先に書いた、武内宿禰が登場します。
珍彦すなわち、大麻比古=猿田彦=事代主の妹、山下影日売の子であり、葛城氏の祖、葛城襲津彦の父です。
(武内宿禰は5代の天皇に使え、年齢も280歳~360歳と諸説あり、つまり「一人ではない」可能性が高いのですが今回は触れません)
(武内宿禰は5代の天皇に使え、年齢も280歳~360歳と諸説あり、つまり「一人ではない」可能性が高いのですが今回は触れません)
御食津(みけつ)大神と号す。故、今に気比(けひの)大神とは謂ふ。
と、書いています。
この都奴賀の物語は、食物の神、御食津大神の座ます地の物語であり、リンクしたように阿波の気比大明神は、まさに板野郡にあり、しかも岡上神社の南方約3Kmに位置するのです。
つまり、物語に登場する伊奢沙和気の大神=御食津大神こそが、ウカ(ウケ)の神、岡上神社の御祭神と考えられます。
香用比売※(鹿江比賣神社)
||
|| || ┗ 宇迦之御魂神(岡上神社)
八上比売※(鹿江比賣神社)
大国主命は神大市比売の子であるとか、大年神=大国主命である、という説もありますが、この系図からもそれが連想できると思います。
地名、立地、系図から総合的に見て、大麻比古命(大麻比古神社)ー 由布津主命(宇志比古神社)と考えると、鹿江比賣神社の存在も含めて、板野郡四座の神々の鎮座には、大国主命が天日鷲命であると考えたときに初めて意味が現れることになります。
地名、立地、系図から総合的に見て、大麻比古命(大麻比古神社)ー 由布津主命(宇志比古神社)と考えると、鹿江比賣神社の存在も含めて、板野郡四座の神々の鎮座には、大国主命が天日鷲命であると考えたときに初めて意味が現れることになります。
正確な順番はわかりませんが、古事記を参考にすると、大穴牟遅は、まず県南海岸部にいたようです。
そこで、初代豊玉姫(神屋楯比売?)と結婚し、サルタヒコ、後のウズヒコ、後世事代主命と呼ばれる子をもうけました。
そこで、初代豊玉姫(神屋楯比売?)と結婚し、サルタヒコ、後のウズヒコ、後世事代主命と呼ばれる子をもうけました。
次に、稲羽の八上比売を得ようとします。
古代、徳島市は海底でしたから、この矢上(藍住町)一帯は、巨大な徳島湾の北岸に位置し、おそらくこの良港を支配していた族長の娘が八上比売でしょう。
その証拠が、当地の日本最古の前方後円墳を含む数多くの古墳群です。
その証拠が、当地の日本最古の前方後円墳を含む数多くの古墳群です。
古代において最大の経済力を持つのは、ほとんど交易によるもので、中でも朝鮮半島、半島経由の中国との交易が最大のものです。
この場所は、考古学的にも、たとえば九州を介さずに、朝鮮半島との独自の交易を持っていたことが指摘されています。
またこの地域は、後世も含めて大陸からの渡来人が多かったことがはっきりしており、また日本最古の仏教伝来の地でもあります。
大和(奈良)よりも先に、少なくとも同時期に大和地方とは別ルートで、阿波に仏教が伝来しており、阿波倭説など知るはずもない『徳島県史』も、その痕跡にしきりに首をひねっています。
この場所は、考古学的にも、たとえば九州を介さずに、朝鮮半島との独自の交易を持っていたことが指摘されています。
またこの地域は、後世も含めて大陸からの渡来人が多かったことがはっきりしており、また日本最古の仏教伝来の地でもあります。
大和(奈良)よりも先に、少なくとも同時期に大和地方とは別ルートで、阿波に仏教が伝来しており、阿波倭説など知るはずもない『徳島県史』も、その痕跡にしきりに首をひねっています。
大穴牟遅は多妻家で有名ですが、単なる女好きではなく、多分に政略結婚の色合いが強いのです。
八上比売が実力者の娘である証拠に、彼女の家は側近を使者として送り込み求婚者をスパイさせています。
これが、稲羽の素兎で、彼の言葉通りに八上比売は大穴牟遅を夫に選んでいます。
もちろん、ウサギとかワニというのは、神話として面白く書いただけのことで、金鵄、八咫烏などと同じように、人間を動物名で表しているだけです。
ワニに関しては、日本にワニがいるわけがないからワニザメだとか言われていますが、これは後に和邇(わに)氏と呼ばれる人たちの先祖のことでしょう。
先に書いたように、和邇氏は孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命の後裔です。
孝昭天皇が日本のどこで式内社に祀られていますか?
ワニに関しては、日本にワニがいるわけがないからワニザメだとか言われていますが、これは後に和邇(わに)氏と呼ばれる人たちの先祖のことでしょう。
先に書いたように、和邇氏は孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命の後裔です。
孝昭天皇が日本のどこで式内社に祀られていますか?
順序は逆転しますが、この後、八千矛神(大穴牟遅)は、上に書いた高志の沼河比売に求婚します。
この高志は、矢上の西、古代の徳島湾に流れ込む吉野川の河口北岸に当たります。
つまり、海上交通の交差点にあたり、沼河比売の父も相当の力を持っていたと考えられます。
この時の様子は「徳島の方言」に書きました。
「葦原中国」とは、一般に「あしはら(の)なか(つ)くに」と読まれますが、「葦原」は「豊葦原の瑞穂の国」「豊葦原中国」と記されるように、もちろん形容詞で、国名は「中国」(なかのくに)なのです。
後に「長国」と書かれた阿波の国のことで、阿波と長に分かれる以前は、そのほとんどが長国の範囲であったことがわかります。
だから、吉野川北岸の地名までが「長」「那賀」だったのです。本来の訓みは共に「ナカ」です。
後に「長国」と書かれた阿波の国のことで、阿波と長に分かれる以前は、そのほとんどが長国の範囲であったことがわかります。
だから、吉野川北岸の地名までが「長」「那賀」だったのです。本来の訓みは共に「ナカ」です。
大穴牟遅の行動は、政略結婚あり、戦ありで、戦国大名の国盗り合戦のようなものです。
「根の国」を「あの世」だとかいう馬鹿げた解釈がありますが、もちろんそうではありません。
○○別 ○○根別
と呼んでいます。
これは「別国」(わけのくに)で、分国のことなのです。
「根の国」とは「根別」の「根」国、と同じで、「元の国」という意味です。
「根の国」とは「根別」の「根」国、と同じで、「元の国」という意味です。
これが古代の美馬郡(美馬・三好)のことで、本来の「倭」の国です。
すでに、なみがしらさんが指摘しているように、この逸話で出雲と倭の位置が導かれます。
又其の神の嫡后(おほきさき)須勢理毘売命、甚(いた)く嫉妬(うはなりねたみ)為(し)たまひき。
故、其の日子遅(ひこぢ)の神和備弖(わびて)、出雲より倭国に上り坐(ま)さむとして・・・
つまり、「高志」(※和名抄に記される高足郷)は、少なくとも「出雲」の一部であり、そこから上った所が「倭国」であると。
通説では、北陸での求婚話に怒った大后の機嫌を取るために、島根から奈良へ向かうという理由のわからない話しになります。
我々は、後世の感覚で「上り」とは国家の首都、古代では都へ向かうことと思い込み、この記述も同様のイメージで読んでしまいますが、この時代、日本という国家は当然誕生していないどころか、神武天皇もまだ生まれていません。
この時代の「上る」とは、「山を上る」か、「川を上る」です。
ここから分かるのは、「根の国」と「倭の国」が同じ地域だったということで、後にこの「倭國」は天皇の国という意味で東四国一帯を指す言葉として使われますから、「倭へ上る」という表現が現代に至るまで「都に上る」という意味で使われるようになったと言えます。
大穴牟遅が、根の国で、須勢理毘売を娶った時、その父須佐乃男命は、大穴牟遅にこう言いました。
其汝所持之生大刀、生弓矢以而、汝庶兄弟者追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、
意禮爲大國主神、亦爲宇都志國主〔玉〕神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、
於宇迦能山之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理於高天原、氷椽多迦斯理而居、是奴也。
汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河瀬に追い払いて、
おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘売を嫡妻として、
宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴。
爲大國主神。 大穴牟遅に向かって「お前が大國主に為れ」と言っているのです。
この時点で、すでに大国主は別にいたのです。
そして、宇迦(うか)の山の麓に住め、と言っています。
この「宇迦の山の麓」は、ここまで見てきた状況から「岡上神社の鎮座地」付近と考えられ、
A:宇志比古神社
B:大麻比古神社 (鹿江比賣神社)
C:三津
D:矢上
E:岡上神社
F:葦稲葉神社 (鹿江比賣神社)
G:高志
H:気比神社
I :多祁御奈刀弥神社
古代の海岸線