『阿波國風土記編輯雜纂』ですが、私が見る限り、古風土記そのものの逸文はないように思います。
このあと一部写真を載せますが、行書、草書が多く、読めない部分がかなりあるのですが、それでもところどころ読める単語から察してそう感じます。
漢文体の古風土記らしき文章も見当たりません。
このあと一部写真を載せますが、行書、草書が多く、読めない部分がかなりあるのですが、それでもところどころ読める単語から察してそう感じます。
漢文体の古風土記らしき文章も見当たりません。
この『阿波國風土記編輯雜纂』は、読んで字のごとく、完成された書物ではありません。
前回書いたように、
ために、計画途中で立ち消えになった「明治版・阿波國風土記」を作るための「原稿」のような段階のものでした。
逆にいえば、つまり、この世で一冊の存在と思われます。
途中原稿、といっても印刷枚数で400枚以上の分量です。
元本のページ数だと2倍になります。
徳島の各図書館はもちろん、国立国会図書館にもありません。
全国の図書館も、ネットで一斉検索できる範囲ではヒットしません。
と疑っていますが、それは確認しようがありません。
疑問は次々生まれます。
これらの疑問は、マスコミや学者の取材に期待したいのですが、徳島県立図書館も徳島新聞も、ぐーたらさんのブログを見てもわかるように、この件を屁とも思っていないようです。
対応した人間が事務的に処理しただけでしょうが、博物館学芸員や各新聞担当記者もこのことを知ってどう動くでしょうか?
対応した人間が事務的に処理しただけでしょうが、博物館学芸員や各新聞担当記者もこのことを知ってどう動くでしょうか?
古風土記らしき「文章」が見当たらないと書きましたが、もちろん、まだそう判明したわけではありません。
この『阿波國風土記編輯雜纂』には、記紀をはじめ、古語拾遺その他様々な古文献からの引用が多く記されています。
ほとんどの場合、その引用元として文献名が記されています。
この『阿波國風土記編輯雜纂』には、記紀をはじめ、古語拾遺その他様々な古文献からの引用が多く記されています。
ほとんどの場合、その引用元として文献名が記されています。
ところが、今まで聞いたこともないような話が引用元も記さないまま、さらっと書いてあったりします。
発見者のぐーたらさんは、新たな風土記を作るのだから(古)風土記からの伝承については、同様の断りをいちいち入れないのではないか?と、指摘しますが、その可能性も十分あるでしょう。
一例を記します。
ネット検索しているときに、Yahoo!知恵袋に次のような質問を見つけました。
質問者は、南北朝時代の何らかの資料に、「阿州 ○嶋 小橋村」という記載を見つけ、それがどこのことなのかを調べたが、『徳島県史』や『阿波志』には書かれていなかった、というのです。
この疑問に対する回答も得られないまま、質問は終了しています。
当ブログにも書きましたが、http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/49304211.html
これまでいろいろ調べた中で、「天村雲命」と「小椅」を結びつける情報はこれだけでした。
下に『阿波國風土記編輯雜纂』のあるページを載せます。私も驚きました。
何と、「天村雲命」の別名のひとつが「小橋命」で、天村雲神社の所在地名を「雲宮」といい、その西側の地名が「小橋」であると記されています。
(ただし、神名の情報の出所は『神?国史』と書かれています)
式内社・天村雲神伊自波夜比賣神社の論社は二社あり、その一社「牟羅久毛神社」の所在地のすぐ横に「雲宮」の地名が今もそのままあります。
ということは、そのすぐ西隣り、山川町西麓~山川町祇園当たりに「小橋」の地名があったのでしょう。
「阿州 ○嶋 小橋村」の「○嶋」は、そのすぐ北の「宮島」か、東隣の「川島」と考えられます。
宮島も小橋と同じ字名なので、郷名であるところの川島の可能性が高いでしょう。
さて、天村雲命が小椅之君であることが明白になってきたということは、重要な意味を持ちます。
同じ『国造本紀』では、天日鷲命は天村雲命の孫、と記されています。
このあたりの人間関係は文献により差がありますが、肝心なことは、神武天皇の進軍には忌部が深く関わっていたという事実です。
古事記では、物語をドラマチックにするために、偶然、速吸門で珍彦に出会ったという逸話になっていますが、実際は全て天村雲命による御膳立て。
待っていたのも声をかけたのも自分の一族。
海筋をよく知る珍彦に、速吸門(鳴門)で神武軍を待つように命じ、予定通りにそこで合流した、という真実の物語が浮かび上がってきます。
その神武天皇の妃まで天村雲命の近親者です。
次は上記の謎に対する私の仮説など書いてみようと思います。
(続く)