前回予告した具体的な系図を書いてみるつもりでしたが、書き始めると全然違う内容になってしまったので次回持越しとします。
今回はまず、古事記における天孫の系図と、前回まで書いた私の説を(簡単に)書いて並べてみます。
今回はまず、古事記における天孫の系図と、前回まで書いた私の説を(簡単に)書いて並べてみます。
※古事記
(神武天皇)
※私説
豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、伊多久佐夜芸弖(いたくさやぎて)有那理(ありなり)
と高天原へ引き返した、とあります。
今まで見たように、天忍穂耳命は高天原での王位を継承する予定で、天照大御神の子として育てられた、実は須佐之男命の息子です。
天降ろうとした中之国は、すでに実父と兄弟たちが王として君臨する国。
そこを無条件で譲れとは言えなかったのでしょう。
天降ろうとした中之国は、すでに実父と兄弟たちが王として君臨する国。
そこを無条件で譲れとは言えなかったのでしょう。
文献史学とまではいかないまでも、私が書いた仮説には、その下となる「文字・文章」があるのです。
しかし、書いていない部分に関しては、想像力だけが頼りです。
なぜ、須佐之男命または大国主命へ王位が譲位されたかは、もちろんどこにも書いていないのですから、文字の裏を読んで推理するしかありません。
しかし、書いていない部分に関しては、想像力だけが頼りです。
なぜ、須佐之男命または大国主命へ王位が譲位されたかは、もちろんどこにも書いていないのですから、文字の裏を読んで推理するしかありません。
さらに、その事実をなぜ隠さなければいけなかったのか?は、更なる謎として行く手に立ちふさがります。
一番単純な仮説としては、女王のカリスマ性があまりにも高かったために、皇統は女王に直結するように語るしかなかった、といったところでしょう。
現在を見ても、皇太子殿下に男のお子様がいらっしゃらないために、女性宮家、女系天皇の議論が起きました。
男系を貫くべきとして、元皇族の生まれである竹田恒泰先生は、旧宮家の皇族復帰を提唱していますが、たとえば、所功氏などは「一旦皇族をお離れになった方が仮に天皇になって国民は敬意を表せますか?」というような発言をしていました。
須佐之男命の家が王位に就くことに対しても、往古にも同じような反応があったのではないでしょうか。
もちろん私は、竹田先生の案に賛成ですし、更に言えば天皇陛下は多妻制にするべきと思います。
これまで世界最古の王権が続いてきた理由の最大要因の一つは多妻制にあったのは明白ではありませんか。
これまで世界最古の王権が続いてきた理由の最大要因の一つは多妻制にあったのは明白ではありませんか。
国民に保証されている権利・自由が何一つない超法規的存在の天皇陛下に、夫婦の決まりは国民の法に従えというのがおかしいのです。
もちろん、二人目のお妃候補は嫌なら申し出を断ればいいだけの話ですし、皇位継承順位は定められているのですから昔のように争いが起こることもありません。
そうすると、誰もが考えるように、邇藝速日命は天火明命とつながる可能性が高いのです。
ただし、神武天皇とは歳が離れ過ぎますので、天火明櫛玉饒速日尊は、天火明命の子か孫と考えるのが自然と思います。
このブログに書いてきた通り、実力者の場合、親子で同じ名前を引き継ぐのは普通のことだからです。
『日本書紀』によれば、
饒速日命に至りて、天磐船に乘りて太虚を翔行く也。~故に因りて之を名づけて虚空見つ日本の國(そらみつやまとのくに)と曰う。
と、あります。
阿波人にとっては、あらあら、ですね。
阿波人にとっては、あらあら、ですね。
つまり双方の勢力拡大が、吉野川河口部、長邑でバッティングしたのです。
そこで戦闘が起こり、大国主一族が勝利した。
これが神武東征物語として語られたストーリーであり、実際は分家が本家に勝利し、本家となったわけです。
これが神武東征物語として語られたストーリーであり、実際は分家が本家に勝利し、本家となったわけです。
どうですか?関裕二みたいになってきましたか?
私はけっこう好い線を行っていると自画自賛しているんですが。(笑)
そして、凶事があると、このことによる祟りと考え怯えたのです。
賀茂(葵)祭では、下鴨神社を出発し上賀茂神社へ向かいますが、川を渡らずとも行けるにも関わらず、途中なぜか賀茂川を渡ってまた戻ります。
これは元々の賀茂祭りのルートが吉野川越えだった名残ではないでしょうか?
これは元々の賀茂祭りのルートが吉野川越えだった名残ではないでしょうか?
本来の鴨祭りとは、大祖・賀茂建角身命(倭大国魂神)を祀る日本唯一の式内社・倭大国魂神神社を出発して、その娘、玉依姫を祀る下加茂神社を経由し、孫の賀茂別雷命を祀る式内社・鴨神社へ至るルートだったと考えられます。
その間、吉野川や加茂谷川を越えなければなりません。
その間、吉野川や加茂谷川を越えなければなりません。
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地図は現在の幹線道路をなぞっていますから微妙に違いますが、概ねこういうルートです。
平安中期に書かれた『本朝月令』には、
鴨祭の日、楓山の葵を頭に挿す。当日早朝、松尾の社司らに挿頭の料をもたらしむ。
阿遅志貴高日子根神と瓜二つであったという天若日子が亡くなったとき、喪屋を訪れた阿遅志貴高日子根神は、死人と間違われたことに怒り、その喪屋を太刀で切り倒したが、それが美濃国の喪山である、と古事記に書かれています。
地図にあるように、阿波の下加茂神社は ミノ にあり、太刀野、太刀野山 の地名も残っています。
出雲国風土記でも、阿遅志貴高日子根神がいた地名を、ミツ としていますが、この阿波の鴨神社が鎮座する加茂村(現東みよし町)一帯をミツ郷(和名抄)といいます。
なんで、島根で亡くなった天若日子の喪屋が、岐阜の山になるというのでしょうか?
通説の馬鹿馬鹿しさに、いい加減気づいてください。
葦原中国も、ミノ国も阿波の一地域のことです。
また、この美与之(み・よし)郡の三野(み・の)郷が、(み・よし・の)の地であり、吉野宮のあった場所であることは、別の機会に書きます。
しかし、普通に考えてください。
これは文字通り、氏族の祖神、という意味であり、つまり、賀茂御祖神社は、
皇室の祖先の神を祀っている、のです。
また、賀茂御祖神社摂社、御蔭神社では、賀茂御祖神社御祭神の荒御魂をお祀りしていますが、平安時代の右大臣、藤原実資の『小右記』 寛仁2年(1018)11月25日の条には、「鴨皇大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり」 とあります。
鴨の皇の大御神、なのです。
右大臣ほどの人物が、賀茂建角身命を、「大御神」であると認識していた、つまり皇祖であるということです。
(続く)