空と風

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阿波国風土記とは

 
岩利大閑氏は、『道は阿波より始まる』の中で、私のような馬鹿にもよくわかるように、何故『風土記』が古代史の解明に重要な役割を持つのか、極めて論理的な解説をしています。
 

~また、それと時期をほぼ同じくして、諸国より選定された風土記といわれるもの(現在の県史の如きもの)がわが国の歴史を記した最古の文献なのです。
 
『磯上乃古事記』では、わが国の天地初発の時より記されているのは当然ですが、諸国風土記のうち、同じく天地初発より記された風土記は、阿波風土記を除いてはありません。
 
~この当時、『磯上乃古事記』が選定されたすぐ翌年に、諸国に命じ、それぞれの風土記を作らせた記録が出てきます。 (中略)
 
これらの古風土記も偽りごとや、頼りないことごとは書かれていないのが常識でしょう。
と同時に、古事記に記された舞台になった神々の国、天皇と贈り名された大王達の宮殿、また、登場する多くの姫神達の住居、逸話のあった国々では、恐らく誇らしげに書き立てるのが当然と考えられます。
 
この類の書は昔も今も変わりません。少しでも自分の故里をもち上げ、事実でないことでも、さもそのように書くのが通例です。
高天原天孫降臨があろうのもならそれこそたいへん、御国自慢もいいとこ、威張り散らして故里の県史を作ったに違いありません。
 
そこで、現存する古風土記、新風土記、また諸分状で引用された逸文も含めて、検べていくことにしましょう。
勿論、文献のみではありません。諸先輩以来私も含め、何十年をかけ、ここに述べられる国々の実地調査、祀られる神々、寺々、伝承、それぞれの土地の風俗、習慣を確かめるため、自ら足で歩き回り、調査をしてあります。
 
 
つまり、古事記の神々・登場人物・物語などと一致する伝承を持つ風土記があれば、その地こそが古事記の真の舞台であることが明白になる、というわけです。
この後、岩利大閑氏は、各風土記について、これらの面からの考察を進めます。
 

~「豊後風土記」「肥前国風土記」ですが、(中略) 勿論、神々の話など一切記されておりません。 (中略)
当然のこと、国名(日向)さえ景行天皇に初めてつけてもらったと誇らしげに記しているこの地方が『磯上乃古事記』の天孫降臨の地、「日向の高千穂」とは違うことを風土記は正直に述べています。
当時この地方の人々は、当地が日本発生に関わりあるなど、一切述べておりません。

~「播磨国風土記」はどうでしょうか。(中略)
この地方は『磯上乃古事記』の舞台に関わりのある地方を位置づけしています。但し、天孫の地であった記述は一度もありません。

~次いで、現存風土記のうち、完全な形で残り、最も古い語り口で物語を伝えているといわれる「出雲風土記」を問題にしてみます。
 
この項は、下を参照。
 
 

~さて、風土記として残された諸国内では、高天原といわれる地方が、また、記述が一かけらも出ていないことが分かってきました。
それでは、私たちに一番関係のある「阿波風土記」はどうなっているのでしょうか。
 
「阿波風土記」は現存しないということになっています。馬鹿馬鹿しい話です。
 
明治の初年まで阿波藩にも所有し、徳川家にも所有ありしことが明白な「阿波風土記」が、明治五年小杉榲邨(すぎおみ)先生が「阿波古風土記考証」を出版した時点で、日本国内から姿を消してしまいました。
 
勿論先生の「阿波古風土記考証」も同じような運命の下、現在に至るまでまぼろしの本となっています。
しかしながら、この「阿波風土記」は、国内いずれかの機関に現存していると、私は確信を持っています。

~徳川一門の藩主に幽閉された小杉榲邨、王政復古なるや、直ちに明治五年に県庁の吏員(りいん)を勤める身ながら「阿波古風土記考証」なる著書を著します。
 
勿論ながら「阿波風土記」の内容は、「大日本史」「古事記伝」の内容を吹きとばすことになります。
ところが、明治新政府が、政府の基礎を固めるためにも明治天皇を神の如き存在にする必要もあったと思われますが、干渉してきました。
この「阿波古風土記考証」「阿波風土記」とともに現在に至るも行方不明・・・
 

岩利大閑氏は他の箇所でこれを「阿波風土記名蹟考」とも書いており、この書の正確なタイトルは不明だったのではないか?とも考えられます。

何故ならば、この幻の本は、出版される前に封印されたのか?、出版後、回収され発禁処分になったのか?さえ分からない、つまり一切の詳細が不明なのです。
 
今回発見されたものは、この岩利大閑氏言うところの「阿波古風土記考証」と、何らかの関係性があるのでしょうか?
 
なぜならは、この『阿波国風土記』制作の総指揮を取っていたのが、誰あろう小杉榲邨なのです。
 
その詳細を次に書きます。
 
    (続く)