桂木(写真は御歳神社と関係ありません)
○葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)奈良県御所市
日本全国にある御歳神社・大歳神社の総本社とされる。
葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「中鴨社」とも呼ばれる。
最も古い記録は『新抄格勅符抄』の天平神護元年(765年)「御年神十三戸、大和三戸、讃岐十戸」とあるものである。
※「御年神十三戸」の封戸うち、大和三戸、讃岐十戸、なのに、それには誰も触れようとしないのは何故でしょうか。
『新抄格勅符抄』の見方について、たとえば、○○神、□・・戸、△・・戸、とあるときに、比定される一社に□国と△国それぞれ封戸が与えられた、と解釈する人がいるのですが、それは不自然でしょう。
高鴨神では「高鴨神 五十三戸、天平神護元年符・土佐二十戸、天平神護二年符・大和二戸、伊与三十戸」とあるものを、大和の高鴨神社一社に対し伊予と土佐にも封戸が与えられた、とするのですが、馬鹿馬鹿しい解釈です。
そんな遠国に封戸を与えて何になりますか。
これは、高鴨神を祀る社が、土佐、大和、伊予、にあり、それぞれに、二十戸、二戸、三十戸、が封戸されたと見るべきでしょう。
土佐はもちろん、土佐神社であり、伊予は、西条市の高鴨神社です。
そんな遠国に封戸を与えて何になりますか。
これは、高鴨神を祀る社が、土佐、大和、伊予、にあり、それぞれに、二十戸、二戸、三十戸、が封戸されたと見るべきでしょう。
土佐はもちろん、土佐神社であり、伊予は、西条市の高鴨神社です。
葛木御歳神社が鎮座する御所市には、式内社「長柄(ながら)神社」があります。
御祭神は、阿遅志貴高日子根神の妹、下照姫。あるいは事代主命。あるいはその妹、高照姫と言われています。
つまりはっきりとは分からないのです。
この神社名でもある地名、御所市の「長柄」は、元は「長江」です。
「長柄」は、地名でも神社名でも「ながら」と読まれることが多いのですが、元々はこの字で「ながえ」と読みます。
日本書紀にも長柄(ながえ)、とあります。
よくある漢字の訓みの変化です。現在でもこのまま「ながえ」と読む地名が複数あります。
『新抄格勅符抄』に、御年神「十三戸」のうち「讃岐十戸」とありますが、讃岐で御年神を祀る神社は何と「長柄神社」なのです。
日本書紀にも長柄(ながえ)、とあります。
よくある漢字の訓みの変化です。現在でもこのまま「ながえ」と読む地名が複数あります。
『新抄格勅符抄』に、御年神「十三戸」のうち「讃岐十戸」とありますが、讃岐で御年神を祀る神社は何と「長柄神社」なのです。
上のどの文章を見ても(他の様々なサイトも同じ)、大和が鴨氏の本貫地であるという誇りに満ちているのがわかります。
が、これだから逆に本当の歴史が見えてこないのですね・・・。
が、これだから逆に本当の歴史が見えてこないのですね・・・。
では、次に葛城氏を見てみましょう。
○葛城氏(かずらきし)
※玉手氏の本貫地も阿波だと以前書きました。
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
※ 葛城長江襲津彦(かつらぎのながえのそつひこ)が正式名で、ここから「長柄里」に住んでいたと仮定しているようです。
上に書いたように、「名柄」は元は「長江」であり、「江」とは解説するまでもなく、
【江】(え)字義:海岸部が陸地に入り組んだ地形。入り江。
上に書いたように、「名柄」は元は「長江」であり、「江」とは解説するまでもなく、
【江】(え)字義:海岸部が陸地に入り組んだ地形。入り江。
であり、「長江」とは「長国」の「入江」で、そこにあった「葛城」、つまりこのブログで何度も書いているように、現在の鳴門市が襲津彦の本拠地です。
これは『阿波国風土記』に記される「中湖」(なかのみなと)のことで、長国の「長」は後に「那賀」(なか)と書かれているように、元の音は「なか」です。
内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ訓みの「名柄」が好まれたのでしょう。
これは『阿波国風土記』に記される「中湖」(なかのみなと)のことで、長国の「長」は後に「那賀」(なか)と書かれているように、元の音は「なか」です。
内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ訓みの「名柄」が好まれたのでしょう。
○葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。
さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。
しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。
しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。
先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。
渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。
当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。
※古代、外国との公益で力を付けられるのは、天然の良港を支配する人達であって、内陸部では成し得ません。
古代、徳島市は海底であり、すなわち巨大な入江になっていて、吉野川河口と現在の鳴門市を支配する首長が朝鮮半島との交易を行なっていたことは考古学からも明白です。
次に、鴨氏です。
○賀茂氏(かもうじ、かもし)
賀茂氏は日本の氏族である。加茂、鴨、加毛とも書く。
子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。
しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。
その、山城国の賀茂系神社と御祭神は、次のとおりです。
(続く)