空と風

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式内社 建比賣神社 阿南市宝田町

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日本一社 延喜式式内社 阿波國那賀郡 建比賣神社 比定 古烏(こがらす)神社
 
鎮座地 徳島県阿南市宝田町下荒井字川原64
 
御祭神 建比賣(たけひめ)命
 
 
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現社名は異なるが、式内社建比賣神社の論社として、唯一名前の上がる神社である。
 
『阿波志』に、
 
 建比賣祠延喜式亦小祠と為す、曰く荒井下村川瀬崎小烏祠即ち是を云ふ
 
『阿府志』に、
 
 比売神社、下照姫を祭る下荒井村に在り、俗子烏明神と号す
 
とある。
 
御祭神の建比賣命については、諸説ある。
上記『阿府志』のように、下照姫とする説の他、高姫、埴安比賣(=建島女祖神)『阿波國式内社考』
また、建姫命 豊葦建姫命 高比賣 大倉比賣など。
 
徳島県神社誌』による由緒には、
 
 もと建比売神社と称していたが、多くの歳月を経るに従い、社地に古木欝葱と茂り、静かで奥深く、
不断、樹木に鴉が多く棲息していたので、村民いつとはなく古烏神社とよぶようになった。
 
 創立は幾多の災害に罹った為にその資料を失い不詳であるが、大宝二年(702)と伝えられる。
本社は延喜式神名帳登録の式内古社にして、御祭神を建比売命と称し、川原の産土神として崇められる。
 
 この神様は諸説あり定かではないが、大国主神の娘、建姫命、或いは豊葦健姫命とされ、
 いずれも女神であり、 安産の神として霊験顕著なりと伝えられる。
 
 「讃岐の白鳥、阿波の黒烏」との伝承は往年の神威の一端を示すものである
 
と書かれている。
 
 
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ご覧のように、御祭神の「建比売命」の正体については諸説あり、どう見ても後世の、一想像、根拠のない仮説も多いようである。
その中で、この建比売を、古事記に登場する「大吉備建比売」であるとする説があり、私もそれを支持するものである。
 
上記のように、この姫を大吉備建比売とは別の姫であると考えるのは、頭の「大吉備」を吉備(岡山県)地方と考えるからだろう。
記紀に記される吉備が後世の吉備とは別の地域だと分かれば、謎は解けるのである。
 
由緒にあるように、当社は「讃岐の白鳥、阿波の黒烏」と言い伝えられてきた。
もちろん、白鳥神社とは倭建命を祀る神社であり、「阿波の黒烏」たる当社の御祭神が、その妃の一人である大吉備建比売だからこその伝承だろう。

讃岐の白鳥神社は、現在立派な社殿を有する地元では有名な神社だが、これは寛文四年(1664年)に高松藩初代藩主である松平頼重公(水戸光圀の兄)が社殿修築にカを注ぎ、以後代々の藩主が崇敬したためである。
元は現社地よりも南の山中にある祠だったという。
 
讃岐には、倭建命の子である武鼓王(たけかいこのみこ)の古墳や伝説、関連する神社がある。
そういったことから、白鳥となって飛び去った倭建命の霊が最終的に讃岐の地に舞い降りたという伝説も残っているのである。
 
日本書紀景行天皇51年の条に、『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也とあり、
 
この武鼓王の母「吉備穴戸媛」(きびあなとひめ)または「吉備穴戸武媛」(きびのあなとのたけひめ)の、古事記での名が「大吉備建比売」(おほきびたけひめ)である。
 
倭建命の妃である大吉備建比売が、建比賣神社の御祭神だとすれば、「白鳥となった倭建命の霊が讃岐まで飛来した」などと曲解せずとも「地元」の話として難なく理解できるのだ。
 
上記の伝承で言えば、阿波国内では「東の白鳥、西の黒烏」という言葉も残されているのである。
 
 
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讃岐白鳥神社の由緒では、倭建命の父景行天皇の次代、成務天皇の御代に 神櫛王かみくしのみこ)=讃岐國造の祖 が上記 武鼓王に神陵を作らせたことに始まるとされている。
 
神櫛王とは、景行天皇の第17皇子。
母の名は、『紀』によれば、五十河媛(いかわひめ)、『記』では、針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおほいらつめ)とし、倭建命の兄弟に当たる。
ちなみに、「いかわ」も「はりま」も阿波の地名である。

「日本古代史とアイヌ語」というHPによれば、。「櫛」のことをアイヌ語では kiray というらしい。 そこには、
 
 阿波と讃岐に「喜来」の付く地名が40-50個程あるのです。分布は下に図示します。
ざっと、阿波に30+箇所、讃岐に10-箇所なので、
 讃岐国造と関連付けようとするには、バランスが悪いのですが、
「喜来」が和語らしくないことから「神櫛王」の古来の領地の遺称ではなかろうか、と注目しています。
 美作国風土記逸文)では「ヤマトタケルのみことが『櫛』を池に落としたので、その池を、勝間田池という。
玉かつま、とは『櫛』の古語なり」という話があり、
 かつま、は『櫛笥』のみならず『櫛』自体を表した場合・場所もあるようです。
 
と書かれている。
 
 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)

阿波の國の風土記に云はく、
勝間井の冷水。此より出づ。 勝間井と名づくる所以は、
 昔、倭健天皇命、乃ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿りき。故、名と為す。

※参考
  

この阿波国勝間井は上記のように現存し、その西隣にあるのが、三代実録(貞観3・3・6)にも記される阿波国白鳥神社である。
 
江戸時代に、讃岐白鳥神社との間に本家論争があったというが、このように、阿波国風土記、三代実録等に記載があり、状況証拠が多数存在する以上(ここに書いたものは一部)、阿波白鳥神社が讃岐の元宮と決着したのである。
ただし、社名が同じだったからたまたま元宮論争になったのであり、倭建命の子孫は数多くの姓となり今も香川に暮らしているのだから、彼らが何らかの形で倭建命を祀っていただろうことは間違いないだろう。
 
 
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両国一社 白鳥神社徳島県石井町)
 
ちなみに香川白鳥神社の一の鳥居付近の地名も「帰来」である。
 
また、景行天皇の御代に、上記神櫛王の命により穂積忍山彦根=穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)が祭祀したのが、善通寺市大麻町の式内社大麻神社」であると云われる。
 
この大麻神は阿波忌部氏が讃岐を開拓したさいに阿波から分祀したものである。
境内社の白玖祖霊社には「弟橘媛命」(おとたちばなひめ)が祀られているが、この有名な倭建命の妃の父が穂積忍山彦根なのである。
 
弟橘媛の「橘」も地名である可能性が高く、当建比賣神社南部の阿南市橘、橘湾一帯に由来していると考えられる。
 
徳島県南海岸地方と香川のつながりの一部はすでに書いているが、鷲住王なども関係しているのである。
海沿いにしかない地名「勝浦」が徳島香川の県境讃岐山脈にも存在するが、鷲住王や忌部氏の移動に伴ったものだろう。
 
「地名の一致」シリーズも書きかけだが、その中には「海部」もあり、たとえば、倭建命を祀った愛知県の「萱津神社」は、海部郡にあり、神社の別名が「阿波手の社」なのである。
 
※参考 



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