日本一社 式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座(論社)
天村雲(牟羅久毛)神社
天村雲(牟羅久毛)神社
御祭神 天村雲命 伊自波夜比賣命
『徳島県神社誌』に記載はない。
その他、江戸時代以降の各種文献にも、論社としては、山川町村雲の天村雲神社が挙げられることが多い。
その他、江戸時代以降の各種文献にも、論社としては、山川町村雲の天村雲神社が挙げられることが多い。
ところが、明治初期に刊行予定だった明治版『阿波國風土記』の原稿という第一級資料が発見され、それによると
式内社・天村雲神伊自波夜比賣神社の鎮座地名は「雲宮」であり、並んで「小橋」の地名がある、と記している。
上記リンク先や原稿画像を見てもらえば分かるように、当社鎮座地の隣が「雲宮」という字名で、天村雲命の別名の一つと同じ「小橋」地名も近隣に存在する(現在はない)とある。
当社を式内社の比定社として論じるに十分な根拠といえる。
当社を式内社の比定社として論じるに十分な根拠といえる。
「鳥の一族」に書いているように、天日鷲命と大国主命は同一人物であり、天村雲命とは大穴牟遅神の兄である木の国の大屋毘古神(この名では協力関係)であり、天孫神話では、山幸彦(ソラつ彦)と王位を争った海幸彦のことである。
海幸彦(火照命)は、阿多君の祖、である。
天村雲命は、「“阿多”の“小橋”」の君(リンク先参照)である。
五十猛神の別名が「射楯神」(いたてのかみ)である。
天村雲命の別名の一つが、「天五多底(射立)命」(あめのいだてのみこと)である。
当地の「湯立」という地名は、昔日の「射立郷」が訛ったものである。
須佐之男命が大穴牟遅に与えた武器は、生大刀と生弓矢であった。
「鳥の一族」に書いたが、天日鷲命のもう一つの名が「鴨建角身命」であり、つまり、だからこそ、その子である、阿遅志貴高日子根命と事代主命は共に(矢の神の子として)丹塗矢に化身する神話を残しているのである。
この人間関係は一部の系図などと矛盾するが、そもそも完全な系図などは存在しない。
例えば、矛盾する系図に、有名な籠神社の社家の『海部氏系図』があるが、様々な文献やサイトを見ると、この系図が国宝に指定された事実をもって、系図の中身まで間違いがないと断言する人が多い。
中には「系図の人間(神)関係が事実であると国が認めた」などと書く御仁もいる。
例えば、矛盾する系図に、有名な籠神社の社家の『海部氏系図』があるが、様々な文献やサイトを見ると、この系図が国宝に指定された事実をもって、系図の中身まで間違いがないと断言する人が多い。
中には「系図の人間(神)関係が事実であると国が認めた」などと書く御仁もいる。
国宝に指定されたのは「系図が古い時代から伝わる本物」で文化的価値・資料的価値が高いからであって、系図の中身を正しいと認定したからではない。いったい、国家機関の誰が何の根拠を持ってそのようなことを認定できるというのか?
ところで、村雲の社の記事でも紹介したが、伊勢神宮外宮の神官家・度会氏について、『先代旧事本紀』に、「天牟良雲命は度会神主等の祖」と記され、当の度会氏による『神道五部書』所載の外宮の沿革を記した『豊受皇太神御鎮座本紀』にも同様の記載がある。
この『豊受皇太神御鎮座本紀』原文には、
とあり、大神主(度会氏)の「上祖」が、天村雲命であり、
と、そのルーツを明らかにしている。
上古において、主要な神祀りを行う社の祝主は、皆その御祭神の後裔である。
同時に高天原の所在地、神話の舞台がどこであったかが浮かび上がってくるのである。