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鳥の一族 7 丹塗矢伝説

 
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伊比良咩神神社(元は ナカトミ に鎮座していた)
 
故、坐日向時、娶、阿多之小椅君妹、名、阿比良比賣
神武天皇、阿波の樫原で即位されたあと、「日向」で、「阿多」の「小椅君」の妹「阿比良比賣」を娶りました。
「日向」は徳島県南海岸部、「阿多」は海部郡。木花開耶姫こと神阿多都比売も神武天皇の曽祖父、邇邇芸命の后となっている由緒ある地で、「小椅君」(天村雲命)の近親女性を娶ったのです。
 
もちろん、日本唯一、阿波の古社(『日本三代実録』 貞観14年(872)、阿波国正六位上伊比良咩神)で、阿比良比賣は祀られています。
 

この後、「然更求爲大后之美人時、大久米命曰」、更に天皇は大后を求められます。
久米氏も阿波の氏族で、現在でも石井町が日本一の久米姓密集地。
この事実から見ると、阿波(倭)から奈良(大倭)へ遷都後も、久米氏は阿波に残されたようです。
遷都するからには、能力・年齢とも優秀で中心的な人々は全て移動したはずで、神武軍最強部隊の久米氏の子孫が残されたのは、地勢的に考えて気延山周辺守護の任務を任された可能性を感じます。
 

此間有媛女。是謂神御子。
其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣。其容姿麗美
故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎。
乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、即娶其美人、生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命。
亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。故、是以謂神御子也

大久米命が神武天皇に語るには「大后とするにふさわしい女性がおります。三嶋湟咋の孫、伊須氣余理比賣、この者は神の御子です」と。
美和之大物主神丹塗矢に姿を変え、溝を上流から流れ来て、三嶋湟咋の娘、勢夜陀多良比賣と結ばれた。そして生まれた子が伊須氣余理比賣だと言うのです。
 
つまり、神(大物主神)と勢夜陀多良比賣の間に生まれた神の子、伊須氣余理比賣は、神武天皇の大后である、というのが物語の趣旨です。
 

この逸話が 『日本書紀』の一書には、
 
事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姫、或云、玉櫛姫。 而生兒、姫蹈鞴五十鈴姫命、
是爲、神日本磐余彦火火出見天皇之后也。
 
とあり、
古事記大物主神事代主神に、丹塗矢が八尋鰐に、勢夜陀多良比賣が玉櫛姫に、比賣多多良伊須氣余理比賣が媛蹈鞴五十鈴媛に変わっていますが、同じ結婚話が記されています。
 

また『先代旧事本紀』地祇本紀では、
 
都味齒八重事代主神、化八尋熊鰐、通三島溝杭女、活玉依姬、生一男一女。
・・・妹踏韛五十鈴姬命、此命、橿原原朝立為皇后、誕生二兒、
即、神渟名耳天皇、綏靖、次產八井耳命是也。
 
と、同様の記述がありますが、三島溝杭の娘の名が玉依姬になっています。
 

「三嶋湟咋」の娘「勢夜陀多良比賣」=「玉櫛姫」=「活玉依姬」は、「大物主神」=「事代主神」の妻で、その娘「伊須氣余理比賣」=「五十鈴姬」は、神武天皇の大后。

さあ、ややこしくなってきました。
古代に関心ある方なら、誰でも知っている謎の「玉依姫」です。
 
 
玉櫛媛(たまくしひめ) Wikipedia

日本書紀では事代主神古事記では 大物主の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母。
別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫勢夜陀多良比売ともいう。
 
旧事本紀の記載によると 一男一女を儲けた。
第1子 天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)別名:櫛甕玉(くしみかたま)、
櫛御方命(くしみかたまのみこと)といい、食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)
に任じられている。
第2子 韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)は、神武天皇の皇后になり、
即神渟名河耳天皇(かむぬなかわみみ:綏靖天皇)と彦八井耳命(ひこやいのみこと)のふたりの皇子を産んだ。
綏靖天皇は、韛五十鈴姫命の異母姉妹、五十鈴依姫命と結婚し皇子をひとり産んだ。
この皇子が磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみ:安寧天皇)である。
 
※混乱を呼ぶ解説があったので一部カットしています。
 

再度、「丹塗り矢伝説」の登場人物を整理しましょう。
 

古事記 
         大物主神        神武天皇
           |            |
三嶋湟咋 ー 勢夜陀多良比賣 ー 比賣多多良伊須氣余理比賣
 
 
           事代主神       神武天皇
             |           |
三嶋湟咋  ー  玉櫛姫   ー   姫蹈鞴五十鈴姫
 
 
        都味齒八重事代主神    神武天皇
              |            |
三嶋湟咋   ー  活玉依姬   ー   姫蹈鞴五十鈴姫
 
 
            乙訓神(火雷神)       
               |       
賀茂建角身命  ー  玉依姬   ー  可茂別雷命
 

秦氏本系帳
 
           松尾神(大山咋神)       
              |       
秦氏    ー    阿礼乎止女   ー  都駕布
 
 
 
古事記日本書紀先代旧事本紀の3件は、どう見ても同じ話。
つまり、玉依姬・玉櫛姫・勢夜陀多良比賣は、間違いなく同一人物です。
 
私の説では、天日鷲命と三嶋湟咋と賀茂建角身命は同一人物ですが、忌部氏と鴨氏は同族で祭祀氏族。
秦氏も鴨氏・忌部氏とのつながりが深く、秦氏が数々の神社を建立、都駕布が松尾神社の祝となっていることを見ても、丹塗り矢伝説の広がりには必然が有りそうです。
 
ただし、可茂別雷命と都駕布が同一人物とは考えられないので、火雷神と大山咋神が同神とはしがたい。
丹塗り矢のストーリーだけが秦氏本系帳に混ざった可能性が高いと感じます。
 
ところが、です。
 
大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐す、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とある、
そのもう一方の神社、日吉大社主祭神は、大己貴神大国主神)と大山咋神であり、摂社のひとつ樹下宮には、大山咋神の妃神として「鴨玉依姫命が、祀られているのです。
 
これは、伝承が間違ったのでなければ、火雷神と大山咋神が同神であることを示唆するものです。

大山咋神の父は、古事記の系譜では大年神ですが、一緒に祀られる御祭神が大国主命ということは、大国主命大年神という説を裏付けるように見えます。
 
前回も書いたように、賀茂御祖神社御祭神(つまり、可茂別雷命の親神、という意味で)について、
 
『山城名勝志』 (1711)は、大山咋神
延喜式神名帳頭註』(1503)は、一社大己貴子大山咋神、一社玉依日女也
神道大意』「定二十二社次第事」(1486)は、御祖社・別雷神御父 大山咋神也、松尾日吉同体也
 
と、しています。
 
伴信友の『瀬見小河』二之巻には、
 
丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり。
 
との解説が見えます。
大仙咋神とは別名「鳴鏑神」であり(“鳴鏑”とは音を発する弓矢)、山城国風土記の「丹塗」という神はこの神なのだ、というものです。
 
 
そして、『三輪叢書』所載の三輪高宮家系系譜には、
阿遅鉏高日子根命の「又名」を大山咋神、と記しています。
 つまり、大己貴神の子=阿遅志貴高日子根神=大山咋神
 
火雷神=大山咋神であり、その父が、大年神大国主命とすると、三嶋湟咋=賀茂建角身命大国主命ですから、上の丹塗り矢伝説全てにつながりが生まれます

そして、後世の秦氏秦氏本系帳を記すにあたって、同族の鴨氏の逸話に先祖を潜りこませたように見えます。あるいは、可茂別雷命と都駕布は同じ父を持つ異母兄弟とも見えます。
 
さらに、事代主神は=猿田彦神ですが、日吉大社では猿を神の使いとしています。
御祭神の一柱である大国主命は、大津京遷都の際、大和の三輪山から勧請したと云われています。
この「大神大物主神社」(大神神社)は、主祭神がその名の通り大物主神ですから (ご祭神は、大物主大神大己貴神少彦名神)、その正体が猿田彦神であることを表しているように見えます。

 
 
(続く)