空と風

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【暴力装置】は失言か?

私は、政権政党としての民主党は全く支持しません。
若手には期待できる政治家もいるが、特にトップ3が悪い、と、こう野党時代から言っています。
もちろん、小沢、鳩山、菅のことです。
ところが政権を取ってからは、ニュースター仙谷由人が踊り出てきました。
国家の主権を曲げて中国漁船の船長を釈放し、あまつさえ、政府が介入しない地検の判断だと、その責任をなすりつけた張本人です。
 
その仙谷が今、失言問題で叩かれていますが、じつは私はこれを失言だと思いません。
仙谷が自衛隊のことを、「暴力装置以外の何者でもない」と言ったならば、侮辱だと思いますが、彼は「暴力装置でもある自衛隊」と言ったのです。
これが「表現」として、適切か否か?

 
 
暴力の独占
 
正統(合法的)な暴力の独占 とは、マックス・ヴェーバーが自著『職業としての政治』において唱えた 主権国家の定義 であり、20世紀における法哲学(法学)や政治哲学(政治学)において優勢となった。
 
一定の領域において単独の主体(国家)が暴力に関する権威・権限を行使する状態を定義したものであり、領域もまたヴェーバーによって国家の特性として定義された。
 
重要なのは、このような独占が正統のプロセスを介して生じなければならないことである。
これは、国家が暴力を使用することを正当化(正統化)するもの、と批判されることもある。

日本語における「暴力装置
 
ロシア革命を主導したウラジーミル・レーニンが自著『国家と革命』(1917)の中で警察や軍隊を指して使った用語が暴力装置」と日本語訳されているが、ヴェーバーは、レーニンが革命によって打倒されるべき対象・プロレタリアートにとって必要な存在として「暴力装置」を位置付けたのに対し、国家によって正統性を伴って独占(統制)されるべき対象として「暴力…装置」を位置付けた(1919)。
 
この「暴力装置」という用語は、現代の政治学社会学においても国家の物理的強制機能を指す用語として広く使用されている。
 
2009年03月30日に開催された民間のシンポジウムにて、当時の自民党公明党政権における現職の農林水産大臣であった石破茂、「国家の定義というのは、警察と軍隊という暴力装置を合法的に所有するというのが国家の1つの定義」と述べた。
また石破は、遡ること2006年に清谷信一との共著で出版された『軍事を知らずして平和を語るな』においても、以下のように述べていた。
 
国家という存在は、国の独立や社会の秩序を守るために、暴力装置を合法的に独占・所有しています。それが国家のひとつの定義だろうと。暴力装置というのは、すなわち軍隊と警察です。日本では自衛隊と警察、それに海上保安庁も含まれます。」
 
2010年11月18日に開催された参議院予算委員会にて、当時の民主党政権における現職の内閣官房長官であった仙谷由人は、「暴力装置でもある自衛隊」と述べたが、自民党などからの猛抗議を受け、「実力組織と言い換える。自衛隊の皆さんには謝罪する」と撤回して謝罪した。
また、仙谷は、2005年10月03日に早稲田大学大隈塾にて講演した際、「憲法自衛隊が存在することの根拠を書」くべき、との文脈で以下のように述べた。
 
「私の感覚では、良いか悪いかは別として自衛隊の存在を国民の8割くらいが認めているのではないでしょうか。確かに暴力装置としての大変な実力部隊が存在し、法的に言えば自衛隊法や防衛庁設置法でもって定めているのです。それならば、これが違憲の法律だと言わないのならば、憲法自衛隊が存在することの根拠を書かないというのは、憲法論としても法律論としても如何なものかというのが本当は論点の核心にならなければいけない。しかしながらそれは殆ど素通りをして、憲法の文言を変えて自衛隊憲法上の存在とすることによって軍国主義化するとか、そうでないとか、戦争をすることになるか否かという議論ばかりが現在まで延々と続けられてきた。衆議院憲法調査会を5年間やりましたけれども、そういう両極端の議論を100回繰り返しても物事は何も進まないと私も随分発言しましたけれども、それがまだまだ主流になってこない。」

以上(Wikipedia)から、一部文章を省略して引用

 
仙谷由人の「暴力装置」という言葉にいち早く反応したのは、その場にいた野党議員たち。
そしてそれを問題発言と報道したマスコミ。
問題だと認識した国民。
 
それまでは比較的政治の世界では一般的だったこの表現が問題だと認識されたのには、今現在の民主党と仙谷官房長官に対する不信感が募っていたからです。
仙谷もそのことを肌で感じていたから、あえて反論せず即座に謝罪した。
反論も可能だったが、騒ぎを大きくさせるのは必定だからです。
 
しかし、軍事オタクの石破茂が彼の好きな自衛隊を「暴力装置」と表現すると、むしろ知的な感じさえするのに対し、サヨクが同じ言葉を使ったときだけ「失言だ」と責めるのでは筋が通りません。
 
 
では、この言葉のどこが引っかかるのでしょう?
自衛隊の持つ武力を「暴力」、その組織を「装置」と表現することに対する違和感・反感でしょう。
自衛隊員」を「暴力装置」というのはけしからん、と怒る人はいますが、「人」を「装置」と言ったのではなく、組織を表現しているのだからこの批判は当たりません。
 
仙谷が反論するならば、これまでこの言葉がどのように使われてきたか、そして「暴力装置でもある」というなら他に自衛隊がどんな意味を持つ組織なのかうまく説明すればいいのですが、それだと一気に改憲論まで話が及ぶ。
民主党官房長官としては避けたい話の展開だったのでしょう。
 
これはクライシスマネジメントの一種で、ここで彼が見事な反論をして見せれば、「敵ながらあっぱれ」という評価を得られてでしょう。
が、事実はその逆で、即座に謝罪したことでさらに追い打ちを受けるハメになりました。
 
そもそも、国家の所有する武力のことを「暴力」と呼ぶことが適切かどうかは議論すべきでしょうが、まずはどういう意味でこの言葉を使っているのか?「暴力」という言葉の定義次第ということになります。
 
「暴力」という言葉にもともと悪いイメージがあり、他社に対する実力行使のうち「悪」に基づくものという感覚が「暴」という字に感じられることが話をややこしくします。
政治学者や政治家の一部が、国家が所有する正当・合法な実力行使=武力のことを「暴力」という記号で表現してきた事実がある以上、単純に仙谷を責めるわけにはいきません。

 
もう10年くらい前、武道関係の掲示板である論争がありました。
トピ主は「武道というのは暴力の技術を学ぶこと」と提言し、複数の武道家から総反論されていたのです。
 
私は参加しませんでしたが、論理的にはトピ主の言い分に分があると思いました。
そして「議論がかみ合っていないのは【暴力】の定義がお互いに違うからである。まずそれを一致させないで結論が出るわけがない」とだけ、書いておきましたが、熱くなっている反論派には私の言葉が理解出来ない様でした。
トピ主は、そういう反論を予測した上で、わざと刺激的な言葉を使いディベートを楽しんでいるようにも見えました。
トピ主は武道の「本質」を議論したかったのに対し、反論派は暴力という言葉に感情的になって「武道から学ぶのはそんなものではない」と論点のずれた反論を繰り返すのみでした。
 
私に言わせれば、武道の技など暴力の技術に決まっている。
しかし、それを追求することによって、それが「術」にもなり、「道」にもなる。
そこに価値が生まれるということだと思っています。
だから、あとからそこに「礼」が生まれたりするのです。
 
日本刀は人を切る道具ですが、それを見事に造ることを追求することで「技術」が生まれ、「道」が生まれ、名刀が生まれ、完成した刀は美術品にさえ昇華します。
最初から飾り物を作る気で日本刀を造る刀鍛冶はいないでしょうし、そうやってできたものが名刀になるわけもないのです。

 
そういうわけで、仙谷由人には、中国漁船事件関連の対応の責任をとって辞めてもらうのが当然と思いますが、暴力装置発言が失言には当たらないことを述べさせていただきます。

なお、この私の意見には、様々な反論があると思いますが、個別の事案については答えを差し控えさせていただきます。