御祭神 建御名方(たけみなかた)命 八坂刀賣(やさかとめ)命 (徳島県神社誌)
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。明治七年郷社に列す。(徳島県神社誌)
創立年代不詳。
御祭神について異説はないが、延喜式の記載は一座であるから、本来の御祭神はは建御名方命一柱である。 『式内社調査報告』では、「江戸時代の諸書から、同時代には建御名方尊一座であったらしいことが判明するので、明治以後に八坂刀賣命が祭神に加わったのかもしれない」と記す。
御祭神について異説はないが、延喜式の記載は一座であるから、本来の御祭神はは建御名方命一柱である。 『式内社調査報告』では、「江戸時代の諸書から、同時代には建御名方尊一座であったらしいことが判明するので、明治以後に八坂刀賣命が祭神に加わったのかもしれない」と記す。
一方、「案外、この二尊は尊名がよく似ている所から、関係者が混同した結果、二尊が祭られることになったのではなかろうか」などと不勉強なことも述べている。
当初から、八坂刀賣命は、建御名方命の后神として祀られていたのか?は、確認する術がないが、本居宣長なども『古事記伝』で「此健御名方富命は水内郡の社なり。八坂刀売神は諏訪社二座の内の一座にて御名方富神の后神にして今下諏訪と云是なり」と記す。
信濃国南方刀美神社も、創立年代は不詳である。
昭和26年~昭和44年に編纂された『信濃史料』 という一大史料集があるが、南方刀美神社の由緒となる建御名方命の情報は何もなく、「神代 建御名方神、諏訪に入ると伝ふ」と書くのみで、他は、古事記・先代旧事本紀等を引用するにとどまっている。
で確認できるように、「諏方」は八世紀に誕生した国名である。
それ以前の「シナノ・スワ」地名の記述は、『古事記』国譲りシーンの「科野国之州羽海」、『日本書紀』持統天皇5年の「遣二使者一祭二竜田風神。信濃須波。水内等神一」であるが、これが南方刀美神社と結びつくとは断定できない。
この「科野」「州羽」「信濃」「須波」が全て現在の長野県を指すとは限らないからである。
この「科野」「州羽」「信濃」「須波」が全て現在の長野県を指すとは限らないからである。
第一、長野には「海」が無い。
阿波の諏訪の海(海進3m)
だが、同『続日本後紀』承和9年5月丁未(14日)条(842)の記載では
であるから、この半年の間に八坂刀売神が配祀された可能性もある。
『信濃史料』巻十一に、
天文二年(1533) 諏訪社上社大祝諏訪頼忠、信濃国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記を書す、とあるが、その『上宮御鎮座秘伝記』でも建御名方命については「追到科野国之州羽海」の一節を中心に古事記をそのまま引用するのみであった。
ところで、この『上宮御鎮座秘伝記』では、八坂刀賣命について「天孫降臨供奉三十二神之中、八坂彦命之後流也」と記している。
これは、なかなか興味深い話だ。
※平田篤胤『古史成文』
粟國忌部、多米連、天語連、弓削連等が祖なり。
神麻績連等が祖なり。
次に天羽槌雄命は(亦健葉槌命と云す。亦天羽雷命と云す。亦名は綺日安命)角凝魂命の子、伊佐布魂命より出づ。倭文連、長幡部等が祖なり。
次に天御桙命は、神服部連等が祖なり。次に天八千千比賣命は、伊勢人面等が祖なり。
長白羽命は『古語拾遺』の天岩戸シーンに登場し、思兼神に命じられ、麻を植え青和幣(あおにぎて)を織った神である。伊勢へ奉納する荒妙(あらたえ)を織ったのが神麻績部である。
この任に当たる御衣御殿人(みぞみあらかんど)は、上古より阿波の麻殖忌部氏人の中から卜定(ぼくじょう)により選定された。この御殿人の家筋は、鎌倉時代には現在の美馬市木屋平の三木家にほぼ固定し現在に至るまで続いている。
阿波忌部氏以外のものが、この麁服を作ることはできない。
三木家には、延慶(えんきょう)二年(1309)や文保(ぶんぽう)二年(1318)の日付となる朝廷からの「官宣旨」や太政官からの「太政官符」(国司による写し)が現存している。
三木家には、延慶(えんきょう)二年(1309)や文保(ぶんぽう)二年(1318)の日付となる朝廷からの「官宣旨」や太政官からの「太政官符」(国司による写し)が現存している。
應(まさ)に早く荒妙御衣を織り進(まいら)しむべき事
右大納言藤原朝臣師信 宣(しめ)す
勅を奉ずるに 大嘗会主基所料 宜(よろ)しく彼の国に仰せ
先例に依って常(いつも)の氏人を以て織り備え令(し)め
神祇官の使いに附して 早く以て進上すべし者
国宜(よろ)しく承知して宜(むべ)に依って之を行え
右大納言藤原朝臣師信 宣(しめ)す
勅を奉ずるに 大嘗会主基所料 宜(よろ)しく彼の国に仰せ
先例に依って常(いつも)の氏人を以て織り備え令(し)め
神祇官の使いに附して 早く以て進上すべし者
国宜(よろ)しく承知して宜(むべ)に依って之を行え
兄である事代主命の妃神・天津羽々命も忌部なのである。
これらの事実や系図を上の『上宮御鎮座秘伝記』と重ねて見るならば、八坂刀賣命は、阿波忌部の祖・天日鷲命の孫娘だと分かる。
そして、その父、八坂彦命は、天日鷲命の子でありながら、邇芸速日命の防衛を務めていた、というわけである。
御母は阿波の高志の沼河姫天水塞比売なりと云えり。
其の所、南海の内に美奈刀(みなと)生まれ給ふ。
則ち、高原村の内字関傍示(せきぼうじ)に水堰姫(みなせきひめ)の神を祭れる旧跡あり。
と記されている。
上記の高志郷旧跡は現在、祀りを高志沼河姫を御祭神とする吉野川市の杉尾神社ヘ移され、そこに、この南方刀美神社移遷の社伝記がある。
『阿府志』のいう「社伝記」がこれを指すのか、同様のものが多祁御奈刀弥神社にもあったのか?は不明である。
上記の高志郷旧跡は現在、祀りを高志沼河姫を御祭神とする吉野川市の杉尾神社ヘ移され、そこに、この南方刀美神社移遷の社伝記がある。
『阿府志』のいう「社伝記」がこれを指すのか、同様のものが多祁御奈刀弥神社にもあったのか?は不明である。
南方刀美神社の国史初見は、806年であるから、記録上の辻褄はあっている。
一方で、多祁御奈刀弥神分祀の情報は一神社の社伝なのであるから、無批判な肯定は近視眼的な歴史の見方に繋がるという意見が返ってきそうである。
一方で、多祁御奈刀弥神分祀の情報は一神社の社伝なのであるから、無批判な肯定は近視眼的な歴史の見方に繋がるという意見が返ってきそうである。
その点だけを見るならば、確かにそうなのだが、阿波国の歴史を研究する者たちが当社とその伝承を重要視するのには、その下地となる数えきれないほどの情報があるからである。
この天津羽々命は、『安房斎部系図』では天日鷲命の妹である。また、式内社・土佐神社の御祭神は、建御名方命と事代主命の兄、阿遅志貴高日子根命だが、同じ高知市の式内社・朝倉神社の御祭神もまた、天津羽々命であり、一説では「阿遅志貴高日子根命の后神」とされている。
つまり、有名な神々・中心的な神々は、子孫の移動・移住に伴って分祀され、それぞれの土地でも祀られるようになるが、その家族・親族といった付随的な人物達を神として祀るのは、その一族の本貫地のみである。当たり前の現象ではないか。
さらには、私の説では大国主命こそが天日鷲命であり、賀茂建角身命であり、初代神武天皇の祖父であるが、阿波国中の式内社、主要な神社の御祭神は、ほとんどこの一族で占められる。
多祁御奈刀弥神社御祭神に関しても、先入観なく調べても、このように妃神が同族だと判明する。
多祁御奈刀弥神社御祭神に関しても、先入観なく調べても、このように妃神が同族だと判明する。
仮に系図をそのまま信用するとして、息子に孫娘を嫁がせたり、妹を息子に嫁がせるなど、理解不能と感じられるかもしれないが、それは現代人の常識で、上古の実力者は一夫多妻制だから、妹と息子、息子と孫が同世代などという状態は珍しいことではない。ましてや征く先々に妻がいたと云われる大国主の子供たちなのであるから。また、古代、権力者の家系では、異母兄弟姉妹の間では、親族結婚はむしろ積極的に行われていた。
特に、この日本建国に関わる一族は、ほとんどが同族結婚なのである。