空と風

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風土記とは何か?

 
緊急報告! 幻の『阿波国風土記』出現す!!
 
100年の眠りから、今、『阿波国風土記』がよみがえる!!
 
こういった、タイトルを考えていました。
結論から言いましょう。
今回発見した『阿波国風土記』は、本物ではありませんでした。
ここで言う「本物」とは何か?
古事記』編纂の翌年、713年に勅命により献上された『古風土記』、およびその写本“そのもの”のことです。

風土記とは地誌の元祖でもあるので、後世、現代にいたるまで出版される地誌のタイトルに「○○風土記」と名付けられることがあります。
では、今回発見された風土記は、そういった類の他愛もないものでしょうか?
いいえ、違います。
 
とんでもないものが出てきました。

それでは、順を追って説明します。
まず、風土記とは何か? 阿波風土記とはどのようなものか?
予備知識のない方のために、簡単に解説しておきます。
 

風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。
元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。
続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。
ただし、この時点では風土記という名称は用いられていない。記すべき内容として、
 
 1 郡郷の名(好字を用いて)
 2 産物
 3 土地の肥沃の状態
 4 地名の起源
 5 伝えられている旧聞異事
 
が挙げられている。
完全に現存するものはないが、『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。
 
その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。
ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。~         (Wikipedia
 

阿波国風土記』は、岩利大閑氏によれば、明治初期まで現存したとされていますが、現在まで行方不明です。
これまでに確認されている逸文は主に五節。

① 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
 
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

② 中湖 萬葉集註釋 卷第二)
 
 中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
 阿波國風土記ニ見エタリ。

③ 奈佐浦 萬葉集註釋 卷第三)
 
阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

④ アマノモト山 萬葉集註釋 卷第三)
 
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、
ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、
ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

⑤ 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
 
阿波の國の風土記に云はく、
勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
 

上の(Wikipedia)解説文にあるように、風土記とは、天皇に献上させた「官撰の地誌」なのです。
天皇の勅命で、それぞれの地方の特徴や歴史を書け、と言われたのです。
 
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?

①は、崇神天皇、仁德天皇宣化天皇 の称号です。
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。

⑤は、倭健(やまとたける)命の伝説です。この「勝間井」は現存します。
倭健命は各地をまたに掛けて活躍していますが、阿波に寄ったという歴史は、通説ではないということになっています。
もちろん事実はその正反対で、命の生まれ育ったのが阿波なのですが、解説は省略します。
阿波国風土記では、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)と記され、常陸国風土記とともに「天皇」と称されています。
しかも「天皇」は本来「すめらみこと」と呼ばれ、「天皇」よりも「天皇命」のほうが書き方として正確と指摘する学者さえいます。

④は、阿波の郷土史家が、阿波が日本の本つ国であるという根拠として多用する一節です。
各国風土記のうち、天地初発より記された風土記阿波国風土記のみ、という主張の根拠のひとつとなっています。
しかもその内容は、
「天」より「降り下りたる大きなる山」が阿波の「元山」で、
「ソノ山ノクダケテ」、「大和國に降り着きたる」、のが「天の香具山」
だというのです。
これをもって「大和国」は「阿波の分国」と解釈します。

但し、研究者によっては異論もあります。大和国成立の時代は、風土記が記された時代よりも後なので、本来の原文には「大和国」ではなく「倭国」と記されていたはずだというのです。

これはもっともな指摘で、平成の現在でも混同されていますが、その混同は千年も前からのことと考えられ、写本の際に書き換えられた可能性は非常に高いと言えるでしょう。
 
大和国」は、仙覚律師の解釈で書き変えられた可能性があります。
倭国」が阿波であるということが分からず、「香具山」は「奈良の山」という固定観念があれば、頭を捻るしかないからです。

そもそも、仙覚は万葉集でも歌われる有名な「香具山」を調べようとして「大和國風土記」を見るのですが、そこに香具山は登場せず、他の風土記を当たって「阿波國ノ風土記」に行きつくのです。
詳細は省略しますが、「倭」も「カグ山」も阿波のことなのです。

この一節に関係する逸文は、伊予國風土記にも見えます。

天山 (釋日本紀 卷七)
 
伊予の國の風土記に曰はく、
伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。

この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。
 
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要があります。

また、『神代紀口訣』に、
風土記にいわく、天の上に山あり、分れて地に堕ちき。 一片は伊予の国の天山と為り、一片は大和の国の香山と為りき。
という記述があります。
ただし、この「風土記」を「大和国風土記」と解釈する説、上記の「伊予國風土記逸文のこと、と解釈する説の両方があります。
 
また、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』のなかに、
 
 阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、
 大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う
 
という逸文があると紹介されています。
 

ちなみに、讚岐國風土記逸文は一節
 
阿波島 (萬葉集註釋 卷第三)
 
讚岐の國。屋島。北に去ること百歩ばかりに島あり。名を阿波島と曰ふト云ヘリ。
 

伊予國風土記の他の逸文には、
 
御嶋 (釋日本紀 卷第六)
 
伊予の國の風土記に曰はく、乎知(をち)の郡。御嶋。
坐す神の御名は大山積の神、一名(またのな)は和多志の大神なり。
是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顯れましき。
此神、百濟の國より度り來まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。

神功皇后御歌 (萬葉集註釋 卷第五)
 
橘の島にし居れば河遠み曝さで縫ひし吾が下衣。此の歌、伊予の國の風土記の如くは、息長足日女命(おきながたらしひめ)の御歌なり。

斉明天皇御歌 (萬葉集註釋 卷第三)
 
伊予の國の風土記には、後の岡本の天皇の御歌に曰はく、みぎたづに泊(は)てて見れば。云々。
 

土佐國風土記逸文には、
 
玉嶋 (釋日本紀 卷第十)
 
土左の國の風土記に曰はく、吾川の郡。玉嶋。或る説(つたへ)に曰へらく、神功皇后、國巡りましし時、御船泊てき。
皇后(おほきさき)、嶋に下りて磯際に休息(いこ)ひまし、一つの白き石を得たまひき。團(まろ)きこと鶏卵(とりのこ)の如し。
皇后、御掌(みたなぞこ)に安(お)きたまふに、光明(ひかり)四もに出(さしい)でき。
皇后、大く喜びて左右(もとこびと)に詔りたまひしく、「是は海神(わたつみ)の賜へる白眞珠(しらまたま)なり」とのりたまひき。
故、嶋の名と為す。云々。

土左高賀茂神社 (釋日本紀 卷第十二・十五)
 
土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。其の神のみ名を一言主と為す。
其のみ祖(おや)は詳かならず。
一説(あるつたへ)に曰へらく、大穴六道尊(おほなむぢのみこと)のみ子、味鉏高彦根尊(あぢすきたかひこねのみこと)なりといへり。

朝倉神社 (釋日本紀 卷第十四)
 
土左の國の風土記に曰はく、左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽(あまつはは)の神なり。
天石帆別(あまのいはほわけ)の神、天石門別(あまのいはとわけ)の神のみ子なり。

神河 萬葉集註釋 卷第一)
 
土左の國の風土記に曰はく、神河(みわがは)。三輪川と訓(よ)む。源は北の山の中より出でて、伊與の國に届(いた)る。水淸し。
故、大神の為に酒醸(か)むに、此の河の水を用ゐる。故、河の名と為す。

長くなるので解説は今後にしますが、阿波説を知るものにはぞくぞくする内容が並びます。
 

   (続く)