空と風

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鳥の一族 17 天火明命

 
前回予告した具体的な系図を書いてみるつもりでしたが、書き始めると全然違う内容になってしまったので次回持越しとします。
今回はまず、古事記における天孫系図と、前回まで書いた私の説を(簡単に)書いて並べてみます。
 
                   - 天火明命
天照大御神 - 天忍穂耳命 - 邇邇藝命 - 穂穂手見命 - 鵜草葺不合命 - 神倭伊波礼琵古命
                                                     (神武天皇

※私説
 
                須佐之男命  -  大国主命  -  阿遅志貴高日子根命  -  賀茂別雷命
         (邇邇芸命) (穂穂手見命)     (鵜草葺不合命)    (神武天皇
 
 
 
古事記には、葦原中国へ降臨を命じられた天忍穂耳命は、
 
豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、伊多久佐夜芸弖(いたくさやぎて)有那理(ありなり)
 
高天原へ引き返した、とあります。
高天原から中之国へ本籍地を移す(イメージとしては遷都)決定に、天忍穂耳命は従いませんでした。
日本書紀では、最初から邇邇芸命が天降る予定だったことになっています。
 
 
今まで見たように、天忍穂耳命高天原での王位を継承する予定で、天照大御神の子として育てられた、実は須佐之男命の息子です。
天降ろうとした中之国は、すでに実父と兄弟たちが王として君臨する国。
そこを無条件で譲れとは言えなかったのでしょう。
 
あるいは、天忍穂耳命の血筋は男系で継承できないような事態が起こった可能性も考えられます。
そうであれば、須佐之男命が王位に復権することもありえます。
 
文献史学とまではいかないまでも、私が書いた仮説には、その下となる「文字・文章」があるのです。
しかし、書いていない部分に関しては、想像力だけが頼りです。
なぜ、須佐之男命または大国主命へ王位が譲位されたかは、もちろんどこにも書いていないのですから、文字の裏を読んで推理するしかありません。
さらに、その事実をなぜ隠さなければいけなかったのか?は、更なる謎として行く手に立ちふさがります。

一番単純な仮説としては、女王のカリスマ性があまりにも高かったために、皇統は女王に直結するように語るしかなかった、といったところでしょう。
俗な表現をすれば、天照大御神の血筋は「本家」、須佐之男命の血筋は「分家」です。
分家が本家になったという歴史は残しづらいものです。
ましてや、記紀に記される通り、須佐之男命が高天原を追放された分家だったとしたら・・・。
 

現在を見ても、皇太子殿下に男のお子様がいらっしゃらないために、女性宮家女系天皇の議論が起きました。
男系を貫くべきとして、元皇族の生まれである竹田恒泰先生は、旧宮家の皇族復帰を提唱していますが、たとえば、所功氏などは「一旦皇族をお離れになった方が仮に天皇になって国民は敬意を表せますか?」というような発言をしていました。
 

須佐之男命の家が王位に就くことに対しても、往古にも同じような反応があったのではないでしょうか。

もちろん私は、竹田先生の案に賛成ですし、更に言えば天皇陛下は多妻制にするべきと思います。
これまで世界最古の王権が続いてきた理由の最大要因の一つは多妻制にあったのは明白ではありませんか。

国民に保証されている権利・自由が何一つない超法規的存在の天皇陛下に、夫婦の決まりは国民の法に従えというのがおかしいのです。
もちろん、二人目のお妃候補は嫌なら申し出を断ればいいだけの話ですし、皇位継承順位は定められているのですから昔のように争いが起こることもありません。
 

 

所氏は馬鹿なことを言っていますが、たとえば今女系天皇がいらして私がその婿になったら、こののらねこの息子に「天皇陛下ばんざーい!」と一般参賀で叫べますか?
誰も皇居にやって来ないでしょう。
最悪の事態になっても皇室に戻った旧皇族の男子が天皇になれば皆万歳三唱します。
 

随分話がそれました。
ところで、古事記を見るともう一つのストーリーが「想像」できます。
 
邇邇藝命には、天火明命という兄がいました。『記』(『紀』では、火明命は邇邇藝命の子)
そして、神武東征のシーンに、邇藝速日命という、神武天皇と同じ王位継承権を持った「天神之子」が、いきなり登場します。

先代旧事本紀』には「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」とあり、この天火明命邇藝速日命を同一人物のように書いています。
どちらにせよ、記紀を読む限り、邇藝速日命は王位継承権を持つ人物なので、天照大御神の子孫である可能性が高いわけです。
月読命の子孫という可能性もありますが)

そうすると、誰もが考えるように、邇藝速日命天火明命とつながる可能性が高いのです。
ただし、神武天皇とは歳が離れ過ぎますので、天火明櫛玉饒速日尊は、天火明命の子か孫と考えるのが自然と思います。
このブログに書いてきた通り、実力者の場合、親子で同じ名前を引き継ぐのは普通のことだからです。
 

 

ここで浮かび上がのは、実は天照大御神の神勅で天降ったのは、邇邇芸命ではなく天火明命だったのではないか?というストーリーです。
 
日本書紀』によれば、
 
饒速日命に至りて、天磐船に乘りて太虚を翔行く也。~故に因りて之を名づけて虚空見つ日本の國(そらみつやまとのくに)と曰う。
 
と、あります。
阿波人にとっては、あらあら、ですね。

ソラ、ミツ、ヤマトの國、全て徳島県西部、旧美馬郡に関係する地名、呼び名、式内社の名称です。
 

 

つまり、天火明命倭国(県西部)に天降り、その子孫・邇藝速日命は、やがて吉野川下流、旧板野郡まで勢力を拡大し、其の地の長である長髄彦の妹を妻とし、倭の国の王して君臨していた。
 
一方で、分家である須佐之男命の一族は県南に天降り、海岸部を北上する形で勢力を拡大していった。
これが葦原ノ中之国、のちの「那賀(長)の国」であり、その北限が長髄彦が支配する「長邑」であった。
 
つまり双方の勢力拡大が、吉野川河口部、長邑でバッティングしたのです。
 
そこで戦闘が起こり、大国主一族が勝利した。
これが神武東征物語として語られたストーリーであり、実際は分家が本家に勝利し、本家となったわけです。

だからこそ、神武天皇は、「神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)」と称されるわけです。
 

 

そこで、歴史は勝者が作るものという古今東西のセオリー通り、本当は須佐之男命の一族である神武天皇が元々本家筋であったとするために、邇邇芸命~鵜草葺不合命の系譜を作って挿入したと考えます。
 
どうですか?関裕二みたいになってきましたか?
私はけっこう好い線を行っていると自画自賛しているんですが。(笑)
 
しかし、そのせいで、本当の皇祖の名前を歴史から隠してしまったわけです。
だからこそ、歴代天皇大国主命天照大御神とともに手厚く祀ってきた。
そして、凶事があると、このことによる祟りと考え怯えたのです。

そして、崇神天皇の御代に最悪の凶事が起こり、大国主命倭大国魂神として、最大級の祀られ方をするようになります。
大国主命は、賀茂建角身命ですから、この祭りを通称「賀茂祭」と呼ぶようになりました。
 

 

平安京で、祟り鎮め として復活した賀茂祭がこれなのです。
つまり、元々の賀茂祭は、阿波国で行われていました。
 
賀茂(葵)祭では、下鴨神社を出発し上賀茂神社へ向かいますが、川を渡らずとも行けるにも関わらず、途中なぜか賀茂川を渡ってまた戻ります。
これは元々の賀茂祭りのルートが吉野川越えだった名残ではないでしょうか?
 
本来の鴨祭りとは、大祖・賀茂建角身命倭大国魂神)を祀る日本唯一の式内社倭大国魂神神社を出発して、その娘、玉依姫を祀る下加茂神社を経由し、孫の賀茂別雷命を祀る式内社・鴨神社へ至るルートだったと考えられます。
その間、吉野川や加茂谷川を越えなければなりません。
 
 
イメージ 1
 
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地図は現在の幹線道路をなぞっていますから微妙に違いますが、概ねこういうルートです。
 
平安中期に書かれた『本朝月令』には、
鴨祭の日、楓山の葵を頭に挿す。当日早朝、松尾の社司らに挿頭の料をもたらしむ。
と、松尾大社賀茂祭に参加していた様子が記されているそうです。
松尾大社に祀られる大山咋神が阿遅志貴高日子根神で、玉依姫の夫だからです。

延喜式では賀茂御祖神社二座とあり、阿波国三野の下加茂神社も本来は二座で、阿遅志貴高日子根神と玉依姫が祀られていたのではないでしょうか。
 
阿遅志貴高日子根神と瓜二つであったという天若日子が亡くなったとき、喪屋を訪れた阿遅志貴高日子根神は、死人と間違われたことに怒り、その喪屋を太刀で切り倒したが、それが美濃国の喪山である、と古事記に書かれています。
 
地図にあるように、阿波の下加茂神社は ミノ にあり、太刀野、太刀野山 の地名も残っています。
また、鳥の一族 4 に引用した『水の女』を見てください。
出雲国風土記でも、阿遅志貴高日子根神がいた地名を、ミツ としていますが、この阿波の鴨神社が鎮座する加茂村(現東みよし町)一帯をミツ郷(和名抄)といいます。
 
 
なんで、島根で亡くなった天若日子の喪屋が、岐阜の山になるというのでしょうか?
通説の馬鹿馬鹿しさに、いい加減気づいてください。
葦原中国も、ミノ国も阿波の一地域のことです。
 
このように、この地域、旧美馬(美万)郡、そこから貞観2(860)年に別れた三好(美与之)郡に痕跡の強い賀茂氏を祀る神事が鴨祭りなのです。
 
また、この美与之(み・よし)郡の三野(み・の)郷が、(み・よし・の)の地であり、吉野宮のあった場所であることは、別の機会に書きます。
 
 

私は、今回書いたことは殆ど当たっていて、そのことは今でも一部の人が知っていることだと思っています。
特に鴨氏系の神職の一部の方。
 
なぜなら、鳥の一族 9 賀茂(葵)祭 に引用しておきましたが、気づかれた方がいるでしょうか?
下鴨神社のHPに、堂々とこう記されています。
 
 
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、
別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。
 
氏神って何ですか?
 
それぞれの土地神を「氏神」というのは、中世以降に武士が生んだ概念です。
広義には守り神なども含まれますから、神武天皇を助けた金鵄八咫烏であるところの賀茂建角身命、としての「氏神」なのでしょうか?
 
しかし、普通に考えてください。
一神社が、自社のご祭神を初代天皇の守り神だと言い、それをもって、「皇室の氏神」 などと名乗れますか?

これは文字通り、氏族の祖神、という意味であり、つまり、賀茂御祖神社は、
 
皇室の祖先の神を祀っている、のです。
 
 
賀茂御祖神社は明治初期までは「賀茂皇大神宮」と称されていました。
賀茂の皇の大神の宮、です。
 
また、賀茂御祖神社摂社、御蔭神社では、賀茂御祖神社御祭神の荒御魂をお祀りしていますが、平安時代の右大臣、藤原実資『小右記』 寛仁2年(1018)11月25日の条には、「鴨皇大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり」 とあります。
 
鴨の皇の大御神、なのです。
右大臣ほどの人物が、賀茂建角身命を、「大御神」であると認識していた、つまり皇祖であるということです。
 
 
 
(続く)