空と風

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鳥の一族 10 高鴨神

 
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岩利大閑説では、阿波国加茂山の丹田古墳は阿遅志貴高日子根神の神陵、古墳下の式内社鴨神社はその拝所、としています。
現在、鴨神社御祭神は『徳島県神社誌』でも、上賀茂神社と同じく可茂別雷命としており、岩利説を照らすならば阿遅志貴高日子根神とは別名同神か、どちらかの間違い、ということになります。

※「三輪高宮家系図」の、阿遅鉏高日子根命の欄には、
 
 大和国葛城郡高鴨阿治須岐託彦根命神、又、山城国愛宕郡賀茂別雷神
 及び、松尾坐神、日枝坐神、是也。
 
とあり、『山城国風土記』可茂社の物語上の「親子」と、「阿遅志貴高日子根命」を全て同一神だとしています。
が、これはその“書き方”から感じられるように、系図に後から書き込まれた注文のようなものとも見えます。

阿遅志貴高日子根命が『山城国風土記』にその系譜を記されていると考えた場合、普通に読んだときに、それは風土記内の可茂別雷命に該当するか?
 
しません。 当てはまるのは、
 
松尾大明神、火雷神=大山咋神
 
です。
 

先に書いた、折口信夫の「水の女」にも出てきた『出雲國造神賀詞』(716)の中に次の一文があります。

 すなわち大穴持命の申し給わく、
 皇御孫ノ命の静まり坐を大倭國と申して、己ノ命の和魂を、八咫ノ鏡に取つけて、
 倭ノ大物主櫛[瓦+長]玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、
 己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
 事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ、
 賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、
 皇孫ノ命の近き守神と貢り置きて、
 八百丹杵築ノ宮に静まり坐しき。

天皇の守護神とするため、「阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に、事代主命の御魂を、宇奈提に坐せ」、と書かれており、この「宇奈提」は、高市御縣坐鴨事代主神社であると言われています。
また、『出雲国風土記』(733)には、
 
 意宇郡賀茂神戸、天の下造らしし大神の命の御子阿遅須枳高日子命、
 葛城の賀茂の社に坐す。
 
と、あり、大和国葛城の賀茂社に阿遅須枳高日子命が祀られていると記されるのですが、これがどこの社なのか、実は、はっきりわかっていません。
 
一般的に、この社は、高鴨神社のことと言われています。

先代旧事本紀』地祇本紀(9世紀)にも、「兒味鋤高彦根神 坐倭国葛上郡高鴨社 云捨篠社」とあるからです。
 
 
ところが、その高鴨神社の国史初見はというと、『続日本紀』の(764年)
 
 復祠高鴨神於大和国葛上郡
 
 高鴨神者法臣円興。其弟中衛将監従五位下賀茂朝臣田守等言。
 
 昔 大泊瀬天皇猟于葛城山。時有老夫。毎与天皇相逐争獲。
 天皇怒之流其人於土左国。先祖所主之神化成老夫。爰被放逐。
 〈今検前記。不見此事。〉
 於是。天皇乃遣田守。迎之令祠本処。
 
というものです。

賀茂朝臣田守らが言うには、
 
 昔、大泊瀬天皇葛城山に狩りしたまひし時、老人有りて、
 毎に天皇と相逐ひて獲を争ふ。
 天皇怒りて、その人を土左国に流したまふ。
 先祖の主神、老夫と化するを、ここに放逐せらる。
 
大泊瀬天皇雄略天皇)の、この話は、どう見ても記紀一言主大神のことであり、その記述とは正反対に、『続日本紀』では、神が天皇の怒りを買って土佐に流された、というのです。
 
「老夫と化した先祖所主之神」が「高鴨神」である、
つまり、この話を信じるならば、一言主神=高鴨神=阿遅志貴高日子根命、ということです。
 
 
なんとも馬鹿馬鹿しい話です。
 
賀茂朝臣田守が、なぜこんなたわけ話を「作った」かというと、年代を見比べれば一目瞭然です。
 
764年、大和国に高鴨神社を創建するにあたり、高鴨神を見ると、疾の昔に土佐国で祀られていたわけです。
これには、大和国賀茂氏は困ってしまいました。
高鴨神は、元より賀茂氏発祥の地である?はずの、大和で祀られていなければおかしい(彼らにしてみれば)からです。

そこで、このように、高鴨神は大和から一旦土佐に移したものを、また元の地に戻したのだ、と、雄略天皇一言主大神の物語を利用し、ストーリーを創作するしかなかったわけです。
 
もちろん、賀茂朝臣田守ら大和の賀茂氏にしてみれば、「先祖所主之神」が、なぜ、これまで地元で祀られず、土佐で祀られていたのか?
質問されても答えられないばかりか、神社創建にあたり説明義務も生じたと思われ、致し方ない苦し紛れのやりとりの産物だったのかもしれません。
 
そもそも、一言主大神は葛城の山にいたのですから、その正体は事代主命でしょう。
ところが、大和国へ遷都後、その区別が曖昧となってしまい、出雲国風土記にも「葛城の賀茂の社に阿遅須枳高日子命を祀る」と書かれたことなどから、葛城と阿遅志貴高日子根命と一言主大神が結びついたようです。

出雲国風土記が書く「葛城」は、あくまで「大和(奈良)の“新”葛城」であって、一言主大神が出現した「倭(阿波)の葛城」とは別の場所なのですから、話を結びつけること自体に無理があるのです。
 

 

続日本紀も「今検前記、不見此事」、
何の古い記録を検べても、他にこんな話は一切見えない、とはっきり書いています。
続日本紀の著者も眉唾だと思ったのでしょう。
この断り書きは著者の良心といえます。
あるいは、仮にも天皇とその先祖主之神の話に不敬があってはいけないと、予防線を張ったのかもしれません。

このようなケースは昔から現在に至るまで、民話から神社の由緒にいたるまで、どこにでも見当たることです。
後世の者が、その時代での常識に従って古くからの言い伝えを変えたり、神社名や地名(特に漢字の字面)を下にそれらしい由緒を作ったり・・・。
ところが、そのただの作り話も、数十年数百年と時間が経つと「昔からこう云われている」と後生大事に語られるわけです。
平成の現在、高鴨神社の由緒を語るときには、必ず最古の記録として、この『続日本紀』の一文を持ち出して、賀茂氏発祥の地を謳うのですが、ご覧の通り何の根拠もないデタラメです。
 
四国の古代のことを知れば簡単にわかる謎が、現代にいたっても誰にも分からない状態が続いているのです。
先に書いた『新抄格勅符抄』にも、
 
 高鴨神五十三戸、天平神護元年(765)符・土佐二十戸、
 天平神護二年(766)符・大和二戸、伊与三十戸
 
とあり、
 
大和国に高鴨神社が創建されたのが764年なのに、
その翌年(765)に、土佐高鴨神に二十戸、
そのまた翌年(766)になってようやく、大和高鴨神には、やっと二戸の封戸なのです。格が違います。
高鴨神社創建の翌年に、土佐神社に、これだけの封戸が与えられたのは、同社に対する御礼とも考えられます。つまり、
 
簡単な話、土佐神社が元社、高鴨神の本社で、高鴨神社は764年に分祀された だけなのです。
 
 
 
そこで問題となるのが、それ以前、『出雲國造神賀詞』(716)『出雲国風土記』(733)に記される葛城の賀茂の神奈備が、どこなのか?ということです。
この時代に、大和国には、まだ高鴨神社が無かったのですから。
その大和国に、阿遅須枳高日子命は既に祀られていたはずなのです。
 

 

同じ「鴨」でも、事代主命を祀る社は候補から除かれます。
この「葛木の鴨の神奈備」は、葛木坐火雷神社ではないでしょうか? これまで見たように、
 
 阿遅志貴高日子根神=火雷神=松尾神=大山咋神
 
だからです。
 
 阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ
 事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ
 
とあるように、高市御縣坐鴨事代主神社、葛木坐火雷神社、です。
 
「帰り坐す」「降り坐す」などと言うように、
移動した先に落ち着く ことを表現する手段として「坐」を使っているのです。
 
考えてみてください。
もともとその地の神であれば、なんでわざわざ神社名の頭に、○○坐□□神社、などと付ける必要がありますか。
元社と区別するために、「○○坐」と付けるのです。
 
現在の地名のルールでも同様。
たとえば、奈良に郡山という市名を付けたいとなったときに、すでに同じ地名が福島で使われていたならば、それと区別するために、“大和”郡山市、と頭にヤマトをくっつけるのと同じことです。
 
 
葛木坐火雷神社、高鴨神社、阿遅志貴高日子根神は、都の南西、山沿いで祀られています。
山城国においても、松尾神社は南西の松尾山麓に在ります。
もちろん四国を模しているのです。
 
 
(続く)
 
 
 ※ 私は、阿遅志貴高日子根神については、アジシキタカヒコネノカミ、の音が正しいと思うので、基本的にこの漢字を使いますが、文献を引用するときは、そこに書かれている字をそのまま使っています。