完成された住みよいクニを任されたわけではありません。
大国主命は大変な苦労を重ねて天の下の国造りに励みました。
この仕事は、とても一人の手に負えるような作業ではなく、高天原は優秀な人物を応援の任に就かせます。 少彦名(すくなひこな)命です。
大国主命は大変な苦労を重ねて天の下の国造りに励みました。
この仕事は、とても一人の手に負えるような作業ではなく、高天原は優秀な人物を応援の任に就かせます。 少彦名(すくなひこな)命です。
さらに少彦名命の個性を最も特徴づけるのは、禁厭(まじない)を得意としたという点です。
※禁厭とは、日本在来の呪術のことである。
神道では、大国主神と少彦名神を禁厭の祖神としている。
『日本書紀』では、鳥獣や昆虫の害を払うためにそれ除去する呪いを(両神が)定めた旨の記述があり、農耕に関わる禁厭であった事が分かる。(Wikipedia)
『日本書紀』では、鳥獣や昆虫の害を払うためにそれ除去する呪いを(両神が)定めた旨の記述があり、農耕に関わる禁厭であった事が分かる。(Wikipedia)
※禁厭(まじない、きんえん、きんよう) まじないで、病気や災害を防ぐこと。きんえん。
「禁厭」とは「厭を禁ずる」で、「厭(いと)わしい」は(嫌らしい・汚らわしい・忌まわしい・煩わしい・疎ましい・不愉快)。
つまり、「忌むべきこと」を「禁ずる」、「禁忌」と同じような意味で、凶事を避けるための術を定めたわけです。
天下(あめのした)經(おさ)め 營(いとな)みき。
復た顯見蒼生(うつしきあおひとくさ)及び畜産(けもの)の爲に、
復た顯見蒼生(うつしきあおひとくさ)及び畜産(けもの)の爲に、
則ち其の病を療(おさ)むる方を定む。
又、鳥獸(とりけもの)・昆蟲(はふむし)の災異(わざわい)を攘(はら)う爲に、
則ち其の禁厭(まじなひやむ)之法(のり)を定む。
是を以ちて、百姓(おおみたから)、今に至るまで咸(ことごと)く恩頼(みたまのふゆ)を蒙(こうむ)る。
是を以ちて、百姓(おおみたから)、今に至るまで咸(ことごと)く恩頼(みたまのふゆ)を蒙(こうむ)る。
『日本書紀』
決して科学的な方法で凶事を避けたわけではありません。
この様子から想像・推察するのは、祭祀族の姿であり、私はこれまで書いたように、
と答へ白しき。
故爾に神産巣日御祖(みおやの)命に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひけらく、
「此は実(まこと)に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たなまた)より久岐斯(くきし)子ぞ。
故爾に神産巣日御祖(みおやの)命に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひけらく、
「此は実(まこと)に我が子ぞ。子の中に、我が手俣(たなまた)より久岐斯(くきし)子ぞ。
故、汝(いまし)葦原色許男命と兄弟(あにおと)と為りて、其の国を作り堅めよ」とのりたまひき。
故、爾(そ)れより、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神、相並ばして此の国を作り堅めたまひき。
『古事記』
『新撰姓氏録』では、
摂津国 神別 天神 多米連
神魂命五世孫天比和志命之後也
神魂命五世孫天比和志命之後也
左京 神別 天神 弓削宿祢
高魂命孫天日鷲翔矢命之後也
高魂命孫天日鷲翔矢命之後也
とあり、天日鷲命と布刀玉命はかなり近しい関係だったと読み取れます。
歴代領主や権力者達からも崇敬され鎌倉時代には源頼朝が社殿修理料を寄進し、その後周辺を支配した武茂氏の崇敬社となり社殿の再建や社領の寄進などを行っています。
江戸時代に入ると幕府の庇護となり社領20石の朱印状を渡し除地免税地100石を認めていました。
又、水戸藩主、徳川光圀が2度参拝したとされ"鷲子山十景七奇"を選定、9代藩主斉昭がその碑を建立しました。
江戸時代に入ると幕府の庇護となり社領20石の朱印状を渡し除地免税地100石を認めていました。
又、水戸藩主、徳川光圀が2度参拝したとされ"鷲子山十景七奇"を選定、9代藩主斉昭がその碑を建立しました。
式内社でもない山深い地のこの神社が、これほどの厚遇を受けるのはなぜでしょうか?
やはり、源氏や徳川家は本当の歴史を知っていたようです。
この神社は、ご覧のように栃木県那珂川町に在るのですが、那珂川はもちろん那珂の地を流れるから那珂川なのであり、これは阿波の長ノ国、のちの那賀郡と、そこを流れる那賀川から来ている名称なのです。
現に、那珂川は元々阿波川と呼ばれていました。
現に、那珂川は元々阿波川と呼ばれていました。
このように常世の国、常陸国では、阿波、那珂(那賀)、桂(勝浦)、忌部で、天日鷲命、少彦名命が結びついており、少彦名命と対をなすべき大国主命が天日鷲命で、天日鷲命と対をなすべき布刀玉命が少彦名命だと分かります。
カモ氏という氏族は謎が多かったのです。
カモ氏には、一般的には3系統の流れがあると言われています。
『新撰姓氏録』から、とりあえず「鴨」「賀茂」氏族だけを抜き出してみます。
☆山城国 神別 天神
※賀茂県主 魂命孫 武津之身命之後也
※鴨県主 賀茂県主同祖
※矢田部 鴨県主同祖 鴨建津身命之後也
※西泥土部 鴨県主同祖 鴨建玉依彦命之後也
☆大和国 神別 地祇
※大神朝臣
素佐能雄命の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫に娶ひたまひき。
夜の曙ぬほどに去りまして、来すにさらに昼到まさざりき。
ここに、玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧のまにまに、まぎゆきければ、
茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山にいたれり。
還りて、苧の遺をみれば、ただ、三輪のみありき。これによりて、姓(うぢ)を大三輪と号けり。
夜の曙ぬほどに去りまして、来すにさらに昼到まさざりき。
ここに、玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧のまにまに、まぎゆきければ、
茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山にいたれり。
還りて、苧の遺をみれば、ただ、三輪のみありき。これによりて、姓(うぢ)を大三輪と号けり。
※賀茂朝臣
☆摂津国 神別 地祇
※日下部宿祢 出自開化天皇皇子彦坐命也
※依羅宿祢 日下部宿祢同祖 彦坐命之後也
※鴨君 日下部宿祢同祖 彦坐命之後也
☆左京 皇別
※鴨県主 治田連同祖 彦坐命之後也
整理すると、
京の、鴨県主。摂津国の、鴨君は、彦坐命の後裔。
ということです。
彦坐命は、第9代天皇の皇子ですから時代が少し下りますが、鴨君・鴨県主に関しては『日本書紀』に、第4代懿徳天皇の母は、「事代主神の孫 鴨王(かものきみ)の女(むすめ)」とあり、大国主命~事代主命の血を意識した氏族名と思われます。
出雲 → 大和 → 山城 というわけですが、そうすると賀茂建角身命は出雲から神武東征軍に合流したことになります。
しかし、そんな痕跡はないのです。
ある理由がありませんね。
それで、カモ氏の出自は謎のままなのです。
しかし、そんな痕跡はないのです。
ある理由がありませんね。
それで、カモ氏の出自は謎のままなのです。
大和国の大神氏にいたっては、祖の大国主命が、(日本書紀には事代主命だと書かれている)大物主神で、三島溝杭耳の娘、玉櫛姫と結婚したとしています。
これは間違いであり、あるいは系図にも書かれているように親子二人いた「大物主神」を混同しているのであって、玉櫛姫と結婚したのは事代主命です。
これは間違いであり、あるいは系図にも書かれているように親子二人いた「大物主神」を混同しているのであって、玉櫛姫と結婚したのは事代主命です。
もうお分かりと思いますが、大国主命と三島溝杭耳は同一人物ですから、自分の娘と結婚するはずがないのです。
さらには、賀茂建角身命も同一人物ですから、結局全てのカモ氏は一人の人物をルーツとするのであって、
だから隠すしかないのです。
もっとはっきり言えば、日本国のルーツが。です。
(続く)