一方そのころ、我が日本はどんな姿だったのか?
漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条
然東夷天性柔順 異於三方之外
故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
後漢書 列傳 卷八十五 東夷列傳
倭在 韓東南 大海中、依山島為居、凡百餘國。
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、
國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為り、およそ百余国あり。
武帝の朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳を通ずる者、三十ばかりの国ありて、
国ごとに皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居す。
大陸に点在した国々は、郡県制以後、県として皇帝直属の都市となりましたが、その東端が楽浪郡であり、そこから先はまだ皇帝に属さない交易都市が展開していました。
すなわち、正史に記されるところの「国」です。
都から最果てに位置する郡には、その先の異民族の国々との折衝窓口の任務が兼任されていました。
詳しいことは不明ながら、楽浪郡には、二千年以上前の時点で「倭人」の「国」が百余国と伝えられていたのです。内三十国の使者は、直接楽浪郡へ行っていました。それらの国々の長がみな「王」と自称したということは、いかに皇帝経済が日本列島まで影響を与えていたかを示す証拠です。
「王」が「国」のボスであるという呼称は中国語だからです。岡田英弘氏は日本側の国々も華僑が開いた、と言っていますが、実際三十国のうちいくつかはそうなのかもしれません。国々の長たちは、その呼称を真似たのでしょう。今も昔も日本人は外来語が大好きです。それまでは自分を「社長」と呼ばせていた企業のトップが「C・E・O」と名乗り始めるようなものです。
秦以前において「国」は「城郭都市」で「中国」は「首都」でした。
秦漢において「城郭都市」は「県」となり、また「国」は「邦」に代わって都市を包括する広域を指す言葉となり、「中国」は「中原」と同義となりました。
郡県制の下に属さない日本側は「国」は「国」のままで「交易都市」のことであり、その「首都を表す言葉」も「“国”を包括する広域」を示す言葉もなく、中国史書ではみな同じく「国」と表記されました。中国国内とは事情の違う他民族の政治形態を表す中国語などありませんから当然のことです。
たとえば、彼らが倭人の都のことを「倭の中国」と書くわけありませんよね。
「ヤマトはどこにあるか?」「イナです」→「イナ国」という調子です。
これが「邪馬臺國」を分かりづらくする要因の一つとなりました。
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。
倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見。
安帝の永初元年(107年)、
願いて見えんことを請う。
「倭奴国」を「わのなこく」と読むのが一般的なようですが、根拠がありません。
後漢書の記載順から言えば、
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
が先(書き出し)であり、また、そもそもが「東夷伝」「倭」の記事なのですから、「倭の」◯国などと書かなくても、どこの話をしているのかは最初からわかっています。この後、地誌が延々と続き、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀」と、続くのですから、いまさら「“倭の”奴國」などと断りを入れる必要などかけらも無いのです。
従って「倭奴」を国名と考えるのが当然です。
正史の漢文に「国」と「国々」の単数形複数形の書きわけがないことは、繰り返し見てきました。前後の文脈で判断するのです。
はっきりしているのは「邪馬臺國に居するのが大倭王」であるということだけです。
仮に全部が一緒だった場合、倭奴國の都が邪馬臺であり、その何代目かの王が帥升、ということになります。
『隋書』倭国伝
倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
邪靡堆に都す 魏志謂うところの邪馬臺なるもの也
「邪馬臺國」とは「国」と表記されているが、実態は「都」「首都名」なのです。
日本の歴史において「大和」と「倭」の関係性は不明のままです。
そこで、国史に関心が沸き起こった江戸時代に、大和以外のヤマト地名を探して邪馬臺探しがなされたりしたのです。
拙ブログでは、最近、『隋書』の記述から見て、「邪靡堆」は「吉野川河口付近」と断定?しました。「付近」とは、せいぜいそこから日帰りで行って戻れる距離(目的の行事時間を含めて)という意味です。
「それではヤマトの位置は阿波説内においてもばらばらではないか?」「都合が良すぎるのではないか?」と言われそうです。
そのようなことはありません。誰であっても、古事記を一読すればすぐわかるでしょう。
ヤマトは移動する からです。
たとえば、神武天皇はヤマトにはいなかったのです。
ヤマトにいた王は邇藝速日命です。
現在のように法律で皇位継承順位が決まっていたわけではありません。大王の血を引く男系男子にはみな等しくその最低限の資格があったのです。
ところが昔日においては譲位は普通のことだったのです。
邇藝速日命が倭の王だったということは、先代の大王から正式に譲位を受けたという事実を示します。
「出雲より倭国に上りまさむとして束装し立たす時」
とあるからです。この一行で「高志」を中心に当時の「倭」と「出雲」の位置関係が判明します。
本来のヤマトは移動するのが慣例だったのです。
私は式年遷宮の原点もそこにあると考えています。
神宮を遷宮することを代わりとすることで、都を固定させたのでしょう。
同時に地名を移すこともやめ、奈良大和は最後のヤマトになったのです。