空と風

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倭建命と讃留王 ②

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文献において細部は異なるが大筋は同じです。
ただし、たとえば、『南海通記』本「讃留霊記」では、悪魚退治に赴いたのは倭建命御自身となっています。

 
景行天皇の二十三年、西の海に舟呑む大魚有り。
其が形は鰕魚の如くにして、其の大きさ嶋崖の如くなり。
 
常に土佐の南海に住めるが、阿波の鳴門、讃岐の椎の門、及伊予の水崎に往き来ひ、西州より船舸往還する所を覘ひつつ、波濤を動し舟楫覆して、人物を食むこと劇なりき。
 
 (中略)
 
是に於て小碓尊に詔り曰く「西の海に悪魚有りて、数く旅客の舟を悩乱す、子行きて之を攘りて、以て世民の安寧を為すべし」
尊答へて曰く「吾大魚を水中に猟ることを察らず。然れども吾は反命に忍びず。故に先に往きて大魚の形勢を視ひ、以て其の変動に従ふべきか」
 
天皇之を喜び、即ち命を授けたまふ。
尊、命を受け、二十四年春正月一日、西海に赴き、数十日を経て、吉備の穴の海に到りて大魚の消息を検察ふ。
 
大魚讃岐の椎の門に棲みて、王船の動静を覘ひ、将に以て却りて之を呑まんとす。
尊、挍討の処に有りて、舟を翅けて之を遁去す。
是に於て艨艟を造り、鋒刃を設け、火攻めのものを具へ之に対ふ。
大魚南の海に入りて、其の拠る所を知らず。
故に讃州の宰吏に命せて、遠候を海濱に置きて、其の去来を望ましむ。
 
尊、暫し此に止まり、吉備武彦の女吉備の穴戸武媛を妃して、王子を胎姓しむ。
 
秋八月、大魚阿波の鳴門に来て、災害を為す。
然るに秋天風烈れば、舟行くことを得ず。
是に於て年を踰ゆる。
二十五年季春三月一日、大魚讃岐椎の門に来たり。
 
 (この後、倭建命が悪魚退治を成し遂げ、天皇にその旨報告します)
 
尊、使价を馳せ、以て天皇に告ぐ。
天皇、其の勲を感づること深し。
 
是に於て吉備の穴戸武媛に生ましむ王子、是れ武殻王なり。
即ち讃岐に止めて、之に其の地を守らしむ。
故に讃留王と曰ふ。
 
其の官士六十三人、亦福江山に登りて、各嫩松を携へ、一人ごとに一株を樹ゑしめて、後世の証と為せり。
故れ其の遠裔、植松を以て姓と為し、又其の船長を祝ひて、楫取の大明神と曰ふ。
亦大魚の尸を集め、白沙に埋め、木を植て之の証と為せり。
後の人魚霊堂を建つ。
彼此の名実、今に至るまで泯へざりき。
仲哀天皇の八年秋九月十五日、讃留王薨す。
56寿一百二十五歳なり。
 
倭建命が悪魚退治のあとで、その御子である武殻王を讃岐に残して治めさせた、となっています。
その母が「吉備穴戸武媛」(きびのあなとのたけひめ)。
 
『南海通記』は、1718年に書かれた本です。
それでまでの伝記伝承を参考に書いたと思われますが、その時代から見ても、この話は遠い遠い昔話です。
また、当然その時代の地理的常識を頭に書いたはずです。
何が言いたいかというと、『南海通記』の著者も「吉備」を瀬戸内海を北に隔てた岡山地方と認識していたはずです。
 
ところが、それは普通に考えておかしいではありませんか?
悪魚は、上のように、高知、徳島、香川、愛媛の沿岸、四国を東部を中心に、コの字型 に出現しています。
 
その悪魚の居場所を探り、退治しようとするのに、なんで瀬戸内の北側に陣取るんですか?
古文献を探ると、このように吉備の位置に関して矛盾が出てくるので、古代の吉備国とは瀬戸内を挟んで香川の一部も含む、などという苦しい解釈が出てくるわけです。
 
この出現パターンなら、誰が考えても、その中心地、四国東岸の海辺に陣取るのが常道でしょう。
 
ここまで読んで、思い出してくれた方もいるでしょうか?
その阿波国、阿南地方に、ある式内社が在ります。
 
 
阿波国の式内「建比賣神社」(古烏神社)の御祭神「建比賣(たけひめ)命」の正体について、諸説ある中で、私は「大吉備建比売」(吉備穴戸武媛)説を支持していたわけですが、その御子、武殻王が讃岐の国にくっきりと足跡を残しているわけです。
それだけではありません。
 
 木烏(こがらす)神社 仲多度郡本島村大字本島字甲松ヶ浦(現丸亀市
 御祭神 讃留霊王
  
「木烏」と「古烏」神社。 字が違えども同じ(こがらす)神社。
 
讃岐の「こがらす神社」が讃留霊王(武殻王)を祀るなら、阿波の「こがらす神社」が祀る「たけひめ」とは、その母の「大吉備建比売」と考えるのが自然でしょう。
このように、倭建命の時代の「吉備」とは、阿波の阿南市を中心とした海岸地方、そこで命の妃となったのが、式内建比賣神社の御祭神、当地の「吉備穴戸武媛」です。
 
 
また、退治に活躍した船の船長を、「楫取の大明神」と呼んで祀ったとありますが、 楫取(かんどり) とは、今も徳島の川漁師が使う船のことで、古代、安房(千葉)に上陸した阿波忌部が、当地で拝祀した、楫取(かんどり)神社が、館山市相浜に在ります。
この点から見ても、悪魚退治に乗り出したのは、阿波国人だったのです。
 
 
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また、『西讃府史』では、天皇に派遣され後に讃留王と称されたのは、「神櫛王」と記します。
 
天皇驚駭して、急に彼の魚を捕り殺さんと欲す。
即ち神櫛王に詔して、大伴健日・吉備武彦の二将を副ひて、土佐の国に発遣す。
王、諸国に命じて、悪魚の所在を問索す。
時に阿波の国の鳴門に在り。
 
 (中略)
 
是に於て健日・武彦の二将をして京に還らせて慶を告げしむ。
時に王京に還らずして、讃岐の国に留まる。
故に国人讃留王と称す。

 
 
神櫛王は、倭建命の異母弟 『紀』 に当たります。
母方祖父が、桃太郎のモデルと云われる稚武彦命です。
 
神櫛王は讃岐の国造の祖とされており、その子孫は、三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾、高松、山田、等を名乗っています。
同族には、阿波脚咋、宇陀酒部、凡、木国酒部、酒部、讃岐、紗抜大押、星、益甲、和気、などの氏族があります。
 
香川では比較的ポピュラーなこの名字群。 う~ん。何人もの顔が思い浮かびますね。
あの人達はみな、景行天皇の子孫だったんですね。
 
さらに『讃陽綱目』では、讃留王が倭建命の双子の兄「大碓命」であると記します。
 
讃留霊公と称へ奉るは、人皇十二代景行天皇の皇子大碓命なり。
大碓命小碓命、同胞双生の皇子なり。
則ち大碓命は西狄を征罰し、小碓命は東夷を征罰す。

 
 
本居宣長が迷ったのも、このように文献によって、讃留霊王の正体が変わるからです。
しかしながら、みな倭建命を中心に見ると、本人、またその兄、または弟、または御子であって、伝承過程で変わったものの、その近しい関係の中の人物であることには間違いありません。
 
 
香川「白鳥神社」HPの由緒には、
 
成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる。
(武皷王の陵墓は綾歌郡に、神櫛王の陵墓は木田郡牟礼町にあり)
 
とあり、武皷王を(タケミカツチ)王と書いているのも驚きですが、武皷王と神櫛王は、それぞれ別の地に陵墓があることがわかります。
綾歌郡の陵墓というのが、私が参った「讃留霊王の墓」か、「讃留霊王神社」のことであるのは間違いないので、そこからみれば、やはり讃留霊王とは、武皷王のことではないかと思われます。
 

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善通寺市大麻町に、阿波忌部が阿波国から分祀した「大麻神社」がありますが、神櫛皇子命の命により、穂積忍山彦根が祭祀を担当したという記録があります。
この穂積忍山彦根=穂積忍山宿禰(物部系)は、倭建命の妃の一人、弟橘姫の父です。
系図では、 
 
饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富祢命(大禰命)-出石心大臣命-大綜杵命-鬱色雄命(伊香色雄命)-大水口宿禰命-建忍山宿禰弟橘媛 
 
 
 

また、まんのう町の「天川神社」由緒によれば、
 
社傳によれば、天川御嶽山に座す神輿台産霊命は、往古天より降臨ます所なり。
これを神場之谷と云ふ。神斎場、醸酒嬢の義なり。
 
景行天皇の皇子神櫛王三世の孫須賣保禮命國造となり此の神を祭る。
時に手置帆負命の裔をして長尾郷に来らしめ大峡小峡の木を伐りて御殿を造らしめ又神祭の物を奉らしむ云々。
 
是より先、日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。
王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。
 
武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。
是亦此の神を祭りて醸酒饗饌の儀典あり。今その地傳へて古老の口碑にあり。
爾後裔孫相次で崇敬す。
黒麿の遠裔那珂湊に居る者黒麿公をこの祠に配祀し社殿を造り崇敬怠らず云々、と云へり。
 
又、文化四年の天川神社旧記によれば、従五位下天川大明神、所祭神三座、興登魂命、妙見星神、坂部黒麿、
社傳の古記曰當社は人皇四十五代聖武天皇天平二庚午九月十九日興登魂命此地に降臨ありて鎮座し玉ふ神境也
其の時讃岐の国造の始祖神櫛王遠裔益甲黒麿と言ふ者あり
那珂郡神野郷に住す。同天平十九年丁亥三月十五日庭前に天上より一つの星落ちて忽然として少女となる。
黒麿曰く、吾に嗣なし、幸に興給ふなりと厚く撫育し、名を善女と呼ぶ。
成長の後此の女能く酒を醸りぬ。酒甘美にしてくむとも、つきることなく、かつ病を治して寿域に至らしむ。
四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。
帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。
 
と、あります。
 
 
武殻王四世の裔、綾眞玉の子、「酒部黒麿」は、流石、先祖の血を引く者。
上記リンク先のように、讃留霊王よろしく、怪物を退治しています。
やはり、讃留霊王は、武殻王という気がします。
 
 
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天川神社
 
この酒部黒麿は、「那珂郡神野郷」に住す、と書かれていますが、「那珂」郡のルーツが阿波国の「那賀」郡、「長の国」にあることは検証済みです。

その、那珂郡垂水村字行時(現在の郡家町)に「垂水神社」が鎮座します。 御祭神は武殻王です。
 
 垂水神社(香川県神社誌)
 
景行天皇57年(787)6月20日、武貝兒王の創立する所と傳ふ。
一説に阿刀大足の勧請とも云う。
 
往古は、太留水神社、又垂水社と称へられ、降つて五社大明神と奉称せられたり。
 
社伝によれば、讃岐国は東西二十里許にて南北五六里より廣からず、阿波、讃岐境に高山ありて川の流れ早く、まれに大水あれど1日のうちに流れつくす。
川々乾きて流水少なく旱損のみ多く、高き山(大川)深き淵(とうとうが淵)に雨を祈れり。
 
景行天皇二十三年、武貝兒王国造となりて下り給ひ、大魚を亡して那珂郡三宅の里(郡家)に政を行ひ旱害に心を摧き給ひけるに、当村に大なる松林ありて中に3本の大木枝葉茂りて枝々の葉より水を滴すを見給ひ、ここに闇罔象闇尾神を坐しまさむとて、社を建て、三女神及び闇罔象闇神を合せ祭り、たる水の社と名づけ祈り給ふ。
これより五風十雨豊年打續けり。
 
その後代々の帝は旱の年に、大和山城津の国の水徳の神を祈雨の社とせしが、讃岐たる水の社の水徳を聞召し給へど海を隔てたるの故を以て、津の国須磨の西まで勅使をたてられ、そこより遙にたる水の社を祈りけり。
後その所へ社を建て摂津国多留水村垂水神社とて八十五座のうちとなれり。
稱徳天皇の御代群村の名を二字と定められ、垂水村と名づけたり。

 
なんと、武殻王が、闇罔象闇尾神(罔象女神・みつはのめのかみ、のこと)を祀るために社を建て、三女神(田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命)を合祀し、太留水社(たるみのやしろ)と名づけ、それが「垂水」の地名になったと記しています。
 
そればかりか、摂津国多留水村垂水神社は、この神社の分社だというのです。
分祀されたとは書いていませんが、話の流れからみるとそういうことになります。
でなければ、名前だけを香川の神社から分けていただいたということになります。
 
これは、大阪府吹田市垂水町にある式内社名神大社)垂水神社のことなのです。
もちろん、あちらではそんなことは一言も云っていません。
 
地名や神社の移しは、阿波からだけでなく、讃岐からもあったことがよくわかります。
そもそも、この「大阪」も「吹田」も阿波の地名。「垂水」は讃岐の地名、というのですから、通説を疑わない人もそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。