天岩戸別神社に参ろうと下調べをしましたが、検索してもいま一つ場所がよくわかりませんでした。
そこでここに詳しく案内します。
このような場所のこのような神社へ行こうとするような方は、よほど古代に興味があるか信仰心の強い方だと思われるからです。
そこでここに詳しく案内します。
このような場所のこのような神社へ行こうとするような方は、よほど古代に興味があるか信仰心の強い方だと思われるからです。
二又を右に進むとまた右側に案内板があり、左に鳥居が建っています。
これを鋭角に曲がり道幅の狭い険しい道を登ります。
途中、「前方行き止まり」と書かれた二又を左に進み、かなり高い位置まで登って「道を間違えたんじゃないか?」と、いいかげん不安になったころ第3の案内板が現れます。
これを鋭角に曲がり道幅の狭い険しい道を登ります。
途中、「前方行き止まり」と書かれた二又を左に進み、かなり高い位置まで登って「道を間違えたんじゃないか?」と、いいかげん不安になったころ第3の案内板が現れます。
阿波古事記研究会があちこちの神社に建てている案内板が目印です。
主道からそれて脇道(ここまでの道が充分脇道のレベルだが)を進むと行き止まりになり、そこから歩きます。
目の前に物置代わりの?スクールバス、その向こうに屋根が見え、それが神社かと思い近づきますが、普通の空き家でした。
その家の横をさらに上ると斜面の上に拝殿が見えてきます。
主道からそれて脇道(ここまでの道が充分脇道のレベルだが)を進むと行き止まりになり、そこから歩きます。
目の前に物置代わりの?スクールバス、その向こうに屋根が見え、それが神社かと思い近づきますが、普通の空き家でした。
その家の横をさらに上ると斜面の上に拝殿が見えてきます。
自然石を積み上げた急な石段が正面につけられていますが、その左右から緩い脇道で上がることもできます。
ネットの写真で見た様子よりは手入れがなされ、拝殿前のコンクリートの階段も新しくなっていました。
さらに上に奥の院があります。
そのまた上に磐坐があるらしいのですが見落としました。
個人的感想では、今までお参りした神社で最も魅力を感じました。
神社というよりも宮、この場所に住まわれていたという感じを強く受けます。
盛り上がった地形の奥の院が手刀雄神の古墳でしょうか?
さらに上に奥の院があります。
そのまた上に磐坐があるらしいのですが見落としました。
個人的感想では、今までお参りした神社で最も魅力を感じました。
神社というよりも宮、この場所に住まわれていたという感じを強く受けます。
盛り上がった地形の奥の院が手刀雄神の古墳でしょうか?
『出雲国風土記』意宇郡の条の、いわゆる「国引説話」の書き出しに
八雲立出雲國者 「狭布之推國」 在哉
と書かれており、一般にその部分は
出雲の國は 「狭幅の麻の布地をおおいに押し広げてつくった国」 だ
と解説されています。
※『道は阿波より始まる』より
須佐之男命を祖神、最高神としてたたえています。
今まで、多くの学者が出雲神話の地と考えているのですが、 出雲風土記に須佐之男命がいずれの郷の話にも出てこない のを非常に不思議がっています。
これは当然の話なのです。(中略)
今まで、多くの学者が出雲神話の地と考えているのですが、 出雲風土記に須佐之男命がいずれの郷の話にも出てこない のを非常に不思議がっています。
これは当然の話なのです。(中略)
「古事記」天照大神と須佐之男命の物語の中に、天菩比命の子建比良鳥命が、この新出雲国の国造りの祖であると、はっきり記されています。
須佐之男命の孫が国祖と明記された新出雲国に、須佐之男命の物語がないのは当然 のことなのです。
須佐之男命の孫が国祖と明記された新出雲国に、須佐之男命の物語がないのは当然 のことなのです。
『出雲風土記』の初めに、「八雲立出雲國者狭布之推國在哉」と述べられている通り、 狭布之國 と呼ばれる根国(元の国)があったのがわかります。
狭布之 推 國は狭布之 根 國と相対され述べられた国名で、狭布之國によって新しく開かれた植民地という意味なのです。
この狭布之國云々は、阿波風土記の伝承を知る者以外なんのことかも分からないと思います。(中略)
狭布之 推 國は狭布之 根 國と相対され述べられた国名で、狭布之國によって新しく開かれた植民地という意味なのです。
この狭布之國云々は、阿波風土記の伝承を知る者以外なんのことかも分からないと思います。(中略)
ここで 「狭布之國」 について記して置きます。
『磯上乃古事記』天孫降臨のころに「手力男命坐佐那縣」と述べられたこの地、この地中央に横たわり、頂上天嶺より神山、つるき山に通じ、分かれて勝浦にも通ずる交通の要にもなっている山を 府能山 と云い、この府能山字大人小屋(うしこや)に 手力男命 の陵があり、下って 三松 の嶺に 美間津比古天皇 の陵があり、古墳多くある所、
『磯上乃古事記』天孫降臨のころに「手力男命坐佐那縣」と述べられたこの地、この地中央に横たわり、頂上天嶺より神山、つるき山に通じ、分かれて勝浦にも通ずる交通の要にもなっている山を 府能山 と云い、この府能山字大人小屋(うしこや)に 手力男命 の陵があり、下って 三松 の嶺に 美間津比古天皇 の陵があり、古墳多くある所、
縣(あがた)が一国として名のった時の国名は 狭府能国 、後 大日孁命 初めてこの地に 狭田、長田 の水田を開きしにより 狭那県 (さなのあがた)と呼ばれるようになっています。
妻は「櫛 名田 比売」。
須賀の東側に「 名田 河」の地名があります。
須賀の東側に「 名田 河」の地名があります。
この地の姫ゆえに、その名に「名田」の字が使われているのでしょう。
古代の神名、天皇の御名には阿波の地名が使われていることが多く、しかも物語のストーリーと位置関係が一致します。
上の、「 三松 の嶺」の「 美間津 比古天皇」も一例です。
古代の神名、天皇の御名には阿波の地名が使われていることが多く、しかも物語のストーリーと位置関係が一致します。
上の、「 三松 の嶺」の「 美間津 比古天皇」も一例です。
『道は阿波より始まる』に、須佐之男命の孫「建比良鳥命」が出雲国の国造の祖なのだから、出雲国風土記に須佐之男命が登場しないのは当然、と書かれていますが、固定観念を持っている人には意味が分からないと思います。
「人が移動しない」と思い込んでいる人です。
「人が移動しない」と思い込んでいる人です。
建比良鳥命が出雲国造の祖なのだから、その祖父須佐之男命も島根の出雲に住んでいたはず、という思い込みです。
同じような間違いはどこにでもあり、たとえば、邇藝速日命も現在の大阪府東部である河内国の人物と思われています。
同じような間違いはどこにでもあり、たとえば、邇藝速日命も現在の大阪府東部である河内国の人物と思われています。
千葉や茨城のように「阿波から来た忌部が当国を開拓した」という記録・伝承が残っていればルーツが分かるのですが、そういったものがなければ、天富命や天日鷲命は関東の神で、従ってその祖である天太玉命も関東人と言われていたことでしょう。
もちろん、関東各地の神社名・神名・地名に 「阿波」 「安房」 「粟」 「淡」、天日鷲命の「 鷲 」の字を残していることから、そのルーツが一目瞭然なのですが、出雲や河内の場合、その地名自体がもともと阿波国内のものだったという認識がないため現状のようなことになるのです。
もちろん、関東各地の神社名・神名・地名に 「阿波」 「安房」 「粟」 「淡」、天日鷲命の「 鷲 」の字を残していることから、そのルーツが一目瞭然なのですが、出雲や河内の場合、その地名自体がもともと阿波国内のものだったという認識がないため現状のようなことになるのです。
須佐之男命が須賀の宮で詠まれた有名な歌
原文は
「夜久毛多都 伊豆毛 夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」
です。
「阿波」から出発した忌部氏が、上陸した千葉県の一部を「安房」と名付けたように、「伊豆毛」を出発した建比良鳥命は島根の地を「出雲」と名付けたのでしょう。
後世に書かれた古事記文中でも既に地名表記が混乱しているのです。
ちなみに、出雲は一般的に「いずも」と思われていますが、歴史的仮名遣では「いづも」が正しいのです。
「い」は、徳島県の主に中央山間部、「いつ」は、その東部のことで、「いつのも」が「いづも」と思われます。
徳島県東南部の海岸地方です。
後世に書かれた古事記文中でも既に地名表記が混乱しているのです。
ちなみに、出雲は一般的に「いずも」と思われていますが、歴史的仮名遣では「いづも」が正しいのです。
「い」は、徳島県の主に中央山間部、「いつ」は、その東部のことで、「いつのも」が「いづも」と思われます。
徳島県東南部の海岸地方です。
当社の奥に磐坐があることを書きましたが、 奈良 の香具山にある「 天岩戸神社 」にも同形のものがあるそうです。
「石見の国三宮にして創立年代不詳なるも 阿波忌部族 が第十五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請と伝えられ~」と書かれています。
この両社の鎮座する地名はなんと、石見國 那賀 郡 です。
ぞくぞくしてきますね。
地名の一致~島根県編はまだ書いていないので、そのうちアップします。
拝殿の横に、ビニールのごみとお供えと思われますがワンカップの割れた瓶が捨ててあったので持ち帰り、備え付けの箒で拝殿前の階段を掃き掃除しておきました。
こんなところにゴミ捨てるんじゃないよ。
(▼0▼)/~~see you again!