空と風

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倭建命と讃留王 ①

 
香川には、当地が桃太郎伝説の舞台であるという伝承があり、桃太郎のモデルとなったのは、孝霊天皇の皇子「稚武彦命」(吉備津彦命)と云われています。
異母兄と姉に、四道将軍の一人「彦五十狭芹彦命」(大吉備津彦命)と、倭迹迹日百襲媛命がおり、ともに香川の式内社で祀られていることは既に紹介したとおりです。

その痕跡として、「鬼無町」や「猿王」の地名が上がることがあり、「猿王」の信号機の下を通ったときにも「ああ、ここか」と思っていたものでした。
しかし、地図を見ればわかるように、「猿王」の隣の地名表記は「讃留王」となっています。
この「讃留王」とは、何なのでしょうか?
 
 
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倭建命(やまとたけるのみこと)は、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父。
 
日本書紀』では日本武尊、 『古事記』では,、倭男具那命、倭建命。
尾張国風土記』と『古語拾遺』では日本武命。
常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』では倭健天皇命。
 
漢字の使い方としては、古事記常陸国風土記阿波国風土記が正しいのです。
このブログの「不思議の徳島」を読んでくれているような方には解説する必要もありませんが、たまたま初めて新着記事で目にするような方もいらっしゃると思いますので、一応書いておくと、倭国と大倭(大和国)は別の国であって、倭国これすなわち阿波国なのです。
「倭」を「日本」とする表記は、原本ではなく後世の写本の際の「書き換え」でしょう。

倭建命は、東国制圧からの帰還途中、力尽きて亡くなりますが、通説では当然、大和(奈良)に戻る途中の話とした上で、三重の地で亡くなり、白鳥となって飛び去ったと記紀に記されています。
 
通説では倭建命が関係するはずもない阿波国風土記において、上記のように天皇と称され、その逸話と舞台、御陵と云われる神社が阿波に現存するわけですが、その白鳥神社から分祀された同名の神社が真北の讃岐国にもあります。
 
さて、倭建命の妃の一人に「吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)」がおり、その皇子(あえて皇子と書きます)が、
 
 武卵王(たけかいこのみこ)   -  讃岐綾君・宮道君の祖。
 十城別王(とおきわけのみこ)  -  伊予別君の祖。
 
です。
通説では、古代の「吉備国」を岡山地方と考えているので(古代の吉備も阿波の海岸地方。「仁徳天皇は讃岐の天皇」参照)、岡山の姫との間に生まれた皇子が海を渡って、香川と愛媛に住んだと考えるようです。
 
また、倭建命の弟に当たる神櫛皇子(かむくしのみこ)は、讃岐公(讃岐国造)・酒部公の祖となっています。
 
 
 ※武卵王
 
(たけかいこのみこ)は、(たけかいこおう)とも読まれ、それがさらに短縮され(たけかいこう)とも呼ばれているようです。
 
武卵王には、讃岐の悪魚退治伝説が残っていて、その後、讃岐国に永住し「讃留霊王」(さるれおう・さるれお)と称されたと云います。
 
これが最初に書いた地名「讃留王」のことであり、「猿王」とは、阿波国において「天帯」(あまたらし)を「雨降」と書いたり、「大人」(うし)を「牛」と書いたりしたごとく、土人之を知らず、の類なのです。

 
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この溜池のほとりに、讃留霊王の墓 がある
 
 
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讃留霊王御陵 と彫られた石碑
 
 
香川県に伝わる讃留霊王伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王が勅命を受け、瀬戸内の悪魚退治のために讃岐入りし、その後その地に留まって、仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去(こうきょ)したとされています。
この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこと、西讃では武卵王のこととされています。
そこでもう少しこの「讃留霊王伝説」を見てみましょう。
 
本居宣長の『古事記伝』に、讃留霊王についての伝説が記されています。
 
讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり。
それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて、記せるは、
 
景行二十三年、南海の悪しき魚の大なるが住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て、討ち平らげ賜ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に、讃留霊王と申し奉る。
 
それを綾氏和気氏等の祖なりと云ことを記したり。
或いは此を景行天皇御子神櫛王なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。
讃岐の国主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えたれば、武卵王にてもあらむか。
 
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事ども記せる物に云へり。
 
今思ふに、讃岐の国造の始めならば、神櫛王なるべし。
然れども倭建命の御子と云、又綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり。
さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあらむ。讃留霊と書くは、後人の当てたる文字なるべし。

 
本居宣長も、讃留霊王の正体について、はっきりとは分からないと書いています。
また、「讃留霊王」の「讃留」とは「讃岐」に「留まった」という意味だが、「霊王」の「霊」についても分からないといいます。
しかし、讃留霊記ほか、関連古書を見ると、15歳の武殻王を「霊子」と記してあり、幼名であったのかもしれません。
 
 
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石碑の脇に真新しい道標が
 
 
讃留霊王祠とは、鵜足郡とあることからも、丸亀市飯山町の「讃留霊王神社」のことで間違いないでしょう。
 
※ 讃留霊王神社 
 
 御祭神 建貝児王 またの名(武殻王・武卵王・武皷王・武養蚕命・
 多祁比古王命・武明王・竹材子命)
 鎮座地 香川県丸亀市(元綾歌郡飯山町下法軍寺
 御神体は、背後の前方後円墳(讃留霊王古墳)とされています。
 
※『新撰姓氏録考証』によれば、建貝児王のまたの名前として上記の他、「讃留王」と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった、としています。

 由緒 (一部略)
 
この丘は、讃岐の代表的伝説の1つである、悪魚退治のヒロイン武殻王墳墓の地であり、王を祀る讃留霊王神社の鎮まります丘である。
 
景行天皇の御代南海に悪魚現れ船をのみ南海諸国の年貢を略奪するなど、暴虐の限りなく官兵を派すも悉く亡ぼされた。
天皇は、皇子日本武尊に討伐を命ず。
尊は、その子十五歳の勇士霊子を推す。霊子尊を奉し南海に赴き謀を秘めて悪魚に対う。
悪魚その軍船を一呑にするも、動せず火をもて腹の中を焼き、肉を割き、悪魚の屍にまたがり福江の浦に漂着す。
時に一童子現れその捧ぐる霊水により毒気に倒れた軍兵皆蘇生、生す。
 
この伝説を史家曰く、日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。
霊子長して武殻王は、この功により、この国を賜り、民に養蚕の術を教え給いしか。
 
仲哀天皇の入年9月15日齢百二十五歳て薨せられ、居館を望む景勝のこの丘に葬り奉る。
南海の民廟を立て永く讃岐に留り給いしを祝き讃留霊王大明神と称え奉る。
 

養蚕の術を教え とありますが、建貝児王の別表記の一つが 「武養蚕命」です。
古代の神名、人名において、「武」は武勇に優れた方の名前の頭につくのが通例ですから、建貝児王の場合、「かいこ」の王、が本名と言えます。
 
古代において、養蚕 といえば、阿波忌部です。
遠くは茨城県にまで、「当地に養蚕をもたらしたのは、阿波忌部」との伝承が残っています。
 
 
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途中から道もなくなる。前方に見える林の中に讃留霊王御陵は在る。
 
 
讃留霊王伝説は、
 
 『讃岐大日記』(1652)
 『南海通記』の「讃留霊記」(1718)
 『讃留霊公胤記』(1735)
 『三大物語』(1768)
 『全讃史』の「霊王記」(1828)
 『西讃府史』(1858)
 
その他、複数の文献に残っています。

この伝説に関しては、文献、神社、古墳、地名、子孫とされる人名、がはっきりと残っていることから、香川県内においても、古代史ファン、研究家、学者など多くの方が記したものをネット上で見ることができます。
それらの中から、この伝説をもう少し詳しく書いてみます。
 
※ 『讃岐大日記』  口語訳 桂孝二

景行天皇の二十有三年、一の大魚有り。
其の大きさ嶋巒の如し。
其の去来電の如くして、西海に周流し、四国を匝廻す。
以て波瀾を動かし、船舶を沈す。
且つ好みて人肉を食ふこと切なり。
故に旅客の往来、貢物の運送已に絶す。
 
天子之を愁ひ、官士を以て之を殺さんと欲す。
然るに悪魚船翼を砕き、官士を亡す。
 
天子驚駭して、小碓皇子(日本武尊と号す)に勅して曰く「速やかに西海に至り、悪魚を殺し、泰平の思いを為さしむべし」
小碓答へて曰く「我凡子にして英雄の士にあらず。霊子(時に齢十五歳)を召して之に命ずべし」
 
天皇之を喜び、霊子をして西方四国に入らしめ、国吏に命じて、嶋々浦々に兵士を置きて、悪魚の有無を見る。
或は土国の南海に来たり、或は阿国の鳴門に来たる。
然れ雖も波狂い風烈くして、舟行すること能はず。
唯茫然として霊子土国に居す。
明くる年三月一日、悪魚讃岐の椎の途に来たる。
霊子、之を聞く、而して四月三日此の国に至り、工を集めて船を作り、一千余の士を率ゐて、五月五日悪魚に向かふ。
 
悪魚口を開きて船を呑む。
霊子・官士魚胎に入りて、暑きこと火の如し。
官士酔ひ伏して、皆尸の如し。
霊子、独り心正く身健なり。
而して剣を以て魚肉を切り破り、五日に及んで天日を見る。

是に由りて悪魚死す。
而して讃の福江の浦に寄る。
 
是に於て神童一人瓶水を持ち、来て霊子に奉る。
霊子之を呑むに心潔し。
神童に問ひて曰く「此の水何処にか在る」
答へて曰く「安場の水是なり」
霊子、之を汲みて、官士の口に入るに、悉く皆蘇生す。
 
又邑人集ひ来て、魚屍を切分す。
而る後に霊子、官士を率ゐて鵜足津の邑に入る。
時に五月十有五日なり。
神童は横汐明神なり。
天の王道を守るに依り、神力を加ふること見つべきなり。
悪魚の一霊福江の浦に残り、人民を困むること年尚し。
後に一箇の伽藍を建て、魚の御堂と号すと今に至るまで泯へざりき。
 
霊子都城に帰らずして、讃地に留まる。
故に讃留霊公と名づけ奉る。
後に城を香西の邑に築き、当国の司と為る。
哀帝の八年九月十有五日、齢百二十五にして薨す。


   (続く)