空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

後漢書に見る倭国 1

後漢(ごかん 25年 - 220年)は中国の王朝。
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽。
成立は5世紀、南北朝時代南朝宋の時代で、編者は范曄(はんよう 398年 - 445年)。
范曄著『後漢書』の成立は、432年と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、年代的には後の時代の範囲を記述している『三国志』の方が范曄の『後漢書』よりも約150年前に成立していた。
※引用元(Wikipedia
 

初めて三国志後漢書の倭(国)伝を読み比べると、似た記述が多く、上記のような成立過程から、范曄は三国志を元にして後漢書を記したかのように見えます。
ところがよく見比べると、微妙な違いや、三国志には無い記述が後漢書には見えたりもして、そう単純には決めつけられないことがわかります。
この点については、細部にわたって両書を比較し、後漢書(倭伝)の典拠が三国志ではないことを立証されている方もいます。
 
 
考えてみれば、陳寿(233年 - 297年)とて、自分自身で倭に赴いたわけではありませんから、彼の原資料があったわけです。特に魏志自体が『魏略』に依ることはよく知られることであり、また、倭人条に関して見ると、魏志によれは、正治元年(240年)帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)が梯雋(ていしゅん)を、正治八年(247年)帯方郡太守の王頎(おうき)が張政(ちょうせい)を倭に派遣した記述が有り、その間も倭王の使者が帯方郡を訪れています。
王頎は同年、魏の首都である洛陽に行っており、陳寿はこれらの者たちが魏に宛てた報告書を下に東夷伝を書いたわけです。

後漢書の後半にも「~使驛所傳、極於此矣」(使訳の伝える所はこれに尽きる)という行があります。
つまり、范曄は、もちろん三国志を読んだはずですが、それを丸写ししたのではなく、自ら原資料にあたって東夷列伝を書いたようです。
これらの資料は、邪馬台国ファンが多いこともあって、様々な方により充分読み込まれてきたはずですが、あえて私なりに読んでみたいと思います。
 
列傳 卷八十五 東夷列傳
 倭在 韓東南 大海中、依山島為居、凡百餘國。
 自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、
 國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。
 其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。
 
 倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為り、およそ百余国あり。
 武帝の朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳を通ずる者、三十国ばかりの国ありて、
 国ごとに皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居す。
 楽浪郡の境界は、その国を去ること一万二千里。
 その西北界の拘邪韓国を去ること七千余里。
 その地、概ね会稽・東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相近し。
 故にその法・俗も同じきところ多し。
 
 
当時は世界のどこにも現在のような「国民国家」や「国」の概念はありません。
まず、「中国」は「国家名」ではありません。(現在の中華人民共和国=中国、と中国正史に書かれる“中国”は意味が全く違います)

現代の感覚で言うところの「国名」は、漢・魏・呉・蜀、などと固有名詞のみで書かれ、漢国・魏国・呉国・蜀国とは呼びません。

 

古代中国語での「国」は「郭」と同じ意味で、その本源は「囲郭」「城郭」を巡らせた「都市」です。
その都市の本質は「市場」です。
「郡県制」を作った中国では、たとえば秦の始皇帝の時代なら「秦」の下に36の「郡」(その下に県)を置き、官吏を派遣して統治しました。
この郡が、国々(周辺異民族の)を管理していたわけです。
郡は「軍」と同意で軍管区、「郡太守」とは「軍司令官」のような意味の軍人でした。

大雑把に言えば、現在の日本での「国」⇒「県」⇒「郡」の関係が真逆だと考えればわかりやすいですね。
そもそも、中国とそれを治める皇帝とは、商業都市と王がその成り立ちであり、城壁都市の内部で行われる商業市が経済の中心です。
租税、すなわち政府の収入「租」(農産物の現物)と、皇帝の収入「税」(都市の城門や交通要所等の通過料)により発展しました。
やがてその都市を各地に造り、都市通しを結ぶ商業ネットワークを拡大していった。
王は、都市の間を行ったり来たりして経済活動を調整した、これが「往(王)来」です。
これらの各都市が「国」なのです。
 
周辺異民族の住む地域を表すときも、例えば朝鮮半島南部の韓は「韓国」ではなく「韓」。
これは馬韓弁韓辰韓の総称であり、その三韓の中にそれぞれ「国」が数十国ある、と記されています。
「国」とは、せいぜい現在の市町村のような単位で、もっと元初の「国」とは、飛び石状に点在した「市場都市」のようなものなのです。
この点を勘違いされている方がけっこういます。
たとえば「倭国」という名の「国家」がある、さらには「倭国」=「邪馬台国」として考察している方も多いです。
 
我が国も、中国正史においては当然同じ扱いで、書き出しは、「倭在、韓東南大海中」で、「倭国」ではなく「倭」です。
そして、倭の中に100余国の「国」があったと書いています。ちなみに三韓は合わせて76国です。
 
倭国」などという「特定の国」は最初から無いのです。
文中に「倭国」という文字が出現しても、それは「倭(の諸国の中の、ある特定の一つの)国」または「倭の国々」という意味です。
倭国という文字の含まれる一文だけ抜き出して見れば、この解釈に疑問を感じるかもしれませんが、前後の文全体を通して見れば明々白々の事実です。
一例として『隋書』倭国伝の書き出しを見ても、
 
倭國在 百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居。
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。
 
倭国は、百済新羅の東南に在る。
水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。
 
であり、「倭国」が特定の一国ではなく、「倭の国々(三十餘國)の総称」であることが明確に読み取れます。
ところが、どんな本やサイトの訳文を見てもすべて「倭国は・・・」となっています。
ここは「倭に国(々)在り。百済新羅の東南、水陸を越えること三千里。大海中の山島に依り居する」と訳すべきなのです。
 
偉い先生方の訳も、せいぜいこの程度のやっつけ仕事なのだと認識して読まないと痛い目にあいます。
 

もう一点。この「倭」は一般に「わ」と読まれていますが、以前も書いたように正しくは「い」です。
 
 
 
 
後漢書』の「東夷列傳」に記された
 
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 
 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 
印綬とされる金印には
 
 漢委奴國王
 
と刻まれているため、「倭」=「委」で、この内「ウォ(ワ)」と発音するのは「倭」の方だけ。
両字に共通する発音は「ウェイ(イ)」だから、後漢書に書かれた「倭」の発音は「イ」が正しいという事実は疑いようがありません。
 
この一文にも「倭國之極南界」という言葉が見えますが、上に見たように、これは「倭國の中の極南」という意味ではなく、「倭奴國(または奴國)は、倭(の國々)で一番南に位置する國」という意味です。
 
では、一行目から読んでみます。
 
 倭在韓東南大海中依山島為居
 
二種類の読み方が可能です。
 
①倭は、韓の東南に在る。 (倭人は)大海の中の 山の多い島に依って居らしている。
②倭は、韓の東南の大海の中に在る。(倭人は)山の多い島に依って居らしている。
 
どちらが(意味として)正確か?“この時点では”保留、となります。
私は①が正しいと確信していますが、解説本を含めほとんどが②です。
上の『隋書』も見てください。それ以前の中国正史を見て(これが普通の書き方)書いた史書、その書き出しは①のパターンです。
 
実は、漢文には文法がありません。(以下引用)
 
漢文は中国語(話されている言葉)とは無関係である。だから古語などではない。
もし、古語であれば現代でも痕跡があるはずだが、それすらない。
 
例えば中国革命の指導者・孫文の右腕である戴伝賢は徹底的な古典教育を受け、主要な古典を暗唱できたにもかかわらず、意味がわからなかったと告白している。
また、魯迅は「五猖会」の中で、暗誦させられた後、「私には一字も理解できなかった」と告白している。
そもそも、漢文には文法が存在しない。つまり、動詞とか名詞という区別もない。
「言」という言葉でも、「言う」という動詞なのか、「発言」という名詞なのか、判別する方法がない。
同じ動詞でも時制がないから、現代形なのか過去形なのか区別ができない。
さらに、句読点がないから、どこまでが一文かわからない。
つまり、全体の意味がわからなければ、一字一句もわからないし、発音もわからない、全くの「書き言葉としての言語」で「話されている言葉(中国語)とは無縁の言語体系」である。
現在漢文の文法と認識されているものは後世の慣習的用法から拾い出したものである。
 
~岡田 英弘~ (引用終わり)
 
付け加えると、上で「国」を見たように、単数形(国)と複数系(国々)の表記の違いもない、ことを忘れてはいけません。
 
 
とりあえずの注意点は、倭は「島」を「本拠地」としている点です。
後述しますが、後の中国正史を見てもわかるとおり、「倭」の範囲はどんなに広域に見ても、せいぜい「西日本」です。
また、そこから東の日本列島の情報は、この時代には全く無いのです。
日本列島全体が逆さまに描かれた古い地図がよく知られますが、あれらは15世紀以降つまり、後漢書三国志が書かれた時代から千年後のものです。
当時の中国人に本州の情報がなかった証拠があります。
 
 
イメージ 1
 
 
いわゆる魏志倭人伝が記されている『三国志東夷伝の「東沃沮」(とうよくそ)の条に、次のような記述があります。
(東沃沮は朝鮮半島東北部で海を東進すれば北陸~東北に至ります)
 
王頎(上に書いた帯方郡太守。正確にはこのとき玄菟郡太守であり、この2年後帯方郡へ着任する)が毋丘倹(かんきゅうけん)の命令で高句麗王の宮を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか」と尋ねた。
老人が言うには
 
「昔、ここの者が漁に出たまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます」と答えた。
また、「海の彼方に女ばかりで男のいない国もあります」「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました」
「難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました」
などとも答えた。
 

このように「東夷」の当時の最新情報を一手に握り、本国、魏の洛陽へ報告書を上げていた郡太守が日本列島を全く認識できていないのです。
この時代の中国人や朝鮮人が、かりに九州から中国地方へ上陸したとして、その先「東」が「どこまで続いているか」「広がっていくのか、すぼまっていくのか」地理的情報がないのです。
そういう土地を「島」と書きますか?
 
当時の中国人にしてみれば、中国地方から畿内にかけては、朝鮮のような「半島」で、その先は大陸かもしれないではありませんか?
現に朝鮮半島の国々を記すときに、〇〇は東を海に面している、とか、東西を海に面す、とか書いています。
大陸と陸続きなのですから当然ですね。
四面がみな海ということが確認できて初めて「島」と書くのです。
 
『隋書』倭国伝にも、倭国の特徴として「其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海」と、「海に囲まれた、東西に長い地形」であることが記されています。これを読み、漠然と現在の日本地図を思い浮かべるのはナンセンスです。
西日本で「島」と断定できるのは、離れ小島を除けば「九州」か「四国」か「淡路島」なのです。

少なくとも、この時代の中国人の持つ情報としては、倭人が本拠としているのは、この三島のいずれかと認識していたということになります。
そしてこのうち、東西に長いのは、もちろん四国です。
 

 

ちなみに先般開催された「新邪馬台国サミット in吉備」では、邪馬台国吉備説、近江説、丹後説、阿波母体(畿内)説などが主張されましたが、全員に共通している認識は、「九州説だけは無い」、だそうです。(笑)
  
 凡百餘國
 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國
 
 (倭には)およそ百余の国々が在る。
 前漢武帝が朝鮮を滅ぼしてより、
 漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。
 

最初に書いたように、倭のエリアの中に約100の都市がある、という意味です。この数がどこまで正確かという点はさておいて。
 
「燕」出身の中国人亡命者である衛満が建国した朝鮮半島初の国家「朝鮮」は、紀元前108年、前漢武帝に滅ぼされ、その後半島には、楽浪郡真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が置かれ「漢」の領土となります。
この内、倭と中国との窓口となったのが「楽浪郡」(後に帯方郡が分割)です。
 
「漢に使訳」とは、この楽浪郡倭人の使者が接触することで、その数なんと30国。
「凡百餘國」は又聞き情報でしょうが、この「三十國」は直接会っているのですから、相当に信用を置けるでしょう。

ばらばらに接触してきたということは、通訳の人数も30人。
楽浪郡に職業通訳がいた可能性もありますが、倭語中国語に通じる人間が相当数いたことは間違いないでしょう。
 

 

これだけの数の国々が同時期一斉に半島に進出してきたなどということはありえませんから、衛氏朝鮮の時代から既に日本人は朝鮮半島と交易を行っていたのです。
その朝鮮半島の主が変わったために、新たな主の出先機関接触したわけです。
 
倭のエリアを最大西日本として、その中に30箇所もの経済的に栄えた都市があり、積極的に交易を行っていた。
当然それらの国々は「海沿い」にあったはずです。単なる海沿いではなく天然の良港を備える場所です。
「国」は本来「市場」であったと書きましたが、内陸の物流は現代のように進んでいるわけがありませんから「市場」は全て水揚げできる場所にあったのです。
普通に考えて「大市」は海辺、「小市」は川辺になります。
市場があるということは、そこに住む人が増え、その人たちの衣食住を支える職業を持つ人々が周辺に集まり、都市(国)が発生します。
 
そして当然、これらの地域には優れた航海術を持つ海人族がいたはずです。
このうちいくつかの国々は同族関係にあった可能性もあります。
A・B・C・Dといった国々は、それぞれ単独に朝鮮半島と交易していただけでなく、A~D間でも交易したはずだからです。
物を交易するということは人が交流することであり、ロマンスや政略婚も生まれます。

私は、伊邪那岐命伊邪那美命による「国生み」は、この政治的経済的血縁的関係の生まれる過程を神話化したものと考えています。
従って、現在、当地こそが邪馬台国、と主張している地域のほとんどは、この30国のどれかである可能性が極めて高いでしょう。
曰く、3世紀のこんなに栄えた遺跡が出てきた。中国との交易を示す遺物が出土した、と言っても、それが直接、邪馬台国所在の物証となるわけではない、ということです。
 
 
 國皆稱王 世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里。
 其地大較在會稽東冶之東
 
 (百餘國の)国では皆が王を称し、世世統を伝う。
 その大倭王は邪馬臺国に居す。
 楽浪郡の境界は、その国を去ること一万二千里。
 その西北界の拘邪韓国を去ること七千余里。
 その地は凡そ会稽郡東冶の東に在る。
 
 
「倭」に属する「国々」の主は皆「王」を名乗っている。
そして、その中の「大倭王」は「邪馬臺國」の王である。
 
ここから読み取れることは、30国の倭の国々は勝手バラバラに漢と交流交易を求めてきたが、実は倭には「代表国」とも言える存在の「邪馬臺」という名の「本国」があったということです。
現在の日本で、「国」の下に「都道府県」があり、その中心が「東京都」であるように、当時の西日本「倭」の下に「100余の国々」があり、その中心が「邪馬臺國」だ、ということです。
その邪馬臺國の大倭王が現在の国家元首のような存在と考えれば理解しやすいと思います。
 
その本国の位置は、後漢書には距離しか書いていませんが、結論は魏志倭人伝と同じく「会稽郡東冶の東」つまり、九州よりもはるか南海です。

私は、この位置的結論は“魏志の丸写し”だと思います。
なぜなら、魏志倭人伝には事細かく邪馬臺国に至る方位と距離・行程が記されていて、おそらくそれは「原資料には無い」魏志特有の記述だからです。
そして陳寿は自ら作成した行程に従って計算すると、邪馬臺国の位置は会稽郡東冶の東海だと書いた。
つまり結論ありきなのです。邪馬臺国が会稽郡東冶の東に在ることにしたかったために、それを前提として距離と方位を逆算して書いたのです。
これは、岡田英弘氏の説ですが、私は他にこれ以上説得力のある説を知らないので、これを支持しています。
岡田氏は満洲史・モンゴル史を主軸とした歴史学者で東アジア全般の歴史に独自の視点を持っています。

いわゆる魏志倭人伝を本当に理解するためには、三国志全てはもちろん、他の中国正史や歴史書を読み、アジア史全般に精通する必要があると言います。
歴史とは何か?中国人にとっての歴史の意味・歴史書とは何か?三国志東夷伝は、また倭人条は、どういう目的で書かれたか?
陳寿とはいかなる人物か?どういう政治的背景があるのか?当時の大陸の歴史的背景はどうなのか?
あらゆる角度から見て、西晋と司馬氏の正当性を主張するため、魏朝における司馬 懿(しばい)の功績を特筆大書する必要性から「倭という国が魏と通じた東海上超大国である」と“創作”する必然性があった、と結論づけています。
そしてその位置は戦略的必然性から「会稽郡東冶の東」でなければならなかった、と。
 
 

 

私は昔から、邪馬台国には興味がありましたが、邪馬台国論争には興味が持てずにいました。
はじめて魏志倭人伝を読んだ時「これかなりデタラメだろ?」という印象を持ちましたが、国内ではみな盲目的にこの史料を「完全に正しい」という前提で邪馬台国の比定地論争しているからです。歴史学史料批判から始まるのですが、魏志倭人伝に関しては何故かそれを飛ばしており、正史だから正確なのだ、「解釈」の問題なのだ、と解釈合戦している様子にしらけていたのでした。
 
 
※おすすめの本
 
『日本史の誕生 - 1300年前の外圧が日本を作った』岡田英弘
魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国』渡邉義浩
 
 
魏志倭人伝のどこが信用できなくてどこが信用に足りるか?その根拠は何か?等、仔細に解説されています。
何度かブログに書こうと思いましたが、全ページアンダーライン引きまくり、紹介したい文章だらけで、手に負えないので(面倒なだけ)買って読んでください。
どちらか一冊なら、『魏志倭人伝の謎を解く』をお薦めします。読みやすいし岡田英弘氏の説も一部紹介されています。
岡田英弘氏の説は、最初は抵抗があるし頭が受け付けないと思います。でも何度か読めば趣旨が理解できてきます。完璧な説ではないんですが、とても勉強になります。
 
 
  (続く)