空と風

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全戸郷、の読み方 6

 
○ 山陰道 丹波4・丹後1・但馬2
○ 山陽道 播磨4・周防3
○ 南海道 紀伊2・阿波2・伊予4
 
 
 
①舩井郡 餘戸郷
多紀郡 餘戸郷
氷上郡 餘戸郷
④何鹿郡 餘戸郷
 
加佐郡 餘戸郷
 
今余内村是なり。大字余部存す、椋橋の西、田辺の東北にして、舞鶴湾の東岸也、大字上安に延喜式高田神社在り。
補〔余部〕加佐郡海部の義なり、・・
『大日本地名辞書』

※凡海郷
 
凡海郷。和名抄、加佐郡凡海郷訓、於布之安満。
今詳ならず、凡海とは海部の住居ならんと思はれ、延喜式に「丹後国生鮭三捧、十二隻三度、氷頭一壷、背腸一壷」と見ゆるは即此凡海氏の所貢なるべし、
本郡にして北海の鮭の泝るは由良川なれば、今の由良村神崎村などにあたるごとし、本郡又大内郷あり、大内又凡の転にして、海部の住郷なれば其名あるか
或人云今の俗由良川辺を大内と総称す、猶考ふべしと。
『大日本地名辞書』
 
 
 
城崎郡 餘戸郷
 
今湯島村井に港村の大字小島、瀬戸等なるべし。
小島に海(あま)神社の遺るを見れば、餘戸は海部の義たる事明白とす。
『大日本地名辞書』
 
※海神社 延喜式名神大社 海部直の祖・建田背命(天火明命六世孫)を祀る。
 

②美含郡 餘戸郷
 
 
①賀古郡 餘戸郷
印南郡 餘戸郷
 
今詳ならず。恐らくは風土記の六綴里にして(略)、曾根の西なる海村なり。海部の義とす。
 
③餝磨郡 餘戸郷
④揖保郡 餘戸郷
 
 
①玖珂郡 餘戸郷
佐波郡 餘戸郷
③熊毛郡 餘戸郷
 
 
紀伊

※ 海部郡 
 
阿末【按海部(ハ)修2海人部1也、尾張隱岐豐後(ニ)有2海部郡1、皆其部曲(ノ)所v居、・・
 
①海部郡 全戸郷
 
蓋し余戸は海部と同義にして訛て阿麻利とも曰へるに似たり。
此に古語海部と余戸と同訓にて余餘亦俗相通也。
『大日本地名辞書』

日高郡 全戸郷
 
【訓闕、按全戸恐(ハ)余戸之譌、余餘古文通、已見 海部郡全戸(ノ)疏證、續風土記云、印南切目(ノ)二莊、領 二十七村、盖全戸之故地也、」
 
平安期に見える郷名「和名抄」日高郡六郷の1つ「全戸」と記されているが,「余戸」であると考えられる。
(地名辞書・続風土記)
なお,当郷名は高山寺本には見えない「続風土記」によれば当郷は印南【いなみ】・切目2荘の地として現在の印南町印南・津井・印南原【いなんばら】・南谷・西ノ地・島田・羽六など町内西部に当たる一帯という。
「地理志料」「日高郡誌」も同説であるが,詳細は不明。
 
今、南海部(みなみかいふ)と曰ひ、六村に分る。(略)
白崎日御崎の間なる海村なり。
『大日本地名辞書』
 
※那賀郡 
 
賀音如v鵞【按奈鵞者、長也阿波(ノ)那賀郡、國造本紀作 長國
允恭記作 阿波(ノ)國長(ノ)邑、可 以證、
伊豆 石見(ニ)有 那鵞 賀郡、武藏 常陸 讃岐 日向 (ニ)有 那珂(ノ)郡、皆清呼、即中之義、・・
 
 
☆阿波國

①板野郡 全戸郷
 
【訓闕、按全恐(ハ)余(ノ)字、即餘戸也、當 讀云 阿未利倍、名義見v上、高山寺本不v載 此郷、阿府志云、全戸亦廢、亘 那東、那西、大寺、矢武、神宅、西分、黒谷(ノ)諸邑、盖其域也、」
 
余字を刊本全に誤る、余は餘字の俗通にして、海部郷と云ふに同じ
『大日本地名辞書』

勝浦郡 餘戸郷
 
【訓義見v上、阿波志云、小松島、一名尼子、恐(ハ)餘戸《アマゴ》之轉源平盛衰記、源(ノ)義經夜發 攝津(ノ)大物《ダイモツノ》浦、急※[舟+可]至 阿波(ノ)阿麻古、平家物語作 尼子浦
恩山寺文書同、阿府志、亘 中田《チウデン》、中(ノ)郷、小松島、大原、論田、大松、金磯(ノ)數邑、盖古(ノ)餘戸(ノ)域也、」
祀典所v載御縣(ノ)神社、在 中(ノ)郷村、稱 宮方(ノ)社、建島女祖命(ノ)神社、在 中田村 稱 竹島明神、】

平安期に見える郷名「和名抄」勝浦郡四郷の1つ。当郷名は高山寺本には見えない。
当郷は現在の小松島市小松島町・中田町付近一帯に比定される。(地名辞書・地理志料)
「地理志料」はさらに現在の徳島市大松町・論田町・大原町も比定地のうちに含めている。
 
なお中田には「延喜式神名帳に見える勝浦郡8座のうちの建島女祖命神社があるなお,中世のものと推定される国内式社記載文書(徴古雑抄1)に「余戸郷」と見える。
また江戸期の「阿波志」には「余戸小松島一名阿摩古,恐余戸転」とある。

小松島村の小松島浦、中田チウデンなどの地なるべし、中世は尼子浦と云ふ。
海人の居邑なれば也平家物語勝浦合戦の條くだりに八間尼子浦とあるは此なり、八間は名東郡八萬村を云ふ。
『大日本地名辞書』

※那賀郡 海部郷
 
加伊布【按紀伊尾張隱岐豐後(ニ)有 海部郡 、並訓 阿末、即修 海人部也、此注云 加伊布、後人(ノ)所 妄加、
 
海人(ハ)漁戸也、其(ノ)部曲(ノ)所v居、大甞祭式、有 那賀(ノ)潜女十人、貢 鰒四十五編、鰒鮨、細螺、棘甲羸、石華等七十五坩、可 以徴、後私割曰 海部郡、始見 拾芥抄、
 
元龜三年(ノ)旗下紋帳、慶長二年(ノ)蜂須賀家分限帳同、阿波志云、福井村壽永二年彌勒佛石像(ノ)識、作 海部郡、其來已(ニ)久、貞治五年(ノ)明谷寺縁起、作 海邊郡、當時向稱 阿末倍也、本朝鍛冶考、阿波氏吉、號 貝府太郎、貝府(ハ)即海部也、・・
 
今淺川村、海部浦(川西村川東村鞆奥村 宍喰村(以上海部郡)
及び甲野浦村、野根村(以上土佐国安藝郡)などなるべし。
按ふに海部は古訓阿麻(又阿麻邊)なるを、倭名抄の當時すでに字音に従ひ、加伊布と訓めり。
諸州の海部を後世海府に改むるも、此例なるべし。
『大日本地名辞書』
 
 
☆伊豫國

宇摩郡 餘戸郷
②周敷郡 餘戸郷 
久米郡 餘戸郷
伊予郡 餘戸郷
 
今詳ならず。
上灘下灘の二村にあらずや。本郡の西南なる縁、海部落なり。
『大日本地名辞書』
 
 
 

頭にも書いたように、興味を惹かれる地名は上のもの以外にも数限りなく、例えばそのひとつに、淡路国の阿萬郷などがあります。
 
土蜘蛛正統記  より

● 淡路を中心とした蜑(あま)の大部族  
 
淡路と言えば天祖伊邪那岐命の發祥地であるが、島を中心として沿岸には蜑族が充満して居つた。
  (◎国産みの第一番に「淡路島」が登場した意味は?)
 
--- 応神朝紀に、差 淡路之海人八十人 為水干
--- 允恭帝十四年、更 集処処之白水郎 以 令探赤石海底
--- 唯 悲男峽磯入海死 則 作墓厚葬 其墓猶今存之
--- 而し海人を統率するは凡海氏の世職なる事古史に明なれば、淡路国造の家系略推断すべし。
   中世にも阿萬氏當国の豪族たること平家物語太平記にて明白なり。
   殊に国分寺仏像銘暦応三年のものに大施主海氏女と記す。
     争乱の世には此の海氏海賊衆に変じ、足利幕府の時尚強項の名あり。
 
● 蜑部と余戸に就て
 
--- 上総国市原県海部郷、安芸国佐伯郡海部郷、筑前国筑紫郡海部郷、尾張国海部郡、
   紀州海草郡海部郡、淡路三原郡の阿萬郷、豊後の海部郡、隠岐国海土郡海部郷、など、
   実祭に蜑郷と見られる例。
--- 越後国岩船郡餘戸郷、但馬国城崎郡の餘戸郷、摂津国河辺郡の餘戸郷、同西成郡の餘戸郷、
   紀州日高郡の餘戸郷、阿波国板野郡の餘戸郷、---餘戸郷の例。
--- 餘戸か海部かは、そこの部民が班田に入るべき程度になつて居つたか、
   荒服の民かによつて別れた者ではないかと思う。
--- 兎に角我国漁人の大部分は私は蜑であらふと思う。

ここでは、海部と餘戸は「同じ民」で、「班田に入るべき程度になつていたかどうか」の違い、という説を展開しています。
この「程度」が「人数」なのか「民度」なのかは読み取ることができませんが。
 
 
吉田東伍は上に見るように、基本的に「餘戸」は「海部」のことであると捉えているようです。
それは日本中のあらゆる地名を研究した結果の帰結なのでしょう。
 
しかし、吉田東伍は、盲目的に餘戸は海部、と断じているわけではなく、ひとつひとつの地名に対して、文献や神社、地勢的な位置づけなど総合的に判断しています。
不詳のものは不詳と書き、アマルベと思われるものはそのように説明しています。
つまり、餘戸という郷名には、古来ずっと勘違いされてきたように、余戸(よこ)の在った場所の名なのだという由来のほか、本来的に、海人・海部(あま)人たちの住む地域であったという事実が、あまり前面に出ぬままに眠っていたと考えます。
 
また土地勘のある人が見ればわかるように、餘戸郷は海辺や海に近い地域にかなり多く見られます。
しかし、中には、内陸部、山間部にもあることから、海部説を否定的に考える人も多いのです。
これは、海人・漁民は、海辺でしか暮らさない、移住することはない、という前提で考えているからではないでしょうか?
海人・海部と書くときの「海」の漢字に縛られているとも言えます。

阿波の古代史的に見れば、ナカ・ナガの地名を持って、長の国の海人が、各地に移住したあとが見えますが、その移住先は海辺だけではありません。
比較的大きな河川をさかのぼった上流地域にも足跡を残しているのです。
今でも「川漁師」という人達がいることを忘れてはいけません。
ある程度場所が比定されている餘戸郷を地図で追うと、内陸部の餘戸郷は大きな河川の比較的近くにあることが多いのです。
餘戸郷に関しては思考停止せずに、もう一度、その位置と意味を見なおしてみる必要があるでしょう。