名が③であるとの神の返答にも見えます。そして肝心なのは女神は、この中で①だけという点です。

皇后に下された神託は、

「この国(熊襲)よりも勝る宝ある国、たとえば処女の眉のよう海上に見える国がある。目に眩い金、銀、彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅たくぶすましらぎのくに)という。もし、よく私を祀らば、刀を血塗らず、その国は自ら服するであろう

というものです。

一方、『播磨国風土記』では、

「爾保都比賣命、国造 石坂比賣命に著きて、教え曰く、好く我がみ前を治め奉らば、我ここに善き験を出して、比比良木八尋桙底不附國、越売眉引国(をとめのまゆひきのくに)、玉匣賀賀益國、苦尻有寶国(こもまくらたからあるくに)、白衾新羅國 (しらふすま しらきのくに)を、丹浪以ちて平伏(ことむけ)賜ひなむ

です。

 

物語の舞台設定(神の出現地)が違うだけで、同じ神の同じ言葉でしょう。つまり、

爾保都比賣命 は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 である。

 

この神は「神風の伊勢国の百伝(ももつたう)度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮(いすずのみや)にいる神」と自己紹介しています。五十鈴宮とは伊勢の内宮のことです。上記(Wikipedia)では、さらっと「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒魂)」と書いていますが、仮説の一つです。内宮に坐す神で天照大御神でなければ別宮「荒祭宮」の荒御魂神ではないか?という当然の考察といえます。


撞賢木(つきさかき)嚴之御魂(いつのみたま)天疎(あまさかる)向津媛命(むかつひめ)

「荒魂」なのかもしれませんが、名乗りでは「之御魂」と宣言しています。仲哀天皇と皇后に神託された神の一柱は「事代主神」でした。

今更ですが「厳」は「渭」なのです。そして女神は「向媛」なのです。

爾保都比賣命の父は誰でしたか?伊和大神・大国主命でした。もちろん、事代主神の父でもあります。

 

私がなぜ、紀伊国の「伊都」郡は「いと」ではなく、本来は「いつ」だったのでは?と述べたのか? その意味が分かるでしょうか?

故、斬りたまひし刀の名は天之尾羽張(あめのおはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのおはばり)と謂ふ。

伊都之尾羽張神(イツのおはばりのかみ)

伊都岐奉 (イツきたてまつれ)

伊都能知和岐知和岐弖 (イツのちわきちわきて) 等々

伊都は元々「いつ」であり、万葉仮名でこれを「いと」と読む例は、記紀風土記にありません。伊都之尾羽張神の神名の義については諸説ありますが『古語拾遺』に「古語大虵謂之羽羽」とあり、羽羽(はは)は大蛇の古語、との関係も指摘されています。

 

さらに、上記に見た龍神・水神「水波能売神」は『日本書紀』 巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇即位前紀の戌牛年九月条に、

時勅道臣命。今以高皇産霊尊。朕親作顕斎。〈顕斎。此云于図詩怡破毘。〉用汝為斎主。授以厳媛之号。而名其所置埴瓮為厳瓮。又火名為厳香来雷。水名為厳罔象女。〈罔象女。此云瀰菟破廼迷。〉糧名為厳稲魂女。〈稲魂女。此云于伽能迷。〉薪名為厳山雷。草名為厳野椎。

 時に道臣命に勅すらく、今高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)を以て朕(わ)れ親ら顕(うつし)斎(いはひ)を作(な)さむ。汝を用て斎主(いはひぬし)と為て、授くる厳媛(いつひめ)の号(な)を以てせむ。而して其の置ける埴瓮(はにべ)を名づけて厳瓮と為し、又火の名をば厳(いつの)香来雷(かくつち)と為し、水の名をば厳(いつの)罔象女(みつはのめ)と為し(罔象女、此をばミツハノメと云ふ)、粮(くらひもの)の名をば厳(いつの)稲魂女(うかのめ)と為し(稲魂女、此れをばウカノメと云ふ)、薪の名をば厳(いつの)山雷(やまづち)と為し、草の名をば厳(いつの)野雷(のつち)と為したまふ。

とあり、罔象女神(弥都波能売神)を「厳(いつ)罔象女(みつはのめ)」と呼んでいます。男性である道臣命を斎主に命じるに当たり、その名を「厳媛」(いつひめ)と「厳の女神」の名で呼ぶことで、女神の祭祀能力に肖ろうとする勅命です。

 

式内社弥都波能賣神社」は全国で阿波國にしか在りませんが、その場所は

 

 

 

 

阿波国美馬郡。弥都波能売神を祀る大和国丹生川上神社・波比売神社と地勢は紀伊水道を挟み双方の吉野川上流で相似形を成しています。下流には那賀郡がありますが、阿波国那賀郡の前身「長国」の国域も県南のみならず古代の板野郡(吉野川下流)までを含みます。さら海辺には共に海部郡・勝浦・白浜の地名があります。これ、偶然ですか? そんなわけないでしょう。

 

「嚴(いつ)之事代主神」は「かつら(勝浦・勝占・桂などと表記される)・かつらぎ」の神でもあり、同じ父を持つ姫(異母妹)が「嚴(いつ)之御魂向津媛命」=「丹生都比売」こと「天津羽羽神」であり、この女神は龍蛇神(水神)である「嚴(いつ)の弥都波能売神」の神格を併せ持つのです。

 

 

そしてまた、長浜市に、近江國 伊香郡 丹生神社二座 という式内社が在ります。

御祭神は、丹生都比賣命彌都波能賣命 二柱の神です。

以前、伊香・伊賀などイカ(ガ)の付く地名の共通点など書いたことも在りますが、国名としては、誰でもが知る「伊賀国」があります。国号はこの地を治めていた「吾我津比賣命」の名に因みます。(上にも書いた発語におけるア・イ同義法則)

 

伊賀国風土記』吾我津比賣命

伊賀の国の風土記。伊賀の郡。猿田彦の神、始め此の国を伊勢の加佐波夜の国に属けき。時に二十余万歳此の国を知れり。猿田彦の神の女、吾娥津媛命日神之御神の天上より投げ降し給ひし三種の宝器の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御斎の処を加志の和都賀野と謂ひき。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬れるなり。又、此の神の知り守れる国なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、清見原の天皇の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて国の名と為しき。其の国の名の定まらぬこと十余歳なりき。之を加羅具似と謂ふは虚国の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音の転れるなり。

「鳥の一族」で書いてきたように、猿田彦神事代主神の別名の一つです。事代主命の娘の一人「伊賀(いか・いが)津比売」。伊香(いか・いが)長浜の丹生都比売。

さて?何か関係があるのでしょうか?