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式内社 多祁御奈刀弥神社 名西郡石井町

 
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日本一社 延喜式式内社 阿波國名方郡 多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ)神社
 
鎮座地 徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1
 
御祭神 建御名方(たけみなかた)命 八坂刀賣(やさかとめ)命 (徳島県神社誌)
 
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。明治七年郷社に列す。(徳島県神社誌)
 
 
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創立年代不詳。
 
御祭神について異説はないが、延喜式の記載は一座であるから、本来の御祭神はは建御名方命一柱である。 『式内社調査報告』では、「江戸時代の諸書から、同時代には建御名方尊一座であったらしいことが判明するので、明治以後に八坂刀賣命が祭神に加わったのかもしれない」と記す。
一方、「案外、この二尊は尊名がよく似ている所から、関係者が混同した結果、二尊が祭られることになったのではなかろうか」などと不勉強なことも述べている。
 
八坂刀賣命は、建御名方命の后神であり、そのため、年代は不明だが後の世に配祀されたとみえる。
八坂刀賣命を御祭神とする有名な神社は、諏訪大社であり、その元の社名は、式内社「南方刀美神社二座」である。

すなわち、信濃国諏方郡においては、延喜式が編纂される以前から二座(建御名方命並びに八坂刀賣命)で祀られており、多祁御奈刀弥神社は明治になってこれに倣った可能性がある。
 
当初から、八坂刀賣命は、建御名方命の后神として祀られていたのか?は、確認する術がないが、本居宣長なども『古事記伝』で「此健御名方富命は水内郡の社なり。八坂刀売神は諏訪社二座の内の一座にて御名方富神の后神にして今下諏訪と云是なり」と記す。
 
 
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信濃国南方刀美神社も、創立年代は不詳である。
昭和26年~昭和44年に編纂された『信濃史料』 という一大史料集があるが、南方刀美神社の由緒となる建御名方命の情報は何もなく、「神代 建御名方神、諏訪に入ると伝ふ」と書くのみで、他は、古事記先代旧事本紀等を引用するにとどまっている。
 
この『信濃史料』にも引用される『続日本紀』の
 
養老五年六月二六日(721) 信濃国を割きて諏方国を置く、尋いで美濃按察使の管下となす。
 
で確認できるように、「諏方」は八世紀に誕生した国名である。

南方刀美神社の国史初見は『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸)大同元年牒(806)の「建御名方富(タケミナカタトミ)命神 七戸」というものである。
 
それ以前の「シナノ・スワ」地名の記述は、『古事記』国譲りシーンの「科野国之州羽海」、『日本書紀持統天皇5年の「遣二使者一祭二竜田風神。信濃須波。水内等神一」であるが、これが南方刀美神社と結びつくとは断定できない。
この「科野」「州羽」「信濃」「須波」が全て現在の長野県を指すとは限らないからである。
第一、長野には「海」が無い。
 
 
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阿波の諏訪の海(海進3m)
 
 
 
次に、八坂刀賣命の神名の国史初見は、『続日本後紀』承和9年10月壬戌(2日)条(842)の
 
奉レ授二  安房国 従五位下安房大神正五位下 無位第一后神天比理刀咩命神
     信濃国 無位健御名方富命前八坂刀売神
               阿波国 無位葦稲葉神
               越後国 無位伊夜比古神
               常陸国 無位筑波女大神並従五位下
 
だが、同『続日本後紀』承和9年5月丁未(14日)条(842)の記載では
 
奉レ授二 信濃国諏方郡 無位勲八等南方刀美神従五位下
 
であるから、この半年の間に八坂刀売神が配祀された可能性もある。
 
 
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信濃史料』巻十一に、
 
天文二年(1533) 諏訪社上社大祝諏訪頼忠、信濃国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記を書す、とあるが、その『上宮御鎮座秘伝記』でも建御名方命については「追到科野国之州羽海」の一節を中心に古事記をそのまま引用するのみであった。
後段で「古記に信濃国建御名方神の住之地云々」とあり、その「信濃」は科の木を産する地ゆえの「科野」である、と続くが、南方刀美神社の「御鎮座秘伝」と言うには心許ない。
 
 
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ところで、この『上宮御鎮座秘伝記』では、八坂刀賣命について「天孫降臨供奉三十二神之中、八坂彦命之後流也」と記している。

この「天孫降臨供奉三十二神」とは『先代旧事本紀』に登場する「邇芸速日命と三十二人の防衛(ふさぎもり)」のことである。
 
これは、なかなか興味深い話だ。
『先代旧辞本紀』ではこの八坂彦命を「伊勢神麻績連(いせのかむおみのむらじ)らの祖」としているが、その名前から連想される通り、神麻績連は忌部氏天日鷲命の後裔なのである。
 
 
平田篤胤『古史成文』
 
故れ其の天日鷲命は(亦天日鷲翔矢命と云す) 産巣日神の御子 天底立命(亦名は角凝魂命) の子 天手力男神(亦名は天石戸別命、亦名は伊佐布魂命、亦名は明日名門命) の子。
 
粟國忌部、多米連、天語連、弓削連等が祖なり。
 
次に長白羽命は(亦天白羽命と云す。亦名は天物知命。亦名は天八坂彦命)天日鷲命の子。
神麻績連等が祖なり。
 
次に天羽槌雄命は(亦健葉槌命と云す。亦天羽雷命と云す。亦名は綺日安命)角凝魂命の子、伊佐布魂命より出づ。倭文連、長幡部等が祖なり。
 
次に天御桙命は、神服部連等が祖なり。次に天八千千比賣命は、伊勢人面等が祖なり。

長白羽命(ながしらはのみこと)は、『安房斎部系図』においても、天日鷲命の子となっている。
長白羽命の「長」は「天」と対比してみても「那賀・那珂・長」の出自を示すものであろう。
 
長白羽命は『古語拾遺』の天岩戸シーンに登場し、思兼神に命じられ、麻を植え青和幣(あおにぎて)を織った神である。伊勢へ奉納する荒妙(あらたえ)を織ったのが神麻績部である。

一方、歴代天皇が即位後初めて行う践祚大嘗祭において神衣(かむそ)とされる「あらたえ」(阿良多倍・粗栲・荒妙・麁妙・麁服)は古来阿波忌部氏が貢進してきた。
この任に当たる御衣御殿人(みぞみあらかんど)は、上古より阿波の麻殖忌部氏人の中から卜定(ぼくじょう)により選定された。この御殿人の家筋は、鎌倉時代には現在の美馬市木屋平の三木家にほぼ固定し現在に至るまで続いている。
 
阿波忌部氏以外のものが、この麁服を作ることはできない。
三木家には、延慶(えんきょう)二年(1309)や文保(ぶんぽう)二年(1318)の日付となる朝廷からの「官宣旨」や太政官からの「太政官符」(国司による写し)が現存している。
 
 應(まさ)に早く荒妙御衣を織り進(まいら)しむべき事
 右大納言藤原朝臣師信 宣(しめ)す
 勅を奉ずるに 大嘗会主基所料 宜(よろ)しく彼の国に仰せ
 先例に依って常(いつも)の氏人を以て織り備え令(し)め
 神祇官の使いに附して 早く以て進上すべし者
 国宜(よろ)しく承知して宜(むべ)に依って之を行え
 
このように、神麻績部ー長白羽命は阿波忌部と深く結びついているのであり、そのことと考え合わせると、八坂刀賣命が建御名方命の后神であるというのも宜なるかな、と言える。
兄である事代主命の妃神・天津羽々命も忌部なのである。

これらの事実や系図を上の『上宮御鎮座秘伝記』と重ねて見るならば、八坂刀賣命は、阿波忌部の祖・天日鷲命の孫娘だと分かる。
そして、その父、八坂彦命は、天日鷲命の子でありながら、邇芸速日命の防衛を務めていた、というわけである。
 
 
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ところで、リンク先にも書いたように、社伝によれば、信濃諏訪郡南方刀美神社は、宝亀10年に当社から移遷されたとなっている。『阿府志』には、
 
多祁御奈刀弥神社は諏訪に在り諏訪大明神也。大己貴命の御子也。
御母は阿波の高志の沼河姫天水塞比売なりと云えり。
 
崇神帝の朝に素都乃美奈留命を高志の深江の国定に定む。
其の所、南海の内に美奈刀(みなと)生まれ給ふ。
 
此の御名方命は、即ち、阿波国の諏訪の里の諏訪の神也。
高志の庄は、元名西郡高志の郷にして、後世、麻植郡の或一小郡を加へたるを以て、今の牛島村なる高志良(こしら)と唱う地なるべし。
 
水塞姫神は、名西郡高志の郷、現今は高原村の内往古は寒村(せきむら)といへるを中古にいたり堰村とも書きたるもの也。
則ち、高原村の内字関傍示(せきぼうじ)に水堰姫(みなせきひめ)の神を祭れる旧跡あり。
 
社伝記ニ、代光仁(こうにん)帝(第四十九天皇・709~782)ノ御宇、宝亀(ほうき)十年(779)
信濃諏訪郡 南方刀美神社名神大阿波国名方郡諏訪大明神ヲ、移遷シ奉ルとあり・・・」
 
と記されている。
上記の高志郷旧跡は現在、祀りを高志沼河姫を御祭神とする吉野川市の杉尾神社ヘ移され、そこに、この南方刀美神社移遷の社伝記がある。
『阿府志』のいう「社伝記」がこれを指すのか、同様のものが多祁御奈刀弥神社にもあったのか?は不明である。
 
 
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南方刀美神社の国史初見は、806年であるから、記録上の辻褄はあっている。
一方で、多祁御奈刀弥神分祀の情報は一神社の社伝なのであるから、無批判な肯定は近視眼的な歴史の見方に繋がるという意見が返ってきそうである。

その点だけを見るならば、確かにそうなのだが、阿波国の歴史を研究する者たちが当社とその伝承を重要視するのには、その下地となる数えきれないほどの情報があるからである。
 
その内「出雲神」だけを見ても、同じ名方郡の式内社「大御和神社」に父・大国主命、隣の阿波郡の式内社事代主神社」に兄・事代主命(正確には甥・兄の事代主命勝浦郡事代主神社)で祀られる。

上記のように、母・高志沼河姫は隣町、吉野川市鴨島・杉尾神社で、兄・事代主命の妃神である阿波神(天津羽々命)はお隣の阿波市粟島神社(元は粟島の浮島八條宮)で祀られている。
この天津羽々命は、『安房斎部系図』では天日鷲命の妹である。また、式内社土佐神社の御祭神は、建御名方命事代主命の兄、阿遅志貴高日子根命だが、同じ高知市式内社・朝倉神社の御祭神もまた、天津羽々命であり、一説では「阿遅志貴高日子根命の后神」とされている。
 
このように、一般に出雲神とされる大国主命の息子たちの后が、みな、阿波の女性で、天日鷲命の血縁とは、どういうことか。一家揃って出雲から阿波へ移住し、その子孫が阿波発で全国へ移っていったのか?
もちろん、そんな痕跡は何一つない。大国主一族が元々阿波国人なのである。
 
つまり、有名な神々・中心的な神々は、子孫の移動・移住に伴って分祀され、それぞれの土地でも祀られるようになるが、その家族・親族といった付随的な人物達を神として祀るのは、その一族の本貫地のみである。当たり前の現象ではないか。
 
その他の神社と御祭神、地名と伝承、それらと記紀の物語の一致等々、書いていけばどこまでもクモの巣状につながってゆくのであり、それこそが出雲神が阿波国神であることの最大の根拠ともいえる。
 
さらには、私の説では大国主命こそが天日鷲命であり、賀茂建角身命であり、初代神武天皇の祖父であるが、阿波国中の式内社、主要な神社の御祭神は、ほとんどこの一族で占められる。
多祁御奈刀弥神社御祭神に関しても、先入観なく調べても、このように妃神が同族だと判明する。
 
仮に系図をそのまま信用するとして、息子に孫娘を嫁がせたり、妹を息子に嫁がせるなど、理解不能と感じられるかもしれないが、それは現代人の常識で、上古の実力者は一夫多妻制だから、妹と息子、息子と孫が同世代などという状態は珍しいことではない。ましてや征く先々に妻がいたと云われる大国主の子供たちなのであるから。また、古代、権力者の家系では、異母兄弟姉妹の間では、親族結婚はむしろ積極的に行われていた。
特に、この日本建国に関わる一族は、ほとんどが同族結婚なのである。
 
 
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