空と風

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勝浦 とは何か


前回の補足です。
地名に使われる漢字を考えるときに、ポイントとなる見方があります。
漢字伝来以前からあった地名に関しては、漢字は当て字でしかないのですが、その場合、「音を当てたのか」「意味を当てたのか」を観る必要があります。
さらには、漢字と一緒に入ってきた音を当てたのか、倭語に訓じた音を当てたのか、という違いがあります。
訓読みを当てるということは、初期においては意味を当てるということに近いわけですが、音と意味が一致しない場合も当然あるし、その読みが固定化した後の時代では、単純に音を当てた可能性が出てきます。

当て字するのは、中国側も同じことで、倭人が「やまと」と言ったか「やまいち」と言ったか、その国の名を「邪馬壹」と表記しました。
 

太安萬侶、古事記の序文の中で、「亦、於姓日下、謂玖沙訶、於名帶字、謂多羅斯、」と、書いています。
 
「日下」をクサカ、「帶」をタラシ、というのは、中国語音にも倭語音にも当てていないから解説しないと読めないのです。
 
音をあてたのが「草香」です。つまりこれは、もともとクサカという地名(人名)があり、漢字で表記しようとした際に音で当てるとどうしても字義がぴったりくるものがなかった、
それで、無理やり「日」の字を持ってきて「クサ」と読ませたわけです。
 
これで分かることは、クサカという地名・人名は「日」という文字を使うにふさわしい意味を持っていたということと、それを主張できるほどの力を持つ人々が関係した地名だった、ということです。
もちろん、「日」の意味するところは「太陽」です。「日」と「草」では違いすぎますからね。
 
日下の地名・人名は、徳島と香川の東部に多く見られます。

前回の話に当てはめますと、ムロを「室」と書くのは、おそらく意味を当てているのです。
「室」の語義は、部屋、王家、妻、などです。
これを単純に音で表記したものが「牟婁」です。
牟は、呉音でム、婁は、呉音でル、漢音でロウ、で、この字だけでは、国内では特別意味をなしません。
 
 
 
さて、前回の地名の一致の中で「勝浦」を再び取り上げました。
有名なところでは、千葉の勝浦市、和歌山の那智勝浦、などがあります。他にも、
 
 福岡県福津市勝浦
 鹿児島県大島郡瀬戸内町勝浦
 
などがあり、そのルーツが、徳島県勝浦郡であると考えています。
この「勝浦」も実は当て字なのです。

徳島市に勝占町という地名があります。元、勝浦郡の勝占村(かつうらそん)で、
Wikipedia)には、「勝浦」とも書き、(かつら)ともいう。
と、あります。
ずいぶんアバウトなように感じますが、全国の「那珂」「那賀」を調べると、「どちらの字を使う場合もある」「読みは(なか)でも(なが)でもよい」というようなところが多く、表記や、読みに濁点をつけるかどうかといったことに厳格なのは、つい最近の常識なのだとわかります。

ここには、延喜式式内社、阿波國勝浦郡 勝占(かつら)神社も在ります。御祭神は大国主命です。
 
和名抄をはじめ、『大日本地名辞書』など古地名を研究したものなどを見ても、「勝浦」は「かつら」と訓まれています。
そうです。本来の地名は かつら で、漢字表記するときに、それを 勝占 勝浦 と書いたのです。
このカツラは 海に近かった ために、当て字する際「浦」の字を好んで使うことが多かったのでしょう。
 
 
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香川県指定保存木 三角のカツラ 阿讃山脈、勝浦地名の真中にある

ところが、香川県仲多度郡まんのう町の「勝浦」は、全国唯一、山(阿讃山脈)のてっぺんにあります。
この山を徳島から香川に超えたところは、いわゆる西讃地方で、古代阿波忌部が開拓した一帯なのです。
つまり、この勝浦は海と関係なく、本来カツラという地名が忌部氏と海部氏の北上の途中で残されたものでしょう。
 
 
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漢字には、字そのものに意味があると同時に、複数の読み方があるために、後世様々な混乱が起こります。
本来の地名の音が、漢字を当てられたために別の読みをされるようになる、さらには同じ読みをする別の漢字を当てられる、など、どんどん本当の音から離れていくという現象は、地名でも人名でもいくらでもその例を見つけることができます。
勝浦も本来の読みはカツラだったのに、この字を当てられたために、カツウラと読まれるようになってしまったのです。

 
では、本来の地名「かつら」とは何なのでしょうか?
 
 其綿津見突之宮者也。
 到二其突御門一隅、傍之井上、有二湯津香木。
 故、坐二其木上一考、其恭突之女、見相議隅也。【訓香木加都良
 故、隨辻少行、備如二其言。來登二其香木一坐。
 
其(そ)れ綿津見神の宮ぞ。
其の神の御門(みかど)に到りまさば、傍(かたはら)の井の上(へ)に、湯津香木(ゆつかつら)有らむ。
故、其の木の上に坐(いま)さば、其の海神の女(むすめ)、見て相議(あひはか)らむぞ」と、いふ。
故、教へし随(まにま)に少し行でまししに、つぶさに其の言の如し。其の香木に登りて坐す
 
※以下 阿波の方言 カド 

神武天皇の祖父に当たる、火遠理命が、海(わたつみ)の神の娘、豊玉毘売と出会うシーンです。
 
 
日本唯一の延喜式式内社 和多都美 豊玉比賣 神社 です。
阿波こそが、ワタツミ族の本貫地なのです。
 
徳島県史』には、勝浦郡の地名の由来の中で、
 
(前略)~むしろ、田中勝蔵の説く次の説が正しいと思われる。
「カツラ」は和名抄の訓注のごとく「桂」で、桂の木は海人(アマ)の信仰する聖樹である。
京都賀茂の祭に、松尾神社から桂を進めるのも、山ノ神、海ノ神を祀る松尾神社から、海人の崇敬する桂の樹を進めることも思い合わすべきである、とする。
 
と記されています。
 
阿波のワタツミ族の神社は、式内社も含め他にも多数ありますが、今後少しずつ紹介します。
 
  
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 経塚古墳 天若日子の神陵と伝わる
 
また別のシーンでは、高天原から葦原中国へ国譲り交渉に遣わされた天若日子が、大国主命の娘下照比売を娶り寝返りますが、そのことを問いただすべく遣わされた鳴女が天若日子の家を訪ねるシーンで、
 
 故爾、鳴女、自レ天降到、居二天若日子之門湯津楓上一而、
 
 天若日子の門(かど)なる湯津楓(ゆつかつら)の上に居て、
 
天若日子の家のカドにもカツラの木がある、と書かれています。
 
 
大国主命を祀る八桙神社のある阿南市長生町には「桂国寺」という寺もあります。
旧地名を、那賀郡大原村といいます。
 
阿波の長の国をルーツとして、各地に「ナカ・ナガ」の地名が広がっています。
「那賀」「那珂」と書かれることが多く、一部の「中」「長」地名も関係があります。
 
以前も書いた、式内社 常陸国那賀郡 阿波山上神社 の鎮座地は、旧地名で、
 
 茨城県東茨城郡 村 阿波
 
と、いいます。
 
阿波山上神社の御祭神は、阿波忌部の祖、天日鷲命と同神との説もある少彦名命
 
阿波山は那珂川の西岸に位置し、隣接自治体が、那珂市です。
那珂川は、旧名を、阿波川、といいます。
阿波那賀(那珂)がセットになっているのは偶然ではないのです。

他にも古代の地名・豪族名として、「葛城」「葛木」(かつらぎ・かづらき)と、カツラは頻繁に登場します。
阿波でも、葛城は鳴門のこと、海沿い南岸の那賀の地まで「かつら」の痕跡が点在し、現在の姓名でも「桂」は徳島東部(海岸部)に特徴的な姓です。

つまり、本来のカツラとは、「カツラの木」を表す可能性が高いのです。
これが、阿波の東部海岸線に沿って、ワタツミ系、イヅモ系関連の神社等に準えてあるのです。
 
さて、勝浦の本当の発音がカツラだとわかると、また視界が広がります。
坂本龍馬で有名な高知の「桂浜」。
 
 
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この高知市 桂浜 、伊能忠敬が江戸時代に作った日本地図では、 勝浦浜 と書いています。
土佐の戦国武将、長宗我部元親がまとめた『長宗我部地検帳』でも同じ表記がされています。
 
つまり、カツラの音が「勝浦」と表記されたことで、各地の勝浦がカツウラと発音されるようになったのに対し、逆に高知では、その発音が正しく伝わり、そのため近代になってから「桂」の字が使われるようになったのです。


(続く)
 
 
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これは関係ないわよ