氣比神宮 敦賀市 (Wikipedia) |
以前も書いたように、阿波古代史は奥が深すぎ、情報量が多すぎて、本を一度や二度読んだくらいでは、到底細部まで頭に入りません。
自分で調べたり考えたりして、仮説を立てたつもりが、以前読んだ本を読み返すと、既に指摘されていたというようなことが度々起こるのです。
で、古事記に記される「都奴賀」を探してみました。
ここでは「高志」の地名や、古代の地形、「御食津大神」の地であること、前後のストーリーや登場人物との一致性(まだ一部しか書いていませんが)などから考察して、都奴賀とは古代阿波の吉野川河口である、北岸の板野、または南岸の石井付近、と書いてみたのですが、昨日、何気なく『記・紀の説話は阿波に実在した』をぱらぱらとめくっていて驚きました。
ここでは「高志」の地名や、古代の地形、「御食津大神」の地であること、前後のストーリーや登場人物との一致性(まだ一部しか書いていませんが)などから考察して、都奴賀とは古代阿波の吉野川河口である、北岸の板野、または南岸の石井付近、と書いてみたのですが、昨日、何気なく『記・紀の説話は阿波に実在した』をぱらぱらとめくっていて驚きました。
何とこの板野郡に「気比神社」があるというのです。
幸 角鹿。即 興行宮 而居之。是|謂笥飯宮。
角鹿に行き、行宮(かりみや)を建て彼の地に逗留した。これを笥飯(けひ)宮という。
気比神社は、まさに「高志の前(さき)」に位置します。
南には、気比神社の御祭神「仲哀天皇」の父、倭建命の「白鳥陵」が在ります。
『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)、文武天皇の勅命により社殿を修造するとあります。
阿波説を知る者にとっては、「ほぉ~」という感じがするのではないでしょうか。
阿波からの遷都に伴い、この宮も移されたのでしょう。
となると、ますます歴史隠しの強い意志を感じます。
阿波説を知る者にとっては、「ほぉ~」という感じがするのではないでしょうか。
阿波からの遷都に伴い、この宮も移されたのでしょう。
となると、ますます歴史隠しの強い意志を感じます。