空と風

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鳥の一族 14 天孫降臨

 
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9月30日の「たかじんのそこまで言って委員会」で、竹田恒泰氏が所功氏と女性宮家について議論されました。
番組を見ていない方は、検索をかけると、そのやり取りの一部始終が分かりますから、ご覧になって下さい。
 
ネットで批判する人も多いようですが、私は所氏を好意的に見ています。
他の女系天皇容認論者とは違います。
所氏は「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という皇室典範第一条を「大事」としながらも、皇室の存続を守るためには究極的には女系天皇もやむなしと考えているようです。
 
問題は「男系」というものに対する考え方が決定的に甘い点です。
簡単に言えば、皇位が男系で継承されなければ、それはもう「天皇」ではないのです。
したがって、天皇が途絶えますので、その家族も「天皇家」ではなくなります。
つまり、天皇家を存続させるために女系天皇を認めるということは、全くの本末転倒なのです。
仮にそうなって、天皇という称号が残っても、それは「名前だけの存在」なのです。
 
所氏がそう考える根拠は、天皇家の「皇祖」が、女神・天照大御神であるから、というものです。
 
本質的には、実は日本の皇室は神武天皇を初代とすると言いますけれども、
当然皇室にはその前の歴史があったわけで、神話の世界をどう読むかによりますけれども、
皇祖神を天照大神が女神に仰いでおるという事実を考えますと、
男系か女系とか男子とか女子よりも皇室のご祖先であることが大事なんで、
ご祖先のご子息が継いでおられる。
 
これに対する、竹田氏の
 
皇祖神が天照大神であるという根拠は何ですか?
 
との反論に、
 
古事記であれ日本書紀であれ要するに・・・

具体的に言いますと、伊勢神宮天照大神を皇祖神として祀ってるんですよ。
 
と、所氏が答えます。(これも否定される)
 
竹田氏が訊いている「皇祖」の「根拠」とは、その言葉の定義です。
明治天皇の名で宣布された教育勅語には「皇祖皇宗」(こうそこうそう)という言葉が使われているが、
この「皇祖」とは神武天皇のことであり「皇宗」は歴代天皇を指す。

つまり、神話・神学を法律の中に持ち込まないという配慮から近代日本は法治国家としてスタートしているのであるから、天照大御神を皇祖とする前提で皇室典範を論ずるのは間違いであるという指摘です。
 
所氏は学者ながら、一般人のイメージに近い捉え方で記紀を読んでおり、天照大御神を皇祖と断ずるのですが、竹田氏は「記紀にそのような記述はない」と否定します。
 

さて、このブログで見てきたように、その記紀のいわゆる神話時代についても、よくよく見れば、実はずっと男系を堅持してきたことがわかります。
 
まず、古事記ですが、ここには天照大御神が女神だとはどこにも書いていません。

私たちは、子供向けの絵本からはじまり、あらゆるシーンで女神としての天照大御神がイメージとして刷り込まれていますから、先入観で読んでしまいますが、古事記は実は天照大御神男神として書いているのです。
 
古事記において、天照大御神が女神だとされるのは、須佐之男命が高天原に登ってきた時に
 
 解、御髮 纏、御美豆羅 
 御髮(みかみ)を解き、御美豆羅(みみづら)に纏く
 
とあるのをもって、女性の髪を解き男性の髪型に結直す、と解釈されるに過ぎません。

「御髮」が「女性の髪」という根拠がどこにあるのでしょうか?
その後の様子から見ても、たんに「気合を入れて戦闘用の髪を結った」とも取れるのではありませんか?
 
また、須佐之男命の狼藉物語で、忌服屋に天の斑馬を逆剥ぎにして堕し入れるシーンでも、日本書紀では、天照大御神自身が神衣を織っていたと記しますが、古事記では、天照大御神は、天衣織女とは別にその場にいたことになっています。
機織りは女性の仕事だからです。
 
このように、意図的に古事記は、天照大御神を女神と読ませないように配慮して書かれているのです。

だからこそ、古事記では須佐之男命との誓約で化生した「男子」を天照大御神の子としているのです。
女神の子では「男系」にならない(夫が王位継承権を持つ場合以外)からです。
 
一方、天照大御神を女神と明記している日本書紀では、大御神の子を女子、須佐之男命の子を男子とし、その男子を天照大御神が引き取り、自らの子として王位を継承させるという種明かしをしています。
 
つまり、記紀ともに「王位は高天原の時代から徹底的に男系を貫いていた」ことが読み取れるのです。
 

ところで、誰が名付けたか「天孫降臨」という言葉があります。

この「天孫」(あめみま)とは邇邇芸命のことですが、天孫の一般的イメージは「王位継承者」です。
新撰姓氏録』でも、「神別・天孫」は、天照大神の子孫、「神別・天神」は、高天原の神の子孫としています。
 
古事記では、藝速日命が「聞天神御子天降坐。故追參降來」と、神武天皇を「天降り坐す天神の御子」と表現します。
日本書紀では、長髄彦が「嘗有天神之子 乘天磐船 自天降止 號曰櫛玉饒速日命」と、饒速日命を「天神の子」と呼び、「夫天神之子 豈有 兩種(ふたはしら)乎?」(天つ神の子がどうして二人いようか)と神武天皇に詰め寄ります。

それに答えた天皇は「天神の子は多(さわ)にあり」と、互いに所持する天羽々矢を見せ合って納得させた、とあります。
 
記紀では、邇邇芸命と同じ王位継承者である神武天皇を「天神の子」と表現し、「天孫」と区別していますが、その「天神之子」とは、「王位継承者」という限定された意味ではなく、「王位継承権を持つ男性」であることが、藝速日命のエピソードで分かります。
 

では、「天孫」を「天神之子」と同等の広義に解釈した場合、最も最初に「天孫降臨」したのは誰でしょうか?
 
もちろん、須佐之男命 です。
 
「王位継承権を持つ男性」が天降ったのは、邇邇芸命が最初ではないという認識を持たなければいけません。
 
 
(続く)