空と風

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旧唐書に見る倭国


前回、次は「他の中国正史に見る邪馬臺國の位置について書いてみようかな?」な~んて書いてから早2年が過ぎました。(笑)

前回「後漢書に見る倭国」で「当時の中国側から見た倭国の範囲とは広くとも西日本」と書きましたが、まずその外枠を確認したいと思います


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旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代後晋、出帝(942年 - 946年)の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書
二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた。
完成と奏上は945年(開運2年)6月。
旧唐書東夷伝の中には、日本列島について、「倭国」と「日本国伝」の二つが並立している。


上記のように、旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」が含まれるのですが、他の中国正史には見られない興味深い記述もありますので、抜粋します。
 
倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 
新羅東南大海中
山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
其國 居無城郭 以木為柵 以草為屋
四面小島五十餘國 皆附屬焉
王姓阿毎氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、
新羅の東南、大海の中に在り。
山島に依りて居す。東西、五カ月の行、南北、三カ月の行なり。代々中国と通ず。
その国、居に城郭なく、木を以て柵と為し、草を以て屋根と為す。

四面の小島、五十余国、皆、附属す。
その王、姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す。

日本國者 倭國之別種也 
以其國在日邊 故以日本為名
或曰 倭國自惡其名不雅 改為日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 
故中國疑焉
又云 其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海
東界 北界有大山為限 山外即毛人之國

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の辺に在るを以て、故に日本を以って名と為す。
あるいは曰く。倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。

あるいは云う。日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたりと。

その人、朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず。
故に中国はこれを疑う。

また云う。その国界、東西南北に各々数千里、西界・南界はいずれも大海に至り、
東界・北界は大山ありて、限りとなす。山外は、すなわち毛人の国なり。



後漢書に見る倭国」に書いたように、古代中国の「国」の定義は、現在の「国家」とは違います。ただ、その指し示すもの(範囲)は時代とともに微妙に変化します。これは「中国」も同じです。
しかし、「国」の範囲はこの時代でも、あくまで「都市」を中心とした政治、文化、経済エリアです。

三國志』が書かれたのは、233~297年。後漢書が書かれた398~445年から、ちょうど500年後に書かれたのが『旧唐書』です。

そこには、当時の日本列島の首都国の様子が上のように記されています。
まず「倭国」から見ていきましょう。

倭国は、古の倭奴国なり
ここでいう「倭国」とは、日本全体のことではなく、唐の時代の日本の首都国のことです。それは、後漢書に云うところの倭奴国のことであると。

これは(中国正史としては必要無いから)詳しく書いてないだけで、そう断定する根拠があったからそう書いているのです。
「代々中国と通ず」と書いているように、こちらからも遣隋使・遣唐使を入朝させ最新情報を(問題ない範囲で)与えているのです。
首都国の位置についても当然把握し、古の記録と照合もし、同じ場所だと確認しているのです。

その倭国の特徴は、「大海の中に在り」、「山島に居し」で、その“山島”は「東西に長く南北に短い“島”」です。
「五カ月」「三カ月」の行程という数字は中国特有のオーバーな表現か、こちらが与えた過剰表現(
朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず)かは不明ですが、「朝貢の記録」という特殊性を考えると前者でしょう。
理由は「後漢書に見る倭国」に書いたので見てください。また、この数字が誇張だという根拠は他の中国正史からも明らかなのですが、それは次回の記事を最後まで読んでいただければ分かります。
「東西五月行 南北三月行」の山島、というのは伝聞ですが、『隋書』では、実際に“そこ”ヘ行った者の行程の記録が記されているのです。

倭国の)四面には、小島が、五十余国あり、それらの国々は、皆、倭国に附属す」

日本の首都国であるところの倭国は「島」の中にありますから、四面が海なのは当然で、その周囲の「島々」はイコール「国々」で、みな倭国の属国だというのです。

倭国の)王の、姓は阿毎氏」

「阿」 呉音 : ア 漢音 : ア
「毎」 呉音 : マイ 漢音 : バイ
「氏」 呉音 : シ、ジ 漢音 : シ

日本の書物の音訳は、たいてい「あめし」ですが、何か根拠があるんでしょうか?あ、確か時代別の発音を検索できるサイトがありましたね。
とにかく、「あまし」「あばし」「あばじ」、こんな感じでしょうか?
確か、「阿波」の元の発音は「あは」「あば」でしたよね。
そうすると、この字の現代風発音では「あわ(し)」かもしれませんね。


「一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す」 
魏志倭人伝に出てくる邪馬臺國と全く同じシステムです。

次に「日本国伝」です。

日本国は、倭国の別種なり」
日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたり

問題の箇所です。例によって、偉い先生方がこの記述の理由付けに苦心されていますが、はっきり言って、頓珍漢です。

唐の前の時代を書いた隋書では、国名は「倭国」だけです。
そしてその国の都は「邪靡堆」(やまと)である、と。

これが魏志倭人伝に登場する「邪馬臺」と同じであるのは明白ですが、日本の歴史学では全く認められていません。
「邪靡堆」を「大和地方」とする一方、「邪馬臺」のほうは「九州説」その他いろいろ、主張が異なるからです。同じだと認めるわけにはいかない事情があるんですね。

漢字使いも似ていて、読みも一緒なんだから、素直に認めればいいのに、往生際の悪い人たちです。
もちろん、「九州」も「大和」も間違いで、両国とも同じ地方のことで「阿波」である、というのが、今回の記事の主旨なのです。呆れましたか?

「あわ」と「やまと」では一音も合わんやんけ!とか言わないでくださいね。説明するのも面倒なので、そういう人は検索するかこのブログを最初から読んでください。


正解を言うと、旧唐書中の「日本国」が「大和」であり、「倭国」が「阿波」です。
これを同じ地方だと“思い込んで”解釈しようとするから答えが出ないのです。

「日本国」は畿内であり、当時の日本(ややこしいな)の首都国です。
中国正史に書かれる「国」は、全て都市単位の「小国」のことだと繰り返し書いてきました。「日本国」もその一つだったのです。ただし、もちろん元々は日本国という名ではありませんでした。


旧唐書をとりあえず信用するとした場合、倭国は、古の倭奴国、で、地勢的には、東西に長い大きな島の中にあり、四面には小島が無数にあり、うち五十余の島は「国」として機能している。
日本国(単一の小国)は、その倭国連合をすっぽり呑み込ん(併せたり)で、首都国となったわけです。
飲み込まれた元の倭国の首都の名が「邪靡堆」。
つまり、飲み込まれたというよりは、むしろ逆で、

はっきり言うと、遷都なのです。

数十国の倭国連合が一国の日本国に飲み込まれることはありません。
連合に加わった(もともと連合国の一つとも考えられます)後に京師が移された。

だから、「日本国は、倭国の別種」なのです。

唐の時代に我が国では遷都が行われていたのです。
国名の変遷こそがその証拠です。

倭国連合の首都国は「倭(い)奴(の)国」。その都が「倭」「邪靡堆」(やまと)。
その遷都先の国名が、「大倭」「大養徳」「大和」(おほやまと)。

この「大和」が8世紀初頭に「日本」と改名しました。やがて、この「日本」が首都国名としてだけではなく、日本全体の国号として使われるようになるのです。


大和 (Wikipedia

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。


おかしいですね。ヤマトは四面を海に囲まれた島の中にあるんですよね説明がつかないから中国正史は無視、という学問的立場なのでしょう。思い込みのほうが大事なようです。だから頓珍漢だと言うのです。


倭国」が「大きい島」であるのに対し「日本国」はどういう地勢でしたか。
「国の界は、東西南北に各々数千里」
「西界・南界はいずれも大海に至る」
「東界・北界は大山ありて、限りとなす」


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「日本国」(大和)の西・南は海だそうですから紀伊水道太平洋ですね。
北・東は山が国境ということです。
つまり、日本海にも出ないし、伊勢湾にも出ないということで、現在の都道府県単位では、広くとも京都南部・滋賀・大阪・奈良・和歌山の範囲を越えることはなさそうです。


つまり、唐の時代でも、関西より東の日本の情報は、中国には何一つ伝わっていないことが分かります。
それより500~650年前に書かれた三国志後漢書に書かれている「倭の国々の様子」が最大でも西日本の範囲のことだと私が書いたのも当然だと理解していただけるでしょう。

また、東日本の地理的情報も当時の中国には無いのですから、本州は『旧唐書』の云う「四面を海に囲まれた山島」ではありません。
したがって、日本の首都国であるところの「倭国」とその都「邪靡堆」は、本州に属するいかなる地方にも無かったことが明白です。

そして、その中国が認知していた範囲に、 百余の国々があり、その総称が「倭」であり、その国の数だけ「王」がいて、彼らを束ねる「大王」の都する場所が「邪馬臺・邪靡堆」(やまと)であり、

その邪靡堆は、西日本の中で「四面がみな海=島」の地方にあり、その大きな島は「東西に長く」、周囲に王が在位する「50の島々」があるわけです。

もちろん、それ以外の島々は、この数に含まれていません。


そんなとこ、どこにありますかね~? 

先入観のない小学生に訊くのが一番かもね。


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※追記

もっと以前から、九州ヤマト説というものがあり、倭国(ヤマト)が九州で日本国が畿内、としています。もちろん、東西に長く、南北に短い、という島の特徴は、その方角の書き間違いなんだそうです。なぜ東西と南北を書き間違えたと判断するのか?というと、そうじゃないと九州の地形に合わないからだそうです。お疲れ様。

倭の国の国魂神を祀る「倭大國玉神社」(式内社)って、どこにあるんですか?
さらに、九州が倭(ヤマト)であるならば、九州のどかかに「難波津」がなければなりません。詳しくは後編の“『隋書』からヤマト国の所在地を特定する”を見てください。

九州×畿内の二極でしか歴史を考察できない、無理があっても曲解を重ねてその枠に無理やりねじ込む、という方法論の間違いから、そろそろ脱皮していただかなければなりません。


(続く)