夏、殷、周、秦の始祖は黄帝の子孫(らしい)
いきなり主題から外れますが、『隋書』倭国伝の中には、かなり興味深い記述がありますので、その点に関し若干予習したいと思います。
文章をまとめるのが面倒なので、今回は主としてWikipedia等から引用抜粋(一部文章を書き変えてます)し、コメントを加える形で書いてゆきます。(楽だわ~)
◯引用部 ※乃良根公の解説
周時天下太平 倭人來獻鬯草
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず。
◯周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
論衡 恢国篇第五八
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
成王の時、越裳(えっしょう)は雉(キジ)を献じ、倭人は暢草を貢ず。
◯成王(せいおう)
周朝の第2代王・在位期間前(1021年? - 前1002年?)
◯越裳(えつしょう)
東方に居住していた倭人が鬯草を献上したことと、一対のできごととして著者にとらえられている。
「越」は粤(えつ)とも書く。
◯夏(か、前2070年頃 - 前1600年頃)は、中国の史書に記された最古の王朝。
夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。
殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。
殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。
◯殷(いん、前17世紀頃 - 前1046年)は、中国の王朝。
文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。
◯周(しゅう、前1046年頃 - 前256年)は、中国の王朝。殷を倒して王朝を開いた。
◯殷代から春秋時代にかけては、邑(ゆう)と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。
殷代、東周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。 戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。
邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。
そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集の経済を営む非定住の部族が生活していた。
彼らは「夷」と呼ばれ、しばしば邑を襲撃し、略奪を行った。そのために存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合された。 さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。 大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展のために、大邑はその領域を拡大してゆく。 こうして、春秋末から戦国にかけて、中国の国の形態は、都市国家から領土国家へと発展していった。
岡田は夏及びその後継と言われる河南省にあったとされる杞(き)国などを参照しながら、 「夷」と呼ばれた夏人が、長江や淮河(わいが)流域の東南アジア系の原住民であった事や、 禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、 福建省、広東省、広西省からベトナム北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称している事、 また周顕王(けんおう)36年(前333年)、越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後、 秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、 後燕(こうえん)人が朝鮮半島に進出する前に、これら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する。
◯漢書(かんじょ)
漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条
然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。
故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。
樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。
故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。
樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。
東夷の者の性質は天性柔順で、中国の近くの三方向の蛮族とは異なる。
ゆえにあの孔子でさえ、わが国人民の道理に反する生き方を憂い、できることなら海に出て九夷(東方の理想の島國)に行きたいと欲したのだ。
(そのような故事から思い起こされるには)楽浪の海には倭人がおり、分かれて百余国を作っている。時を選んで朝貢してきた、と言い伝えられていることである。
ゆえにあの孔子でさえ、わが国人民の道理に反する生き方を憂い、できることなら海に出て九夷(東方の理想の島國)に行きたいと欲したのだ。
(そのような故事から思い起こされるには)楽浪の海には倭人がおり、分かれて百余国を作っている。時を選んで朝貢してきた、と言い伝えられていることである。
※
漢書を書いた班固の認識では、「九夷」と「倭人」は同じ、または近い関係としていたらしいことが上記の書き方から覗えます。
では、その東夷と九夷、孔子が実際それらについてどのように言ったのか、を見てみましょう。
では、その東夷と九夷、孔子が実際それらについてどのように言ったのか、を見てみましょう。
◯東夷(とうい)
東夷(とうい)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。
本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。
本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。
黄河流域では、ほかの地域に先んじて文明が発達した。
黄河文明の担い手であった漢民族は、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。
漢民族は、自らを「華夏」と呼び、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。
黄河文明の担い手であった漢民族は、周辺の諸民族を文化的に劣ったものとして見下した。
漢民族は、自らを「華夏」と呼び、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。
『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。
そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。
そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。
このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし周代以降、現在の江蘇省や山東省付近に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、「東夷」という言葉は現在の中国東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、すなわち濊,貊,倭,韓といった諸民族を指す用語となった。
しかし、中国東北部の東夷においても「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄,西戎,南蛮)と異なるところである」(『後漢書』東夷伝)と記し、また「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)(祭器の名に由来する礼法)の礼がある。中国ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」(三国志東夷伝)、と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。
◯九夷(きゅうい)
昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。
畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。
畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。
◯『論語』
「子欲居九夷 或曰陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有」
子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之、如何(いかん)と。
子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之、如何(いかん)と。
子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。
孔子が(道理の廃れた国を厭い)九夷(の国)に住みたいと言った。
ある人が、九夷は陋であるのに一体どういうことか?と問うと、
孔子は「君子が居る国なのだから何のいやしきかことがあろうか」と応えた。
◯陋 ロウ 心が狭く卑しい。
※
雑談ですが、後段(君子居之、何陋之有)の意訳は人によって違います。ざっくり言うと「君子がそこへ行けば流石の九夷の奴らも教化されるだろう」というものと、
上に書いたように、「そこは既に君子がいる国なのに何も卑しいことなどあろうか」というほぼ真逆の解釈です。
みなさんは「原文」を見て、どう感じますか? どうも差別意識や自虐意識の強い人は歪んだ解釈しか思い浮かばないようです。(笑)
上に書いたように、「そこは既に君子がいる国なのに何も卑しいことなどあろうか」というほぼ真逆の解釈です。
みなさんは「原文」を見て、どう感じますか? どうも差別意識や自虐意識の強い人は歪んだ解釈しか思い浮かばないようです。(笑)
我に従う者は其れ由(ゆう)かと。子路之を聞きて喜ぶ。
※
孔子(BC552年~479年)は、当時の中国で道理が廃れていることに心を痛めて、できることなら海に浮かんで「君子のいる国」=「九夷」へ移住したいくらいだ、と皮肉っているのです。
そして、それが、BC219年の徐福の東進に繋がるのです。
◯徐福(じょふく)
徐福(じょふく)は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。
於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。
蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。
瀛州はのちに日本を指す名前となった(『海からの世界史』)。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は行政区分として制定される。
蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。
瀛州はのちに日本を指す名前となった(『海からの世界史』)。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は行政区分として制定される。
※
さて、かなり大雑把な説明ですが、わかりやすく書くと、「国」とは元々「郭」のこと(上に書いた邑(ゆう・むら)の発展形)で「城郭都市」を表しますが、その「国」が発展・増加した後、やがて統一され、天命を受けた天子がこれらを従え統合することになります。
さて、かなり大雑把な説明ですが、わかりやすく書くと、「国」とは元々「郭」のこと(上に書いた邑(ゆう・むら)の発展形)で「城郭都市」を表しますが、その「国」が発展・増加した後、やがて統一され、天命を受けた天子がこれらを従え統合することになります。
この天子は、始皇帝以来「皇帝」と名乗りますが、この皇帝が居する「国」(城郭都市)だけを他の「国」と区別して、特別に「中国」と呼びました。
この「国」よりも広い範囲を示す言葉は「邦」(ホウ・字義は領域。訓読みではクニですよね)でしたが、前漢を建てた皇帝の名が「劉邦」だったので、無礼にあたってはいけないと「邦」の字を使うことを止め「国」の字を「邦」のレベルまで拡大解釈して使用するようになったのです。
その流れで「中国」も「郭」を出て「領域」で使われるように変化しました。
※避諱(ひき)
避諱(ひき)とは、目上の者の諱を用いることを忌避する、中国など東アジアの漢字文化圏にみられる慣習。中国では古来より、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており、特に皇帝およびその祖先の諱については、あらゆる臣下がその諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。
ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには、適宜諱に当たらない名前に改めさせられた。 (Wikipedia)
ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには、適宜諱に当たらない名前に改めさせられた。 (Wikipedia)
やがて、この狭義の中国というエリア(中原と呼ばれる)は、その中に華山がそびえていたことから「中華」とも呼ぶようになり、それ以外の蛮夷の住む地域とは区別する選民意識が生まれます。
日本でも「日本国」を建国した人、それを支えた人々は、天皇家を除いても奈良や京都にいたわけであり、当時は列島全体が日本ではなかったのですから、ある意味、「真(元々の)の日本人」というのは、その人達ということも可能です。ましてや、中国は現在でも80以上の民族がいると言れるほどの多民族大陸であり、当然それらは文化も言葉も服装も全てが違います。上古ではもっと多数のまるで違う民族がそれぞれ各地方に居住していたのですから、はっきり言って同じ大陸の人民とはいえ、まるで外国人のようなレベルでそれぞれが違う人々なのです。
◯華夏族(かかぞく)
学者によると、周王朝(前1066年 - 256年)の創立者である周武王が商王朝(前16世紀 - 前1066年)の末代の商帝辛を討ち取った後中原に定住し、その一族を「華族」と称した。
また夏王朝(前21世紀 - 前16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。
越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
なお、『三國志』「烏丸鮮卑東夷傳」に記される「夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害」に沿って述べると、『吳越春秋』「勾踐伐吳外傳」によると、吳を滅ぼした越王の勾踐(こうせん)の流れが、會稽に封ぜられた夏后(かこう=夏)少康(しょうこう・夏朝の第6代帝)の庶子の無余(むよ)からの流れとされることから、越の国の禹祠主宰者のルーツは紀元前ニ千年紀前半まで遡るとも言い得る。
紀元前473年に呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。
※禹祠(うし) 禹王の陵墓とされるのが会稽山の大禹陵で、
そこに「禹陵」「禹祠」「禹廟」がある。
※禹(う・夏朝の初代帝。禹は“龍”のこと)。
※
上の「倭国との関連」を再読してください。
上の「倭国との関連」を再読してください。
夏人の後裔である越人の一部が、日本列島のどこかに移住し、上の「東夷」と呼ばれる人達になったのです。
琅邪出身で、琅邪を出て日本に向かったとされる徐福もまた、この越人だった可能性が高いのです。
琅邪出身で、琅邪を出て日本に向かったとされる徐福もまた、この越人だった可能性が高いのです。
次回、これらを記憶において、『隋書倭国伝』を読んでみましょう。