空と風

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小杉榲邨と『 阿波國風土記編輯雜纂 』

小杉榲邨の『徴古雑抄』は図書館に行けば見ることができますが、あまりの分厚さに(いずれ時間のある時にじっくり見よう)と考えていました。
 
この徴古雑抄にある小杉榲邨の年譜を見ると、明治3年、阿波国風土記編輯御用掛を命じられるも、その後、廃藩置県の際に編纂中止となりて脱稿せず、となっています。
 
今回発見された『 阿波國風土記編輯雜纂 』は、この中止された、明治版阿波国風土記の「原稿」です。
 
 
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表紙は、阿波國風土記編輯雜事録 を、阿波國風土記編輯雜纂 に訂正してあります。
 
 
ぐーたらさんのブログにあるように、複数の人物の様々な筆跡による文章の寄せ集め、余白の書き込み、原稿の上に2枚3枚と張り合わせた補足文など、まさに編集過程の資料そのままの様相です。
 
 
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            上記文面では、『阿波國續(続)風土記編輯御用掛』となっています。
 
 
ところが、徴古雑抄の年譜を続けて見ると、明治5年、『 阿波国風土記名蹟考 』1冊成る、と記されています。
 
風土記編輯御用掛が廃止された理由とされる廃藩置県(このとき、淡路島が兵庫県編入され、徳島も名東県を経て一旦高知県編入され・・・)が明治4年だったこと。
 
 『阿波国風土記名蹟考』、というタイトル。
 
1冊成る、と記されている点から見て、これは、『 阿波國風土記編輯雜纂 』とは別物で、しかも刊行されたことがはっきりと分かります。
 
小杉は、徳島県の前身である名東県の少属大属(役人)を任じられており、その間に『 阿波国風土記名蹟考 』を書いています。
 
その後、明治7年、教部省に出仕、明治10年、内務省御用掛を命じられ、同年、文部省で修史館掌記として『古事類苑』の編集に携わり、翌11年には、修史館第二局甲科専務となっています。
 
 

※ 明治政府の修史事業
 
1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。

しかし1877年(明治10年)に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。
またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。
 
 
大日本史は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後にも水戸藩の事業として継続、明治時代に完成した。
 
明治39年1906年)に、10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順が完成させるまで、実に250年の歳月を要した(ただし、本紀・列伝は光圀存命中にはほぼ完成しており、幕末以後、何度か刊行されている)。

 ※は(Wikipedia
 

明治新政府は、明治2年から国家による正史編纂に力を注ぎました。
そんな中、明治5年に、『阿波国風土記名蹟考』が出版されます。
 
内容によっては、当然政府が干渉するでしょう。
発言・発表の自由が保証された現代とは違うのです。
ましてや、書いたのは小杉榲邨ほどの人物です。
 
2年後には、中央に呼ばれ要職を歴任します。
修史館設立の翌年には、専務として招かれています。

小杉の能力は高く評価しながらも、国家統一の歴史は『大日本史』に準じるのだと、釘を刺されたのでしょう。
阿波国風土記名蹟考』の発禁と引換に、中央で小杉の望む職を提示したのではないか、とも想像します。

『道は阿波より始まる』によれば、小杉榲邨は自説を封印しながらも、古里の同志のために、職責を利用して知り得た情報を伝達していたそうです。
それが自分の使命であり、他の者にはなし得ない仕事だと自覚したのでしょう。
『徴古雑抄』の前書きにその様子が書かれています。
 
 
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『阿波國風土記編輯雜纂』には、小杉榲邨の師である池辺真榛直筆の論文も収録されています。
池辺真榛は、「日本の本つ国は阿波である」と発言し、徳島藩に幽閉され獄中死したと云われています。
池辺真榛が亡くなったのは、文久3年(1863)9月8日 〔享年34〕です。(明治元年は1868年)
生前の池辺の原稿を持ち、阿波国風土記編輯御用掛の責任者でもある小杉榲邨しか、この『阿波國風土記編輯雜纂』を所持する人物は考えられません。
 
中央に招かれたとき、持っていったものでしょう。
私は、小杉榲邨が「いつか時が来たら(自由に発表できる時代が来たら)この資料と古風土記を合わせて、現代人が読んですぐ納得できる(古代と明治時代の地名考証なども必要なので)完全版・阿波国風土記を作る腹積もりがあったのではないか?などと想像します。
 『阿波国風土記名蹟考』を書いたとき、39歳、教部省に呼ばれたとき、まだ41歳なのです。
 
上記『徴古雑抄』の年譜に見える通り、明治2年に徳島藩が作ろうとしたものは『続・風土記』でした。
つまりこの時点で、『古・風土記』も藩が所持していたことの証です。

その後、編輯雜纂が誰の手に渡ったかは不明です。
大日本史』を元にした歴史を国史としようとした政府の機関で働いたのですから、その本元である水戸県の人物とも交流があったはずで、それが『 阿波國風土記編輯雜纂 』が筑波大学にあった理由かもしれません。

阿波国風土記 』『 阿波国風土記名蹟考 』のように、内容が直ちには、『大日本史』を否定することにはならないために生き延びたのでしょう。
 
しかしながら、明治4年時点の『 阿波國風土記編輯雜纂 』原稿が出てきて、翌5年に刊行された『 阿波国風土記名蹟考 』が無いということはないでしょう。
どこの馬の骨が書いたかも分からないような郷土本ではないのです。
空襲で焼けてしまわない限りは、日本の何処かに間違いなく保管されていることでしょう。