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『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する②


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『隋書』倭国

倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去 樂浪郡境 及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近

倭国は、百済新羅の東南、水陸三千里に在り。大海中に於いて山島に依りて居る。
魏の時、中国に訳通すは三十余国。皆、自ら王と称す。
夷人は里数を知らず、ただ計るに日を以ってす。

その国境は東西五カ月の行、南北三カ月の行にして、各々海に至る
その地勢、東高西低
邪靡堆に都す。則ち、魏志謂うところの邪馬臺なるもの也。

古より云う。楽浪郡の境及び帯方郡を去ること一万二千里、会稽の東に在り。儋耳と相近し。


隋書以前の国史にも登場する倭国」の「都」の名は「邪靡堆」(やまと)で、これが魏志倭人伝)いうところの「邪馬臺」だということです。


漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
桓 靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歴年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立為王
有男弟 佐卑彌理國 其王有侍婢千人
罕有見其面者 唯有男子二人給王飲食 通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴
自魏至于齊 梁 代與中國相通
 
後漢光武帝の時(25-57年)、遣使、入朝し、自ら大夫と称す。
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝霊帝の間(146-189年)、その国大いに乱れ、遞に相攻伐し、年歴るも、主無し。
女子有り。名は卑彌呼。能く鬼道を以て衆を惑わす。ここに於いて国人、共立し王と為す。
男弟有り、卑彌を佐けて国を理む。その王、侍婢千人有り。
その面を見たることある者罕なり。ただ男子二人のみ有りて、王に飲食を給し、言語を通伝す。
その王、宮室、楼観、城柵あり、皆兵を持ちて守衛し、法を為むること甚だ厳なり。
魏より斉・梁に至るまで、代々中国と相通ず。


中国正史は、まずそれ以前に書かれた正史その他を通読し、引用するのが定石です。
その後で、新しい情報を付記するのです。
この部分も、ほとんどが先の正史の引用であるのは一目瞭然ですが、書き誤りでない限り新しい情報も含まれています。

たとえば女王の名は「卑彌呼」ですが、そのあとで「卑彌」を助けて云々、とあります。
「卑彌呼」の訓み方は一般にヒミコですが、隋書の書き方が間違っていなければヒメかもしれません。
正確な訓みはまだ不明なんだそうです。

また、三国志では、卑彌呼に仕えた男子は一人ですが、隋書では二人になっています。
書き間違いか、別の情報源があったのか、三国志に記される男弟を加えて二人と書いたのか?不明です。
ここまでは、このように既出の情報が主たる内容ですが、いよいよここからが、隋書の面白いところです。


開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言倭王以天為兄、以日為弟、
天未明時出聽政、跏趺坐、
日出便停理務、云委我弟。
高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。

隋の開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を闕(けつ・王宮の門)に詣しむ。
上(文帝)、所司をしてその風俗を尋ねしむ。
使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。
日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

高祖曰く「これはなはだ義理なし」。ここに於いて訓してこれを改めしむ。
王の妻雞彌(きみ・けみ)と号す。
後宮に女六~七百人あり。太子を名づけて利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。


倭王阿毎多利思比孤(天帯彦あるいは天足彦:あまたらしひこ)、号は阿輩雞彌(阿波王:あはきみ・けみ)、遣使を宮殿に詣らす。

何故か旧唐書では「あめ」と訓まれることの多い「阿毎」ですが、隋書では「あま」と訓むのが一般的です。なんだかな~ですね。「旧唐書に見る倭国」 に書いたように、これは「あま」か「あば」でしょう。
次に号の阿輩雞彌にも注意してください。

「阿波」の本来の発音が「あわ」ではなく「あは」であることは既に当ブログに書きました。
隋書は正確に「阿輩」と記しています。

一般的には御存知の通り「おおきみ」と訓んでいます。
どう訓めば、「阿輩」が「おほ」になるんですか

「あはきみ」だと解釈に困ってしまうが「おおきみ」だと納得しやすい、ということなんでしょう。
それが学問的態度ですか?
素人の歴史ファンならともかく学者諸氏はそれでいいんでしょうか?


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こういった、まともな本もあります

(中略)

風俗記事が長く続きますが略します。が、一か所突然に具体的な地名が出てくるので説明します。

阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭

阿蘇山あり、その石故無くして火起こり天に接することあり。
俗、以ってこれを異となし、因って禱祭を行う。


倭国には「阿蘇山」という火山があり、その噴火は凶兆だとして祈りを捧げる風俗が報告されています。これを持って、倭国肥後国=九州=邪馬台国、と断言する方がおられます。

当然といえば当然なんですが、中国正史に書かれる倭国」の見方が間違っています。今まで繰り返し書いたように「倭国」という特定の国はありません。

「倭」があり、その中に100以上の「国」があり、内30余国は中国と直接の繋がりがありました。
中国正史が「倭国」と書くとき、この「倭の国々」の「総称」として書く時と、そのうちの「一つの国」を指して書く時があります。
例えば、倭に属するA国も倭国ですし、B国も倭国なのです。
たまに、その個別国名を具体的に書くことも有ります。

『隋書』に限定して見ると、「倭國」は、「魏時」、「中國」と通じていた数「三十餘國」で、皆自ら「王」と称した。 「都於邪靡堆」と、ヤマトは「国」ではなく「都」として別扱いであり、つまり、倭国という時には「倭の国々」の「総体」で書いています。
「倭の国々」の中の「個体」としては「倭奴國」の名が登場します。

旧唐書にも「倭國者 古倭奴國也」の一文があります。
これで旧唐書の当該箇所で言う「倭国」は、倭の「総体」国ではなく「個体」国だとわかるのです。

その旧唐書中の「倭奴國」「其王・姓阿毎氏」ですから、隋書中の倭王・姓阿毎・字多利思比孤」の「倭王」とは「倭奴國王」ということになります。

国史が「倭国王」と書いていても「倭国全体の大王」のことなのか、「倭の中の一つの小国王」なのかは分からず、それは、このように文脈で判断するのです。

この隋書の「伝」は倭国伝」であって「倭奴國伝」ではありません。
従って、「風俗記事」に書かれるのは当然倭国全体の風俗」なのです。
そして、その「倭の国々」の中には、当然、九州にあった国々も含まれるのであり、阿蘇山が出てきても何の不思議もないのです。

これが「倭奴國に阿蘇山がある」とか「邪靡堆に阿蘇山がある」と書かれていれば大変なことです。
どの史書にもないレベルで、ピンポイントで、当時の倭の国々をまとめる大王が都していた首都国の所在地が判明するからです。


新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

新羅百済は皆、倭を以って、大国にして珍物多しと為し、並にこれを敬仰して、常に通使往来す。

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢
使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 
大業三年(607年)、その王、多利思比孤、使いを遣して朝貢せしむ。
使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
帝(煬帝・604年8月21日 - 618年4月11日)、これを見て悦ばず。
鴻臚卿(こうろけい・外務大臣)に謂いて曰く

蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞することなかれ!

と。


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怒怒怒ぬぬ・・・・牟牟牟むむ・・・・・尾、尾野礼、阿波気美戸屋良・・・

阿輩雞彌(あわきみ)は、続けて大業三年(607年)、使者を隋に送ったが、その時の国書が有名な「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々です。
これに対し、隋の煬帝は「蛮夷の書に無礼あり。二度と奏上するなかれ」と激怒しました。
 
過去記事でも中国の朝貢制度の本質について書きましたが、それからすると全く許しがたい国書だったわけです。煬帝は皇帝としての顔を潰された思いで怒りに打ち震えたのでした。

一体何が「皇帝としての煬帝」を否定することになったのかといえば、それは「天子」の文言です。

中国の観念では、まず「」という存在があり、その「天の意思」が、「地上の支配者」となる者を選びます。これが「天命」であり、選ばれた者が「天子」です。政治的には、この天子が「皇帝」を名乗ります。

天が天子を選出する基準は、その人物の「」です。
朝貢という儀式は、この「天子の徳」を人民に証明するための一大政治ショーであり、「皇帝の徳が高ければ高いほど、その徳を慕って、より遠方の国から進貢が行われる」とされました。

したがって、その「進貢者自身が天子を名乗る」などということは、中国側から見れば、全くありえない、朝貢そのものと皇帝の存在の全否定なのです。



中国大陸の国家の歴史は、常に、この「天子の存在」をかけて血で血を洗う争いの歴史でした。なぜなら、

天子は地上にただ一人の存在

だからです。

有名な「三国志」は、同時代に三人の皇帝(天子)が即位した、という戦国時代のヒストリーです。天子を自称するのは自由、後はそれを実力で証明するのです。

そういった激烈な歴史の中で皇帝を名乗っている人物に、海の向こうの小国の王が「私も天子である」と名乗ったのです。これは同じ大陸内であれば、宣戦布告そのものです。

倭国側も対等の関係を示すに最も適切な単語として選んだのですが、そういった観念まで理解した上で「天子」を使ったのかどうかは不明です。
知った上でのことならば、意図的にかなり危ない橋を渡ったことになります。


(続く)