空と風

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カツラと事代主命

 
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徳島の古地図(上が南) 勝浦川を、カツラ川と書いている
 
 
 
地名の「かつら」グループは、勝浦・勝占・桂などと漢字表記され、そのルーツは海人(あま)族、安曇(阿曇)系の本貫地、阿波の勝浦郡であると書いてきました。
 
この「かつら」に絡む氏名・地名のひとつが、葛城・葛木なのでしょう。
阿波における「かつらぎ」とは、鳴門市大麻町の南北三社の葛城神社に挟まれる一帯で、
天円山(あまがつぶ)が葛城山と考えられます。
後世、葛城氏の実力者に、葛城円(つぶら)がいますが、この山の名に関係するかもしれません。
自然地名として「葛城谷」の名も残っています。
 
 
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粟田の葛城神社
 
ここに祀られる葛城神社は、地元では「鳴門の目の神様」として有名で、HPによると、その縁起は
 
後39代天智天皇、九州に御巡幸された時、天皇随行され阿波を御通過の折、粟田の沖にしばし御逗留し、この浜に上陸され、渓谷にすむ鯉鮒の釣りの御慰みに御乗馬にて進みなされる途中、藤葛にて馬がつまづき神は落馬され呉竹の切株にて御眼を傷つけ眼病と成られ、その為神は天皇の御伴が出来ず永く粟田にて御養生され、この地の守護神として御自身眼病の苦しみを忘れる事なく、眼病の者を特に憐れみ給い、お救いなれされるとの御誓願により、粟田、大浦、宿毛谷、鳥ヶ丸の四ヶ村には馬を飼わず、呉竹と藤葛の生える事なく、鯉鮒育つことのないという不思議なる霊験により現在までもその煌々とした御霊徳のおかげを被る者枚挙に限りなく、神を仰ぎ奉る善男善女は願望成就すること広く知られる通りであります。
 
とあり、その目を痛められた神というのが、御祭神である
 
当葛城神社御祭神一言主大神様は、第22代雄略天皇の御代、天皇大和国葛城山に御遊猟し給う時、天皇と御容姿が相似たる神が現れ、「私は悪事も一言、善事も一言にて言放つ言離神、葛城一言主神なり」と御名乗りすると、天皇は恐縮し共に御遊猟された折、大きな猪がまさに天皇に飛びかかろうとする勢の時、御守護して一息に猪を突き殺し、お救いした神・・・
 
であります。
 

大和国葛城山」というのは、例によって現代人の勘違いによる混同で、正確には「倭国葛城山」です。
すなわち、当地こそが物語の舞台。間違った通説に由緒も歪んでいるわけです。
この由緒については、既にストーリーが変化していて、オリジナルは『粟の落穂』(天保・弘化年間 1840~)葛城大明神の項にあります。
 
里人伝へて云、天智天皇讃岐国八島へ御行の時、此の地に御船かかり池の鮒を釣せ給はんとて御馬に召れ、御船より上らせ給しに、御馬の足、藤の蔓に纒ひて落給ひ、男竹にて御眼を突、痛み玉ひしより、
今に此の村に馬を飼はず、又池溝に鮒住ず、男竹・藤生せず・・・・・
眼を病む人此の社に祈願すれば験応ありとて詣る人多し。

つまり、本来目を痛められたのは天智天皇だったのですが、神の霊験を謳うためか、御祭神の一言主神の話にすり変わっているのです。
本来、倭(阿波)から讃岐へ行幸される話が、大倭(奈良)から九州へゆく途中の話にも変わっています。
 
 
当社オリジナルの由緒が、7世紀の天智天皇の話であり、この鳴門粟田の葛城神社は、古墳時代後期(6世紀後半)ごろの築造と推定されている葛城神社古墳の前に鎮座しています。
 
さらに、山の南麓、大麻町姫田に鎮座する葛城神社は、
 
昭和8年改築の折、旧社殿を取り除き整地したところ、古代の玉類や紡錘車※などが出土した。
古代の祭祀遺跡として神祭りに供せられたものか、あるいは、もと古墳があって遺物が残っていたものか、いずれにしてもその歴史は古い。
なお本社の飛地境内社となっている神社裏の荒神社に「大森貝塚」遺跡、また森崎の荒神社にも昭和49年県指定史跡となった「森崎貝塚」遺跡がある。
更に、里の荒神社や宮尾神社も飛地境内社である。
徳島県神社誌』
 
※ 紡錘車(ぼうすいしゃ) Yahoo!辞書
紡錘に用いるおもりの円盤。弾み車を兼ねる。中心の穴に木の棒を通して回転させる。
日本では弥生時代以降の各期に土製・石製・骨製の遺例がある。

というような地勢の社です。
 
 
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姫田の葛城神社
 
奈良の式内社葛城一言主神社の最古の記録は、「貞観元年(859)従二位を賜う。同年九月幣を奉りて雨風を祈られる(『三代実録』)」というものです。
鳴門葛城神社は、この葛城一言主神社から天喜年間(1050年頃)分祀されたと云われていますが本当でしょうか?
他の土地から神社を勧請したときに、なんの関係もない、そこにもともとあった古墳の上に建てますか?
 
7世紀の天智天皇の由緒が残る神社の創建を11世紀とするのは、やはり現在の(間違った)常識からすると矛盾に目を瞑らなければならないということなのでしょう。
これで、子供たちに、神社の歴史をどう話して聴かせるつもりですか?
  
さて、前回、高知市の「桂浜」の名の由来が、「勝浦浜」だった事実を紹介しましたが、その高知市にはどんな神社や伝承があるのでしょうか?
 
 
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土佐神社 (写真 Wikipedia
 
土佐國一宮 式内社 都佐坐神社 の御祭神は、なんと、一言主神なのです。
御祭神に関しては、はっきりしておらず、味鋤高彦根神との説もあり、現在両神を祀っています。
本来は土左大神、または高賀茂神と呼ばれる神です。
 
日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、
また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記逸文には
 
 土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。
 郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂の大社あり。
 其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。
 一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。
 
とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。
この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
(神社HP)
 

これも阿波の葛城神社と同じく間違った常識に縛られているのです。
上に書いたように、大和(奈良)の葛城一言主神社、最古の記録は、貞観元年(859)のものです。
 
また、同じく大和国高鴨神社の国史初見は、『続日本紀天平宝字八年(764)の、「復祠 高鴨神 於大和国葛上郡」というものです。
その1~2世紀も前からの記録が残る土佐大神を、なんで無理やり国造などにこじつけて大和から分祀されたとしなければいけないのでしょう。
 
風土記では、高賀茂の神は一言主尊であり、その祖は定かではないが一説では、味鋤高彦根尊、と書いています。
味鋤高彦根尊の別名が、迦毛大御神(かものおおみかみ)だからだと思われます。
 
一言主神は、古事記雄略天皇の条に突然現れる神で、その正体が不明です。
その神格や名前の響きから、事代主神を誰でも連想すると思いますが、であれば、雄略天皇がその正体を知り恐れ入るのも頷けます。
事代主神は、今も宮中八神として皇室で祀られるような神だからです。
 
 「高賀茂神」=「味鋤高彦根神
 「事代主神」=「一言主神」
 「味鋤高彦根神」と「事代主神」は、大国主命の子で異母兄弟。
 
「高賀茂神」=「一言主神」というならば、味鋤高彦根神事代主神が同一人物か、兄弟という近しい関係からどこかで混同されたと考えられます。
その正体がどちらかはともかく、本来、土左大神とは、一言主神のことであるのは間違いありません。
 
 

ところで、土佐國風土記逸文にはもう一つ、神社に関するものが残っており、それは以下の通りです。
 
 土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。
 神のみ名は天津羽羽(あまつはは)の神なり。
 天石帆別(あまのいはほわけ)の神、天石門別(あまのいはとわけ)の神のみ子なり。
 

どこかで聞いたことがあるでしょうか? (初心者向けに一応質問)
 
東京都神津島村 長浜 阿波命神社 こと、
 
 
御祭神は、阿波咩命。
 
 以前も書きました、『神代系図』(平田篤胤)によると、その別名のひとつが、天津羽々命です。
 
当地の言い伝えでは、三島大神(三島大社)の御祭神、事代主命の本后です。
三島大社でも、阿波神の名で配祀されています。

なぜ、阿波神と呼ばれるのか?  
以前も書きましたね。
 
 
高知県に伝わる伝承では、式内朝倉神社(土佐國二の宮)(カツラ浜の隣、長浜の上に在る)の御祭神、
天津羽々神は、土佐神社(土佐國一の宮)の御祭神、一言主神の后であるとされています。
 
 
 
(続く)