空と風

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阿波国の語源がわかりました


最初に断っておきますが、
タイトルは、 です。
 
 
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さて(何が“さて”じゃ)、徳島県は、昔、阿波の国と長の国から成っていました。

他にも、阿波三国説、四国以上あったとする阿波多国説があります。
ただ、古事記の国生み神話にも粟の国として登場し、長国の存在も確認できることから、少なくとも二国の存在は確実ということです。

 

しかし、それぞれの国のエリア、境界線、あるいは徳島の面積の大部分を占める山間部がどうなっていたのか、何も分かっていないのです。
最大の平野面積を有する吉野川流域に一つの経済圏・文化圏があっただろうことは確実で、長の国が県南にあったことも確実なので「北の阿波国、南の長国」と漠然と表現されるにすぎません。
 
私は、このブログで度々「古代のことを考えるときに先入観を持ってはいけない」と書きましたが、それでもその先入観を拭いきれないことがあります。
たとえば、『日本書紀』卷十三 允恭天皇紀に、天皇が淡路島で狩りをする話がありますが、ここに登場する「阿波國、長邑、之海人、男狹磯」の村を「長邑」とあるのを持って、私はそれを県南のどこかと考えました。
 
 
この男狭磯の墓は県北の鳴門市に現存し、当地を調べるうちに、その長村が鳴門市にあったという伝承があることを知りました。
しかし私は、「長国は県南」という何の根拠もない情報を先入観として持ってしまっていましたから、そんなわけはない、と即座に頭で否定し、上のような記事を書いたわけです。
 
ところが、さらに勉強をすすめると意外なことがわかりました。
岩利大閑氏を筆頭に、笹田孝至氏、高木隆弘氏などの先生方は、神武天皇長髄彦の戦闘地を板野郡だとし、私もこの説を支持しているのですが、この長髄彦の名はその支配地である村の名から採っていると日本書紀に記されているのです。
つまり、板野郡(旧板野郡は鳴門市を含む)に長村があったことが分かり、男狹磯の伝承と完全に一致したのでした。
 
 
これにより、長の国のエリアとは一般に言われるような「県南」の範囲を超えて、少なくとも吉野川河口地域まで、つまり徳島県の海岸部全域に至ることが分かりました。
ということは、普通に考えて、阿波の国と長の国が一体化するとき、その国名は「長・中・那賀・那珂」となるのが国力的に見て妥当だろうと思います。
なぜ、「ナカ」の国名を採用しなかったのでしょうか?
 
 
 ↑読んでいない人はどうぞ

 
元明天皇の御宇、和銅6年(713年)に、諸国郡郷名著好字令が発布され、
国名はできるだけ好字を用い二字で表記することになりました。
粟国が阿波国となったのは、この時とされていますが、その粟国の語源は「粟がよく採れる国」と解説されることが多いのです。
しかし私は、昔からその説明に釈然としないでいました。
第一、記紀や古文献を見ればわかるように、同じ地名や人名が複数の異なる漢字で表記されることは多いのです。
つまり、元からあった地名に関しては、その“音”に後から輸入された漢字を当て字しているに過ぎず、
“粟”もその類だと考えらるのです。
 
そこで私は、以前、アワとイワが同意であるという観点から、実は、これは異音同意ではなく、
元々同じ“音”だったのではないか?と考えました。
 
 
 
現代人は、五十音の組み合わせに従って発音していますが、本来“音の数”は当然それよりも多いのです。
当たり前に考えて、文字のなかった時代の発音を文字で表記することになった際、それでは正確には表現できない音というものがあり、それは最も近い音の字で書かれたはずです。
 
ましてや、平仮名やカタカナであれば、小文字を組み合わせることで、拗音(ようおん)を表すことができますが、漢字だけで音を表記した時代には全く正しい音を再現できなかっただろうことは容易に想像できます。
 
たとえば、私の父などは、昨日(きのう)を「きにょう」、一回(いっかい)を「いっくゎい」と発音します。
徳島県の一部では、先生(せんせい)を「しぇんしぇ」と発音している(いた?)はずです。
こういった音を漢字で再現することは不可能で、古代においても、近い音の字を当てたために、後世その漢字に従った読みがなされ、やがて発音そのものが変わって伝わってしまうことになったと考えられます。
 

阿波と伊和に関しては、元々同じ音で、たとえば「イェワ」とか「イェァワ」というような発音だったのではないか?と、以前私は考えたのです。
聞き様によっては「アワ」とも「イワ」とも聞こえるような音、漢字を当てるときに「ア」か「イ」の音を示す字を使うしかないような音だと。
 
古代の日本語の発音が、かなりの部分現代と違ったことは、学者の研究で分かっています。
たとえば、吉野(よしの)の古代の発音は、「エシヌ」もっと正確には「イェシヌ」です。
 
古代の人々が、あの吉野をイェシヌと発音していたと考えたら、その人たち本当に日本人だったんだろうか?という気さえしませんか?
そのくらい発音が違います。
 
古代の言葉に「イェ」という発音があったことはわかったのですが、それは漢字では「エ」で表記されるグループだと知り、私の仮説は瞬時に砕け散ったのです。
ところが最近思うことがあり、違う視点で調べたら、たとえば出雲では「粟」を「エワ」と発音することがわかりました。
古くは粟の文字はエワの音だったのかもしれません。つまり、吉野のように「イェワ」と発音されたのかもしれず、私は自説を復活させました。
 
つまり、上で「“イェ”に対し“ア”か“イ”の音を示す漢字を使ったのでは」と書きましたが、それはawaの国を漢字二字で書いた場合の一字目のことを言っているのですが、元々は「粟」一字で書き表していたのですから、この一字の訓みかたの方が本来の発音に近いと考えられるわけです。
 
 
 
 
 
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ところで、最近、またひとつ興味深いことを知ったのです。
 
「哀れ」という言葉がありますが、現代の意味と違って、ルーツは平安時代の王朝文学上の文芸理念・美的理念「もののあわれ」です。
 
「様々な物事に触れて生じる、しみじみとした情趣や哀感」といった切なげな心情を表します。
 
ところが、平安の世から鎌倉幕府の時代と変わり、このような儚く切ない“あわれ”で表現されるような物事にも命をかける、そのような武士の生き様や行動様式を称して“あっぱれ”と言うようになりました。
 
これをたまたまラジオで知って、私は“う~ん”となってしまいました。

哀れは「あわれ」ではなく「あはれ」だったのですね。

だから促音(そくおん)が入った時に「あっぱ」になったのです。「あわれ」なら「あっわ」になります。
「あっはれ」では音が抜けてしまうから「あっば」「あっぱ」と音を濁すわけです。

あは?あば?・・・。ん?
 
 
ここに貼った動画にあるように、頼朝は伊豆・鎌倉・房総半島などに軍港を整備し強力な水軍を持っており、番組は源氏が海人(あま)族の統領だと言っていますが、番組の最後でも「勝浦」地名の謎に触れています。
 
 
 那須与一の伝承 (1)  ※どなり古事記研究会
 
 
頼朝は、鎌倉から遠く離れた栃木県と茨城県の県境の山上に鎮座する鷲子山上神社を崇敬し、社伝には
 
源頼朝が当社を崇敬し、建久八年、社殿を造営、銭一五貫文を奉る。元久三年三月、源実朝が先規により永銭を献じる」とあります。
 
御祭神は、大同2年(807)、阿波国から分祀された天日鷲命です。

鷲子山上神社は那珂川を上った県境に有り、茨城は、利根川那珂川ともにその流域に阿波(アバ・アンバ)の地名や神社名が残され、それ以外にも阿波忌部の痕跡が各地に残っている地域です。
 
勝浦、水軍、阿波、那珂、と追ってゆくと、頼朝はどう見ても阿波の歴史を知っていたようにしか見えません。
上記社伝に見るように、鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)まで、「先規により」寄進を行っているほどの崇敬です。
非常に興味深いですね。
 
徳島、中国地方、関東地方、それぞれに「阿波」を「アバ」と訓む事実があるわけです。

つまり、「哀れ」が「あわれ」ではなく「あはれ」であったように、「阿波」は「あわ」ではなく「あは」が正しい元々の発音だったことが分かるのです。

字が違うということは、厳密な音、もともとの発音が違うのです。
 

 

この源氏が使い始めた「あっぱれ」という言葉、関東に残る「あば」という神名・地名、頼朝の阿波神に対する崇敬、何かつながりがあるのでしょうか?
 
 
 夜都米佐須
 やつめさす
 
 伊豆毛多祁流賀
 いづもたける
 
 波祁流多知
 はけるたち
 
 都豆良佐波麻岐
 つづらさはまき
 
 佐味那志爾 阿波礼
 さみなしに  あはれ

 
 
(続く)