小杉榲邨の『徴古雑抄』は図書館に行けば見ることができますが、あまりの分厚さに(いずれ時間のある時にじっくり見よう)と考えていました。
ぐーたらさんのブログにあるように、複数の人物の様々な筆跡による文章の寄せ集め、余白の書き込み、原稿の上に2枚3枚と張り合わせた補足文など、まさに編集過程の資料そのままの様相です。
上記文面では、『阿波國續(続)風土記編輯御用掛』となっています。
1冊成る、と記されている点から見て、これは、『 阿波國風土記編輯雜纂 』とは別物で、しかも刊行されたことがはっきりと分かります。
※ 明治政府の修史事業
※ 大日本史
※は(Wikipedia)
内容によっては、当然政府が干渉するでしょう。
発言・発表の自由が保証された現代とは違うのです。
ましてや、書いたのは小杉榲邨ほどの人物です。
ましてや、書いたのは小杉榲邨ほどの人物です。
2年後には、中央に呼ばれ要職を歴任します。
修史館設立の翌年には、専務として招かれています。
修史館設立の翌年には、専務として招かれています。
『道は阿波より始まる』によれば、小杉榲邨は自説を封印しながらも、古里の同志のために、職責を利用して知り得た情報を伝達していたそうです。
それが自分の使命であり、他の者にはなし得ない仕事だと自覚したのでしょう。
『徴古雑抄』の前書きにその様子が書かれています。
『阿波國風土記編輯雜纂』には、小杉榲邨の師である池辺真榛直筆の論文も収録されています。
池辺真榛は、「日本の本つ国は阿波である」と発言し、徳島藩に幽閉され獄中死したと云われています。
中央に招かれたとき、持っていったものでしょう。
私は、小杉榲邨が「いつか時が来たら(自由に発表できる時代が来たら)この資料と古風土記を合わせて、現代人が読んですぐ納得できる(古代と明治時代の地名考証なども必要なので)完全版・阿波国風土記を作る腹積もりがあったのではないか?などと想像します。
私は、小杉榲邨が「いつか時が来たら(自由に発表できる時代が来たら)この資料と古風土記を合わせて、現代人が読んですぐ納得できる(古代と明治時代の地名考証なども必要なので)完全版・阿波国風土記を作る腹積もりがあったのではないか?などと想像します。
つまりこの時点で、『古・風土記』も藩が所持していたことの証です。
その後、編輯雜纂が誰の手に渡ったかは不明です。
しかしながら、明治4年時点の『 阿波國風土記編輯雜纂 』原稿が出てきて、翌5年に刊行された『 阿波国古風土記名蹟考 』が無いということはないでしょう。
どこの馬の骨が書いたかも分からないような郷土本ではないのです。
空襲で焼けてしまわない限りは、日本の何処かに間違いなく保管されていることでしょう。
どこの馬の骨が書いたかも分からないような郷土本ではないのです。
空襲で焼けてしまわない限りは、日本の何処かに間違いなく保管されていることでしょう。