空と風

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鳥の一族 6

 
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 ※ ○は、Wikipediaより
 
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)京都市左京区
 
下鴨神社の通称で知られる。式内社山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格官幣大社
賀茂別雷神社上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏氏神を祀る神社であり、賀茂神社賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏賀茂建角身命の化身である。
 
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)京都市北区
 
上賀茂神社の通称で知られる。式内社山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格官幣大社
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命を祀る。
 
 
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
 
山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社下鴨神社)の祭神として知られる。
 
新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
 
賀茂建角身命には建玉依比古命と建玉依比売命の2柱の御子神がいる。
建玉依比古命は後に賀茂県主となる。
建玉依姫命は、火雷神が丹塗矢に化身して賀茂別雷命上賀茂神社の祭神)を産ませたとの記述がある。
 
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
 
賀茂別雷神社上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神社・鴨神社)で祀られる。
記紀神話には登場しない。
神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない。
『賀茂之本地』では阿遅鉏高日子根神と同一視されている。
 
山城国風土記逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。
 それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。
賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。
丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。
 
俗説
 
なお、賀茂別雷命の出生についての話と同様の話が『古事記』(大物主神比売多多良伊須気余理比売)や『秦氏本系帳』(阿礼乎止女と大山咋神)にもあり、特に後者の話と混同されて、「賀茂別雷命の父は松尾大社大山咋神である」とする話も流布している。
 
 
 
※なぜ、『山城国風土記』可茂の社の記述と『秦氏本系帳』が混同されるかというと、ここでは書きませんが、単に物語が似ているというだけではなく、賀茂氏秦氏に深い関係が見られるからです。
 
また、Wikipediaでは、物語の類似性による混同、と解説されていますが、ことはそう単純ではなく、たとえば、
能の「賀茂」(矢立鴨・金春禅竹1405~1470ころの作)でも、『秦氏本系帳』の文を下に『山城国風土記』の内容を加えた形で賀茂神社の縁起を表現していて、これが混乱を招いているようです。
 

 

たとえば、『秦氏本系帳』の記述では「初、秦氏女子、出葛野河、澣濯衣裳。時有一矢、自上流下」で始まりますが、
『矢立鴨』では「初、秦氏女玉依比売、出于葛野河、澣濯衣裳。時有一矢、自上流下」と、同じ書き出しに「玉依比売」を加えています。
 
 
ただしこれが、金春禅竹独自の全くのこじつけかというと、そうとも言い切れず、実は下賀茂神社の御祭神が賀茂建角身命というのも一説で、完全な根拠がああるわけではありません。
そもそも延喜式神名帳には御祭神名は記されていないので、下賀茂神社だけでなく本来の御祭神が不明なケースは多いのです。
 

 

『山城名勝志』 (1711)は、下賀茂神社御祭神を、大山咋神としており、
 『延喜式神名帳頭註』(1503)では、「一社大己貴子大山咋神、一社玉依日女也」
延喜式神名帳では賀茂御祖神社二座と記載)、
神道大意』にある『定二十二社次第事』 (1486)では、「御祖社・別雷神御父 大山咋神也。松尾日吉同体也」と記しています。
 
 
年代から見て、これらも「矢立鴨」の影響を受けた可能性は否定できませんが、
『定二十二社次第事』 では、「御祖社・松尾社・日吉社を同神」とし、『延喜式神名帳頭註』には「大己貴子大山咋神」とあり、それぞれ独特の伝承があったとみえます。
 
古事記では大山咋神大年神の子であり、つまり、大己貴(大国主命)=大年神ということになります。
これは後で書く私の仮説にも一致しますので記憶していただきたい部分です。
また、他の文献にも、この御祭神について考えるべきものがありますが、後で紹介します。
 
 
『本朝月令』に引用された『秦氏本系帳』の原文を探してもなかなか出てこないのですが、
 
初、秦氏女子、出葛野河、澣濯衣裳。 時有一矢、自上流下。
女子取之還来、刺置於戸上、於是女子無夫懐妊、既而生男子也・・・戸上矢者、松尾大明神 是也。
 
初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。時に一矢あり、上より流下す。
女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。・・・戸上の矢は松尾大名神これなり。
 
肝心な部分はこのような記述のようです。
多くのサイトで『秦氏本系帳』でも「丹塗矢」が流れてきて云々、と書かれていますが、原文は「一矢」で「丹塗り」とは書かれていません。
ただし、大筋が同じなのは見ての通りです。
 
そして同書には、この「秦氏女子」が阿礼乎止女で、生まれた子が都駕布であったと書かれているそうです。
「一矢」である松尾大明神の御祭神が大山咋神です。
 
 
それでは『山城国風土記』(逸文) 【釈日本紀】を見てみましょう。 

山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。
可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命
神倭石余比古(神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、
彼より漸(やくやく)に遷りて、山代國の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の隨(まにま)に下りまして、
葛野河と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見迥(はる)かして、言りたまひしく、「狹小(さ)くあれども、石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまひき。
仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。
彼の川より上りまして、久我國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。
爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
 
賀茂建角身命丹波國の神野の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。
 
玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなわ)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。
 
人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、
「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。
謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
 
可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社に坐す。
 
 
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三井神社
 
このような逸話の一致が見られる場合、その理由を考えると、
 
①それぞれの氏族に何らかの関係があり同じ伝承になった。
②古代にこういった形の逸話に神性を感じるような精神性(あるいは宗教)があり、偶然の一致をみた。
③元になる逸話がどこかに存在し、他はそのストーリーをなぞった。
④暗号としてキーワードを残した。
 
などが考えられます。
たとえば、以前も書いた、「女性が正体不明の男性と結ばれ、懐妊したが、男性の正体を追うと神である蛇の化身であり、やがて女性は大量の蛇の子を生んだ」という話は、風土記を含め各地に点在します。
これらも偶然とは考えづらく、何らかの方法で話が伝わったか、その逸話をも持つ人々が他の地方に移住したか、としか思えません。
 
山城国風土記』と『秦氏本系帳』に共通するのは、
 
①主役が未婚の女性である。
②矢が川上から流れてくる。
③その矢は神の化身である。
④女性は、その神の子を傭ける。
 
というものです。
この類似性はよく語られますけれども、これらを読む私達凡人が一番関心をもつのは、その「神の子」がいかなる人物か?ではないでしょうか。
それこそが、このような逸話の主題のはずでしょう。
 

秦氏本系帳』には、大宝元年(701)、秦都里(はたのとり)が松尾神社を創建し、養老二年(718)、秦都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子々孫々奉斎したと あるようです。

つまり、神(大山咋神)と秦氏女子の間に生まれた神の子、都駕布は、松尾神社の初代神主である、というのが、物語の主旨です。
 

 

御祭神の大山咋神は、大年神の子で、母は天知迦流美豆比売
大年神の両親は、須佐之男命と大山祇神の娘、神大市比売
妹に宇迦之御魂神がいます。大年神、宇迦之御魂神ともに穀物神です。

古事記には「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐す、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とあります。
日枝山とは比叡山だと言われています。「松尾に坐して」とあるので、もともと御霊は松尾山に存在しており、実際に神社が創建されたのが701年ということになります。

この8世紀初頭に一斉に?造られた現在も有名な神社が各地に多数あることが、このブログを見ているだけでもわかると思います。
これが四国の歴史隠しの一端です。
 

山城国風土記』では、乙訓神(火雷神)と鴨玉依日賣の間に生まれた神の子、可茂別雷命は、可茂の社の御祭神である、というのが趣旨です。
 
賀茂別雷神社の創建については実は不明で、社伝では、神武天皇の御代、賀茂山に賀茂別雷命が降臨したと云っています。
確実な「神社の記録」が見えるのは8世紀であり、関連文献として国史で最古のものは、
続日本紀文武天皇2年(698)3月辛巳21日条  禁山背国賀茂祭日会衆騎射。
賀茂祭の日の騎射を禁ず、というもので、文武天皇の御代には賀茂祭が行われていたことが分かるものです。
問題は、この「山背国」というものが本当に後の「山城国」と同じなのか?という点ですが、これを書くとそれでひとつのテーマになってしまうので、今回は流します。
 
一方、賀茂御祖神社創建も、崇神天皇七年の社の瑞垣造営『鴨社造営記』を根拠に、それ以前としていますが、その「鴨社」が京都の鴨社と同じであるという根拠がありません。
 
 
ところで、ご存知のように、これ(丹塗矢)に似た物語が古事記にもあり、こちらは「神の子」のその後が、より明確となっています。

 
(続く)