空と風

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後漢書に見る倭国 2

 
「倭」で括られる国々には、それぞれ「(倭)王」がいる。
倭の中に「百余の国」があり、大倭王が治める国は「邪馬臺國」である。

邪馬臺國ヤマト国なのか?、邪馬壹國ヤマイ(チ・ツ)国なのか?、どの書にどっちの字が使われているとか言ったところでみな写本なんでしょ?
隋書には「邪摩堆」とあるので、“その時代”にはヤマトだったんでしょうね。
頭の良い人達が論争してもわからないことは私に分かりません。どっちでもいいです。
阿波説に当てはめると、ヤマトの国、と、イの国、イツの国はみな阿波国ですし。

両方の「音」が中国側に伝わり、あちらの記録係もどちらの字が正しいのか混乱していたという可能性だって有り得るわけです。
 

ここから下、「樂浪郡徼去其國萬二千里」の「其國」は、「“倭”の中の“邪馬臺國”」という意味です。
 
 ① 樂浪郡徼、去“”國萬二千里、
 ② 去“”西北界拘邪韓國七千餘里
 
この二つの「其」が指すものは別々です。解説すると、

①の「其国」は文脈から「邪馬臺國」であることは明白ですから、
 
 楽浪郡の境界から、その国”(邪馬臺國)までは一万二千里である。

②の「其」が=「邪馬臺國」のわけはありませんから、これは「倭」のことで、

 “その”(倭の)西北界の拘邪韓国から七千余里である。

A:楽浪郡 B:邪馬臺國 C:狗邪韓國 で、

①は、AからBまでの距離。
②は、AからCまでの距離。 です。

この“距離”が信用に足らないことは置いておき、注視すべきはこの「其」なのです。

言うまでもなく、この文章は「東夷列傳」の中の「倭」について書いたものです。
 
その国(邪馬臺國)は、楽浪郡から、万二千里。
その(倭の)西北界からは、七千余里。
 
つまり、倭の西北界=拘邪韓国、なのです。
 
拘邪韓国は『三国志』魏書東夷伝によれば、「韓の国々」の南に位置する別の国です。
 
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國

韓国の学者の中には、例によって恣意的な解釈を行い、この「到其北岸狗邪韓國」の「其」を「狗邪韓國」とし、「狗邪韓國の北岸」に至る、すなわち、当時すでに韓国人が日本側に支配地を持ち、「狗邪韓國の北岸」=「北九州」なのだ、などと目を疑うようなことを公言する学者がいます。

前後の文は一切見ないのか?自説に都合の良い部分だけを拾い出そうとするのか?、単にこの一文だけを見ても、書き出しは「倭に至るには~」で始まりますから「其北岸」の「その」は「倭」に係ることがわかります。狗邪韓國の北岸に至るというなら「其」は必要なく「至北岸狗邪韓國」でしょう。
説明するのも馬鹿馬鹿しい小学生レベルの国語です。
さらには、その後に続く「始度一海 千里 至對海【馬】國・・・・、又南渡一海 千里名曰瀚海 至一大國」は一切無視というお粗末さです。


同書の東夷伝“韓”条では
 
※ 帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、
  接し、四方は四千里
 
※ 弁辰は辰韓と雜居す。また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。
  言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり、竃を施けるに皆戸西あり。
  その瀆廬國界を接す
 
と記しています。
 
つまり東西がで、北は帯方郡南は陸続きなのです。
具体的な情報としては、弁辰の中の瀆廬國(とくろこく)が倭と隣合わせだとまで書いています。つまり、

拘邪韓国は、倭の100余の国々の一つで、その北限の国だったのです。

それを、後漢と魏が正史で認定しているわけです。

先に、通訳30人の可能性を書きましたが、当時すでに朝鮮半島南端は倭の一部であり、当然、倭の大陸側出先機関の役割を果たしていたでしょうから、両国語に堪能な人間が多くいても何の不思議もないのです。
 
 
イメージ 1
 
半島南部は前方後円墳だらけ

このあと、風俗についての記述が続きます。
これは主語がないので、「倭」の国々全般のことなのか、「邪馬臺國」のことなのかは不明です。
ただ、文章に原文からの改正がないとすれば、前後関係からみて邪馬臺國の特徴と見えます。
今回のテーマとは関係ないので省略します。
ただ私的に一番注意を引かれるのは次の記述。
 
 灼骨以卜 用決吉凶。
 行來度海 令一人不櫛沐、不食肉 不近婦人 名曰持衰。
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持 衰不謹 便共殺之。
 
 灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。
 海を渡って行き来するときは、一人に櫛や沐浴を使わせず、
 肉食をさせず、婦人を近づかせない、
 名づけて持衰という。
 もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。
 もし病疾の災害に遭遇すれば、持衰が慎まなかったことして、
 すなわち共にこれを殺す。

 
卜占、持衰。当時から倭人が非常に信仰心の強い人々だったという点です。
重要事項は、ほとんどこのような形で意思決定していたと見えます。

 
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。
 倭國之極南界也。光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見。

 建武中元二年(57年)、倭奴国(の使者が)貢を捧げて朝賀した。
 使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝印綬を賜る。
 
 安帝の永初元年(107年)、
 倭国王帥升ら、奴隷百六十人を献じ、
 願いて見えんことを請う。
 
 
ここで初めて、邪馬臺國以外の倭の国名が登場します。
「倭奴國」です。
 
れが「倭奴」という国名か、(倭の)「奴國」という国名なのかは、漢文の特徴から分かりません。
この国は、倭の連合国では「極南界」に位置します。
 
この時の印綬志賀島で発見されたとされる「漢委奴国王印」ですが、福岡県が「倭の極南」とすると、倭のエリアは半島南部から北九州までの範囲となるため、はっきり言ってありえません
そもそもこの金印の出土に関しては何もはっきりとしたことが分かっていないのが現実です。
考古学ですらないのです。(以下引用)
 
金印の出土地および発見の状態は詳細不明で、福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。
1914年(大正3年)、九州帝国大学中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。
 
※引用元(Wikipedia
 
 
時代を確定できる土中から出土したのでなければ、「モノは移動できる」んですから、倭奴國の比定地の根拠とは成り得ません。
私のブログを読んでくださっているような奇特な方なら「那珂郡」の地名の方に引っ掛かりを感じる程度の話ではないでしょうか?
 
前回、「奴國」王に授けられた金印の文字が「漢奴国王」であり、倭国の読みは「こく」が正しい、と書きましたが、この点に関しては、委は倭の略字だという解釈がなされているようです。
ただの略字であるから、委は倭と同じく、と読むのだ、というのです。
そうでも考えないと困るから、そう思い込むことにしているのでしょう。
 
かりに漢字を略字するとしても、それによって音(意味)が変わってしまうような減筆はしないでしょう。
古代中国の漢字では同音異字の意味は元々同じ、というものが多いのです。
例えば、ここに書いた国(コク)と郭(クヮク)、郡(グン)と軍(グン)、王(オウ)と往(オウ)のように。
 
略字した、ということは、むしろそれが同じ音だったからであり、
つまり、コクなのです。
 
諸先生方は、苦しい悪あがきをやめ、素直に事実を認め、古来、日本において、の国、とはどこであったか?古地名などを調べることが正しい日本史の解明になると認識すべきです。
 
 
 
このあと、もう一度「倭國王」なる言葉が登場しますが、倭国という特定の国は存在しませんから、この「倭国」が「倭奴國」なのか、「邪馬臺國」なのか、その他の「倭の国」なのか、は分かりません。
中国側の記録でも分からなくなっていたので、こう書くしかなかったんでしょう。

最大の注目点は「倭國王帥升等」との記述です。
このに当時の日本側の実情がしっかり反映されているからです。

古代史の中で中国が大国たり得たのは、その頃からすでに経済大国だったからであり、その経済力は交易が支えていたのです。
この経済構造は当然周辺国にも及び、倭でもその構造に組み込まれた国が力を持ちます。倭のどの国も中国という商社との取引を欲し、できるならばその立場を独占したいと考えたでしょう。

すでに後漢接触していた約30カ国の倭の国々の中で、まず57年に他国を出し抜いたのが倭奴國でした。
このとき、光武帝印綬を授けたのは、中国側の視点から見れば、倭奴國が倭の極南界だったから、と言えます。

朝貢という行事の本質は、実は中国側が望んで行うもので、その目的は皇帝の権威を高めるというものです。簡単に説明すると、皇帝とは天の意志(天命)を受けて地上の支配者となった存在であり、その支配が及ぶ世界を中国といいます。
日本の天皇のように血統で受け継がれるものではありません。早い話が、経済力と軍事力を持つものは誰でも皇帝を名乗ることができた。後はそれを人民(国民ではありません)に“証明”するだけです。

自分にその気とその力があれば、その時代に一番力を持つものが中国大陸の皇帝となりました。
同時代に三人の皇帝が即位し、ホンモノ争いをしたのが「三国志」の時代です。
歴代中国王朝は、自分の国こそがその正統な中国であり、自国王こそが真の皇帝であると主張して、「本物の中国」争いを繰り返してきたわけです。

朝貢は、その「真の皇帝」を保証する行事であり、皇帝の徳が高ければ高いほど、その徳を慕って、遠方の国から朝貢が行われる、とされました。
したがって、最も望ましい朝貢とは、できるだけ遠方の、できるだけ大国からの朝貢、ということになります。

中国の朝貢の歴史の中で最も成功(中国側から見て)したのが、ともに魏の時代、親魏大月氏親魏倭王に奉じられた、クシャン帝国邪馬臺國からのものであったのは、そういう理由によります。邪馬臺國までの距離と国の規模が過大に演出されたのは、その朝貢クシャン帝国に並ぶ価値のものとするためであり、そこには両国の朝貢を成功させた魏の重臣同士の政争がありました。


さて、後漢書に戻ると、倭奴國もまた、倭の国々では最も南(遠方)に位置することに気づきます。光武帝がなぜ印綬を倭奴國へ授けたかを考えるとき、朝貢の本質が現れます。
ところが、そのたった50年後、倭から後漢へやって来たのは、倭國王、帥升の使者でした。
倭奴國王が倭を代表して単独で朝見してきたのではなく、複数の倭国王達が共同で生口を献じて接触してきたと記されています。

つまり、倭奴國王の出し抜きは倭国内では決して成功しておらず、倭国王たちの協議の結果では代表国が決められず、「では対等の立場で後漢と外交しよう」となった経緯が、このたった一字に現れているのです。

この後の記述に、桓帝霊帝の間(146-189年)、倭国大いに乱れ、更相攻伐したのち、女王卑弥呼を共立す、とあります。


景初2年(238)、卑弥呼朝貢したことを記す魏志には、女王の即位以前の7~80年間、
「倭國乱れ、相攻伐する」様子があり、こちらの記述が正確なら、109年ころから内戦状態が続いていたことになり、倭國王帥升等が後漢へ朝見した直後には争いの火蓋が切られていたことになります。

通して眺めると、およそ一世紀後半から二世紀後半まで、倭の国々は決してひとつにまとまってはおらず、この時代は中国との外交利権を争った倭の100年戦争時代とも表現できるでしょう。
 
 
(続く)