「アワ」の語源が「イワ」ではないか?という仮説について、私は、実は音そのものも同じだったのではないか?と以前から考えていました。
で、今回はそれを調べながら書いてみようと思っていたのですが、あっけなく失敗に終わってしまいました。
しかし面白いので、一応、内容を書いておきます。
で、今回はそれを調べながら書いてみようと思っていたのですが、あっけなく失敗に終わってしまいました。
しかし面白いので、一応、内容を書いておきます。
私が思っていたのは、「イワ」という発音は、もしかしたら、たとえば「イェワ」だったのではないか?というものでした。
その音を、後の時代に輸入された漢字で「当て字」しようと思っても無理なので、どうしても書くとなると「イワ」か「アワ」になってしまうと考えたのです。
日本人が漢字を使い始めた時代の表記というものには、そういう可能性の考慮も必要です。頭の中のイメージは、こうです。
日本人が漢字を使い始めた時代の表記というものには、そういう可能性の考慮も必要です。頭の中のイメージは、こうです。
ニ名島(四国) い国 → いわ国 「イェワ」 → 阿波
→ いよ国 「イェヨ」 → 伊予
昔と今で発音の違う例があったり、発音の数自体も違うということを聞いたことがありました。
そこで、調べてみると確かに古代には「イェ」という発音があったことが分かりました。ところがそのあとがよくなかったのです。
インターネット図書館で、たいへん面白い本がありましたので、以下に一部抜粋します。
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例えば「キ」と「ヤ」とはそれぞれ違った音ですが「キャ」という音は「キ」でもない「ヤ」でもない違った音で、これもキとヤの字で書く。
キとヤとキャと三つの違った音が二つの文字によって書かれるのであります。
かように、文字の使い方によって別の音も表わすことがありますから、違った文字が四十八しかないから違った音も四十八しかないというのではありません。
キとヤとキャと三つの違った音が二つの文字によって書かれるのであります。
かように、文字の使い方によって別の音も表わすことがありますから、違った文字が四十八しかないから違った音も四十八しかないというのではありません。
右に挙げたような、シとス、イとエ、トとド、クとグなどの音を互いに違った音として区別するのは、我々には常のことですから、我々は当然別の音だと考えております。
これを区別しないものがあろうなどとは考えないのであります。
これを区別しないものがあろうなどとは考えないのであります。
それでは、これらの音は音の性質上いつでも別の音であるかというと必ずしもそうではないのであって、或る国に往けば「マド」も「マト」も音として区別しないという所もあるのです。
我々は「サシスセソ」と「シャシシュシェショ」を別の音と聴きますけれども、アイヌ人などになると、言語の音として同じ音だと思っているのであります。
この語は「シャ」というか「サ」と言うかと尋ねると、どちらも同じではないかと言う。
この語は「シャ」というか「サ」と言うかと尋ねると、どちらも同じではないかと言う。
すなわちアイヌ人には言葉としては「シャ」でも「サ」でも同じことで、それを同じ音として考える。
そういうことがあるのでありますから、言語の音を区別して別の音とするのは、音自身のもっている性質というよりは、その音を聴き、あるいは使う人の心の中での心理的のはたらきであります。
そういうことがあるのでありますから、言語の音を区別して別の音とするのは、音自身のもっている性質というよりは、その音を聴き、あるいは使う人の心の中での心理的のはたらきであります。
我々は「サケ」と「シャケ」が間違ったら飛んでもない間違いを起しますが、アイヌ人は「サケ」も「シャケ」も音としては同じことなんです。
それであるから、やはり言語によってそれぞれどういう音を同じ音とし、どういう音を違った音として聴くかというきまりがあるのであります。
それであるから、やはり言語によってそれぞれどういう音を同じ音とし、どういう音を違った音として聴くかというきまりがあるのであります。
それで或る言語においてどれだけの音を違った音として区別するかということが大切な問題となるのであります。
それは今言った通り言語の意味に関係して来る。
違った語であるということは主として音によって識別し、音が違っているから違った語であるという風に考えるのが常であるからであります。
そういう訳ですから、古典を研究し古典の意味を解釈するという場合においても、昔の人がどれだけの音を聴き分け、言い分けておったかということを知るのが大切であります。
それは今言った通り言語の意味に関係して来る。
違った語であるということは主として音によって識別し、音が違っているから違った語であるという風に考えるのが常であるからであります。
そういう訳ですから、古典を研究し古典の意味を解釈するという場合においても、昔の人がどれだけの音を聴き分け、言い分けておったかということを知るのが大切であります。
そのことは賀茂真淵の弟子の加藤美樹(かとううまき)の説として『古言梯(こげんてい)』の初めに出ております。
また本居宣長翁もやはり『古事記伝』の初めの総論に「仮字(かな)の事」という条に、明らかに音の区別であったといっているのであります。
それから富士谷成章(ふじたになりあきら)もやはりそう考えておったのでありまして、本居宣長の時代になりますと、古代には、後に至って失われた発音の区別があったのであって、仮名の使い分けはこの発音の区別によるものであるということが、立派に判って来たのであります。
また本居宣長翁もやはり『古事記伝』の初めの総論に「仮字(かな)の事」という条に、明らかに音の区別であったといっているのであります。
それから富士谷成章(ふじたになりあきら)もやはりそう考えておったのでありまして、本居宣長の時代になりますと、古代には、後に至って失われた発音の区別があったのであって、仮名の使い分けはこの発音の区別によるものであるということが、立派に判って来たのであります。
そうして本居宣長翁は、その実際の音を推定して「を」は「ウォ」(wo)であり、「お」は純粋の母音の「オ」(o)であると言っておられます。
ワ行の「ゐ」「ゑ」「を」は、「ウィ」「ウェ」「ウォ」(wi、we、wo)であったと考えられるのであり、それに対して、ア行の「い」「え」「お」は、イ、エ、オ(単純な母音)であったのです。
かように、契沖阿闍梨の研究によって、「いろは」は四十七文字がすべて悉(ことごと)く違った音を代表していたということが解って来ました。
前に言った通り、四十七文字の中、同じ音であるのが三つありました。
それは今でこそ同じ音であるけれども、ずっと古い時代において違った音であったとすれば、仮名の違いがやはり音の違いを表わしておったものである。
四十七の仮名は四十七の違った音を表わしておったものであるということが解って来たのであります。
前に言った通り、四十七文字の中、同じ音であるのが三つありました。
それは今でこそ同じ音であるけれども、ずっと古い時代において違った音であったとすれば、仮名の違いがやはり音の違いを表わしておったものである。
四十七の仮名は四十七の違った音を表わしておったものであるということが解って来たのであります。
ところが五十音図によると、五十だけの違った音があり得べきはずであります。
四十七まで区別があって、あと三つだけは同じ音であるのは不審である。
これも、あるいは昔は何か違った音ではなかったかということが問題になります。それは、
四十七まで区別があって、あと三つだけは同じ音であるのは不審である。
これも、あるいは昔は何か違った音ではなかったかということが問題になります。それは、
ア行 い う え
ヤ行 い ― え
ワ行 ― う ―
ヤ行 い ― え
ワ行 ― う ―
かように、「い」「う」「え」の三つが重複している。五十音図では別々になっているが、仮名は同じことであります。
仮名では書きわけられないが、五十音図で別々になっているということは、音として違ったものだということを示すものであります。
それ故、それは、いつか古い時代にあった二つの違った音が、後に区別を失って一つになったのではないかという疑問が起るのであります。
それ故、それは、いつか古い時代にあった二つの違った音が、後に区別を失って一つになったのではないかという疑問が起るのであります。
それは「天地(あめつち)の詞(ことば)」であります。
これが「いろは」が出来る前に「いろは」のような役をしておったものと考えられます。これはいつ頃からあったか判りませぬけれども、村上天皇の頃には既に世間に行われておったということは明らかな証拠があります。その全文は次の通りです。
あめつちほしそらやまかはみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるおふせよえのえをなれゐて
あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえを なれゐて
ただ不思議なことには、それが四十八字ありまして、「いろは」四十七文字よりは一つ多いのであります。何が多いかというと「えのえを」となっておって「え」が二つあります。
このエの二類の別は後世の普通の仮名では書き分けないのでありますが、万葉仮名では区別があります。すなわち次の通りです。
甲の類 衣、依、愛、哀、埃、英、娃、翳、榎、荏
(これは「榎(エ)」「蝦夷(エゾ)」「得(エ)」等の語に用いられる)
乙の類 延、要、曳、叡、江、吉、枝、兄、柄
(これは「枝(エ)」「兄(エ)」「江(エ)」「笛(フエ)」「?(ヌエ)」「吉野(エシヌ)」「消(キエ)」「絶(タエ)」「越(コエ)」等に用いられる)
ア行の「エ」は純粋の母音であり、ヤ行の「エ」は初にヤ行子音の加わったもの、すなわち「イェ」である。
活用の上においても、「得(エ)」のような甲の類に属するものは「う」「うる」とア行に活用し、「消え」「絶え」「越え」のような乙の類のものは「消ゆ」「絶ゆ」「越ゆ」とヤ行に活用します。
甲の類はア行であり乙の類はヤ行であります。
甲の類はア行であり乙の類はヤ行であります。
古代においてはア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別があったということは、この研究によっても確かめられたと考えてよいと思います。
契沖阿闍梨や奥村栄実の研究によって右のようなことが判って来たのであります。
その結果として、第一に、古代には現代にない「ウィ」「ウェ」「ウォ」および「イェ」というような音があったことが明らかになったのであります。
その結果として、第一に、古代には現代にない「ウィ」「ウェ」「ウォ」および「イェ」というような音があったことが明らかになったのであります。
第二に、古代の音を表わすには、普通の平仮名では不十分で、古代には、平仮名や片仮名では区別しきれない音の区別があったことが明らかになったのであります。
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「イェ」という音があったことは確認できました。
「吉野」の発音は、正しくは(イェシヌ)だそうです。
「吉野」の発音は、正しくは(イェシヌ)だそうです。
ところがこれは、ヤ行の「エ」の発音なのだそうです。
古事記の場合、「あ」と「い」に当てられた漢字は、それぞれ「阿」「伊」だけなのです。
再度同じ本から引用します。
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もう一つ最後に言っておきたいと思うのは、これまで述べたような後世には知られない仮名の遣(つか)い分けが古代にあったという事実からして、我々が古い時代の書物の著作年代をきめることが出来る場合があることです。
『古事記』について、数年前偽書説が出て、これは平安朝初期に偽造したもので、決して元明(げんめい)天皇の時に作られたものでないという説が出ましたが『古事記』の仮名を見ますと、前に述べたように、奈良朝時代にあった十三の仮名における両類の仮名を正しく遣い分けてあるばかりでなく、『古事記』に限って、「モ」の仮名までも遣い分けてあります。
そういう仮名の遣い分けは、後になればなるほど乱れて、奈良朝の末になると、その或るものはもう乱れていると考えられる位であり、平安朝になるとよほど混同しています。
もし『古事記』が、平安朝になってから偽造されたものとすれば、これほど厳重に仮名を遣い分けることが出来るかどうか非常に疑わしいと言わなければなりません。
そういう点からも偽書説は覆(くつがえ)すことが出来ると思います。
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全文は 古代国語の音韻に就いて
漢文に詳しい歴史家の本では、「日本書紀は完全な漢文だが、古事記が漢字を使った大和言葉で書かれているのは、漢字を使いこなれてきたからで、日本書紀より後の時代に書かれた証拠」と指摘していましたが、それも一面的な見方だということがわかります。
それだけしっかりと万葉仮名を使い分けている古事記で、阿波に「阿」の字が使われているということは、この字は完全に単純母音の「ア」として使われているわけで、「イェ」と混同することはないわけです。
もちろん、それは「古事記が書かれた時代」においては、ということなので、それ以前の発音については確認するすべもないのですが。
こうして、私の思いつきの仮説は空説に終わりました。
が、「アワ」の語源が「イワ」であるという説が消えてしまったわけでもありません。
もうひとつの仮説も加えてもう少し書いてみたいと思います。
もうひとつの仮説も加えてもう少し書いてみたいと思います。
※追記
よく考えれば、古事記は「阿波」の字を使わず「粟」国、と書いています。
この「粟」を、例えば出雲地方の方言では「エワ」と発音します。
この「粟」を、例えば出雲地方の方言では「エワ」と発音します。
この「エ」ワが、吉野(エシヌ)との「エ」と同じ発音だったとしたら、粟のもともとの発音が「イェワ」であった可能性も出てきます。