空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

『鳥の一族』を復習する 壱 賀茂建角身命

f:id:awanonoraneko:20200420023359p:plain

八咫烏

2012年に『鳥の一族』という古代史の記事を書き、その概略として「日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部」を纏めました。過去に小生が書いたものの中では一番アクセスの多い記事です。 内容については、自分が間違っていたと気づけば、いつでも即座に訂正するつもりなのですが、未だにそう思える要素が見当たりません。

そもそも「鳥の一族」とは何ぞや? その「趣旨」は何か? といえば、この我が日本国、その元つ国である「倭」(やまと)国を建国したのは一体誰なのか?という話です。もちろん、それは神武天皇に他ならないのですが、この初代天皇の即位を支えたのは誰なのか?を明らかにしたわけです。 え!?明らかになっていない?? それは、あなたの頭が凝り固まった「創られた常識」に支配されているために、脳が理解を拒んでいるだけではありませんか? 

しかし、実を言いますと、私自身「鳥の一族」を書いた時点では、まだ分かっていなかったことも多いのです。そこで、それらの深解釈も付記しつつ、今一度、解説記事を書きたいと思います。といいますのも、それが次に続く『龍の一族』の理解に繋がるからなのです。  

 

 ここに、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)という人物がおります。全ての「賀茂」「加茂」「加毛」「鴨」氏の大祖であり、賀茂御祖神社下鴨神社)の御祭神です。 ただし、現状一般には「賀茂氏」の正体は掴みきれず、およそ「三系統」あることになっています。始祖もその本貫地もバラバラな別系統の氏族が何故みな「カモ氏」なのか?は考えないことにしているらしいです。

とは言っても、これは近代の解釈に限ったことではなく『新撰姓氏録』においても別系統と区別されています。ではこの平安時代の書には100%正しい古代の姿が記されているかといえば、これもまた甚だ疑問であり、それよりおよそ500年前のことをどれだけ正確に伝えているかといえば、史実の喪失も歴史の隠匿も介在したと考えられます。

何故ならば、賀茂氏の伝承や人物関係を追えば、それぞれが無関係であるはずがないことは容易に見て取れ、現代の研究者も、少なくとも「何らかの関係性」は認めざるを得ないからです。

 賀茂建角身命は、カモ氏の中でも「天神系」と呼ばれる系統の始祖とされています。 『釈日本紀』に引かれた『山城國風土記逸文「可茂社」は以下の通り。 

山城の国の風土記に曰はく、可茂の社。

可茂と称うは、日向の曾の峯に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、彼(そこ)より漸(やうやく)に遷(うつ)りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の隨(まにまに)下りまして、葛野河(かどのがは)と賀茂河との会ふ所に至りまし、賀茂川を見迥(はる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小(さ)くあれども、石川の清川(すみかは)なり」とのりたまひき。仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼(そ)の川より上りまして、久我(くが)の国の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。その時より、名づけて賀茂と曰ふ。

賀茂建角身命丹波(たには)の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。

玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなわ)ち取りて、床の邊(へ)に挿し置き、遂に孕みて男子(おのこ)を生みき。

人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹(やはら)の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊(うたげ)したまひて、然(しか)して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝(いまし)の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、卽(やが)て酒坏(さかづき)を挙(さ)げて、天(あめ)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋(や)の甍(いらか)を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。

乃(すなわ)ち、外祖父(おほぢ)のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。

謂(い)はゆる丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡(こほり)の社に坐せる火雷神なり。

可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社に坐す。

 

f:id:awanonoraneko:20200131233435j:plain

賀茂御祖神社

 『山城國風土記』は、このように神話としての「可茂社」鎮座の伝承を記します。どう見ても「神話」ですね。これを「史実」として「八咫烏」でもある可茂建角身命が神武天皇とともに東遷し、大和国に入った後、山城国に移住した、と捉える向きがありますが、山城国に入ったのは「神」としての可茂建角身命であり、古社の場合、一般的には歴史を誇りたいために「どこそこに降臨した」と言い伝えられるものですが、はっきり言えば「どこからか分祀された」のです。

「大倭の葛木山の峯に宿りまし」~「定まりましき」は、文字通り「神社」(かみやしろ)の移遷を伝えているのです。可茂建角身命という「人物の物語」と考えるのは「丹波国神野の神伊可古夜日女と結婚し、玉依日子と玉依日賣を儲けた」という記述からのものと思われますが、これは「山城国に移住した後、丹波国の伊可古夜日女という女性を娶った」という意味ではありません。

「可茂建角身命の妻(の一人)」は、「(今)丹波国神野で“祀られている神」であるところの”伊可古夜日女である、という伝承です。この神社は現在の神野神社であるとされています。古社は所在地や御祭神が不明になることも多く、神野神社であるのか、また別の社か等不明点は多いが「可茂建角身命が神として山城国に鎮座した比較的同時期に丹波国に祀られた」と考えられます。これは「時代的」「宗教的」に考えたとき、「伊可古夜日女の子孫が丹波国に入植し、祖神として彼女を祀った」ということになります。

そもそも、人間史と捉える人も、可茂建角身命が神武軍に従軍し、大和国を経て山城国に住み着き、その後結婚し一男一女を儲けた、とは誰も考えてはいないのです。何故ならば、可茂建角身命は神武天皇の二世代前の人物であり、天皇の即位がいかに若い年代だったとしても、すでに命は老人の域のはずだからです。

では、これらの「祭祀」は何処からもたらされたのか?は、これまた凄まじい長文テーマになりますので、別の機会に書きます。一つだけヒントを書けば、伊可古夜日女の別表記は「伊賀古夜日売」であり、この「イカ・イガ」という人名詞は以前書いたこともあるイカ・イガ「地名」と関係があります。阿波で言えば「医家神社」「伊加加志神社」などの社名が思い出されるかと思います。

 

さて、サラッと書くつもりが、書き始めるとどんどん長くなるのがブログの嫌なところです。この賀茂建角身命には多くの別名があります。

賀茂氏系図等には、別名として「金鵄八咫烏」とあります。「金鵄」「八咫烏」は神武神話に別々に登場する鳥類ですが、ともに賀茂建角身命のことだというのです。

ほかにも複数の別名があり、面倒なので繰り返しませんが、簡単には(Wikipedia)を御覧ください。

 

 

このページの「系譜」には「天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神賀茂建角身命と同一視する説を平田篤胤などが唱えている」という一文がありますが、以前はこんな説明はどこを見てもネット上には無かったものです。「美」は(び)でもありますから、“通じる”も何も、そのまま金鵄です。 引用元として、宝賀寿男「神武天皇、実在の可能性」『「神武天皇」伝承の真実を検証する⑦』(2017年)を挙げていますが、この平田篤胤説をそこそこ世に紹介した自負が私にもあります。「日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部」がこれまで相当数読まれ、ネット上で数多く引用もされてきた実績があるからです。(Yahoo!ブログ閉鎖時点での総アクセス数は50万超)

国学者平田篤胤は、ある意味本居宣長同様、引きこもりの神学歴史オタクであり、その篤胤が「按ずるに~ならんか」というような仮説口調ではなく「弓の弭に留まりし金色の霊鵄は、此の神(天日鷲命)の化りし鳥ならん」と断定するからには、当然この二柱の神が同神だった場合どういうことになるのか?系図を含めたあらゆる情報に照らして総合的に考察したはずです。

しかし、この篤胤の結論部分だけを取り上げたところで意味はないのではないでしょうか? 私が書いていることは、このときの篤胤の作業を後追いしているだけなのかもしれません。

 

賀茂建角身命には、上記の通り「玉依姫」という娘がいます。

これも以前書いたように、史書には「複数の」玉依姫が、それぞれ別のシーンで登場し、通説はどれも「別人」としています。

私は以前「少なくとも二人の玉依姫は同じ女性である」と書いたのですが、実はそれもある意味間違いでした。「その女性の真の姿が明らかになること」が「真実の日本の古代史の扉を開くこと」になるでしょう。

 

古代史の世界では、現代の政治思想を歴史解釈に持ち込むリベラル史観の強い人や、あるいはセンチメンタルな歴史好きによって「消された◯◯」とか「隠された◯◯」とかいう表現がよく好まれる傾向にあり、私は見る度「出たよ・・」と、しかめっ面で辟易しているのですが、それでも、本当に「歴史に隠された神」が在るとしたら、それは間違いなく、誰をおいても、この玉依姫のことだと断言します。