岩利大閑説では、阿波国加茂山の丹田古墳は阿遅志貴高日子根神の神陵、古墳下の式内社鴨神社はその拝所、としています。
現在、鴨神社御祭神は『徳島県神社誌』でも、上賀茂神社と同じく可茂別雷命としており、岩利説を照らすならば阿遅志貴高日子根神とは別名同神か、どちらかの間違い、ということになります。
現在、鴨神社御祭神は『徳島県神社誌』でも、上賀茂神社と同じく可茂別雷命としており、岩利説を照らすならば阿遅志貴高日子根神とは別名同神か、どちらかの間違い、ということになります。
※「三輪高宮家系図」の、阿遅鉏高日子根命の欄には、
及び、松尾坐神、日枝坐神、是也。
が、これはその“書き方”から感じられるように、系図に後から書き込まれた注文のようなものとも見えます。
しません。 当てはまるのは、
松尾大明神、火雷神=大山咋神
です。
すなわち大穴持命の申し給わく、
皇御孫ノ命の静まり坐を大倭國と申して、己ノ命の和魂を、八咫ノ鏡に取つけて、
倭ノ大物主櫛[瓦+長]玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、
己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ、
賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、
皇孫ノ命の近き守神と貢り置きて、
八百丹杵築ノ宮に静まり坐しき。
また、『出雲国風土記』(733)には、
意宇郡賀茂神戸、天の下造らしし大神の命の御子阿遅須枳高日子命、
葛城の賀茂の社に坐す。
一般的に、この社は、高鴨神社のことと言われています。
〈今検前記。不見此事。〉
於是。天皇乃遣田守。迎之令祠本処。
というものです。
賀茂朝臣田守らが言うには、
先祖の主神、老夫と化するを、ここに放逐せらる。
「老夫と化した先祖所主之神」が「高鴨神」である、
つまり、この話を信じるならば、一言主神=高鴨神=阿遅志貴高日子根命、ということです。
なんとも馬鹿馬鹿しい話です。
賀茂朝臣田守が、なぜこんなたわけ話を「作った」かというと、年代を見比べれば一目瞭然です。
質問されても答えられないばかりか、神社創建にあたり説明義務も生じたと思われ、致し方ない苦し紛れのやりとりの産物だったのかもしれません。
そもそも、一言主大神は葛城の山にいたのですから、その正体は事代主命でしょう。
ところが、大和国へ遷都後、その区別が曖昧となってしまい、出雲国風土記にも「葛城の賀茂の社に阿遅須枳高日子命を祀る」と書かれたことなどから、葛城と阿遅志貴高日子根命と一言主大神が結びついたようです。
ところが、大和国へ遷都後、その区別が曖昧となってしまい、出雲国風土記にも「葛城の賀茂の社に阿遅須枳高日子命を祀る」と書かれたことなどから、葛城と阿遅志貴高日子根命と一言主大神が結びついたようです。
続日本紀も「今検前記、不見此事」、
何の古い記録を検べても、他にこんな話は一切見えない、とはっきり書いています。
続日本紀の著者も眉唾だと思ったのでしょう。
この断り書きは著者の良心といえます。
あるいは、仮にも天皇とその先祖主之神の話に不敬があってはいけないと、予防線を張ったのかもしれません。
このようなケースは昔から現在に至るまで、民話から神社の由緒にいたるまで、どこにでも見当たることです。
後世の者が、その時代での常識に従って古くからの言い伝えを変えたり、神社名や地名(特に漢字の字面)を下にそれらしい由緒を作ったり・・・。
ところが、そのただの作り話も、数十年数百年と時間が経つと「昔からこう云われている」と後生大事に語られるわけです。
※ カツラと事代主命
四国の古代のことを知れば簡単にわかる謎が、現代にいたっても誰にも分からない状態が続いているのです。
先に書いた『新抄格勅符抄』にも、
高鴨神五十三戸、天平神護元年(765)符・土佐二十戸、
天平神護二年(766)符・大和二戸、伊与三十戸
とあり、
大和国に高鴨神社が創建されたのが764年なのに、
その翌年(765)に、土佐高鴨神に二十戸、
そのまた翌年(766)になってようやく、大和高鴨神には、やっと二戸の封戸なのです。格が違います。
高鴨神社創建の翌年に、土佐神社に、これだけの封戸が与えられたのは、同社に対する御礼とも考えられます。つまり、
この時代に、大和国には、まだ高鴨神社が無かったのですから。
その大和国に、阿遅須枳高日子命は既に祀られていたはずなのです。
阿遅志貴高日子根神=火雷神=松尾神=大山咋神
だからです。
阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ
事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ
「帰り坐す」「降り坐す」などと言うように、
移動した先に落ち着く ことを表現する手段として「坐」を使っているのです。
考えてみてください。
もともとその地の神であれば、なんでわざわざ神社名の頭に、○○坐□□神社、などと付ける必要がありますか。
元社と区別するために、「○○坐」と付けるのです。
現在の地名のルールでも同様。
たとえば、奈良に郡山という市名を付けたいとなったときに、すでに同じ地名が福島で使われていたならば、それと区別するために、“大和”郡山市、と頭にヤマトをくっつけるのと同じことです。
もちろん四国を模しているのです。
(続く)
※ 私は、阿遅志貴高日子根神については、アジシキタカヒコネノカミ、の音が正しいと思うので、基本的にこの漢字を使いますが、文献を引用するときは、そこに書かれている字をそのまま使っています。