空と風

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阿波の方言 スエル

 
これなどは、典型的な「古語」→「標準語」→「方言化」の言葉である。
波方言の本などに載っている他、各地の方言を紹介したサイトなどにも掲載されているのを目にする。

しかし、ちょっと考えてみると「これ標準語だなあ」と気づく、こういうパターンはけっこうあるものだ。
私自身、東京に20年住んでいて、日常会話の中で自分も周りの人間も全く使わない言葉、そして阿波では使われる言葉というものを見つけると「方言だな」と思うことがある。
そして以前書いた「衝撃!徳島の言葉」という掲示板に書きこむと、「それ、方言じゃないかも」と指摘されたことがあった。
 
つまり、標準語圏では殆ど使われることがなくなった、あるいは限られたシーンでしか使わない言葉が、地方では日常的に使われていると、それを方言のように感じるということである。

スエル には、二つの意味がある。
阿波でも二通りの意味で使う。
 
 すえる
 
 置く  腐(くさ)る

 
 
辞書に詳しく例が出ているので見てみよう。 

 す・える〔すゑる〕【据える】

1 物を、ある場所に動かないように置く。「大砲を―・える」「三脚を―・える」
2 建造物などを設ける。「本陣を―・える」「関所を―・える」
3 位置を定めて人を座らせる。「上座に―・える」
4 ある地位や任務に就かせる。「部長に―・える」「見張りに―・える」
5 心をしっかりと居定まらせる。「度胸を―・える」「腹を―・える」
6 厳しい視線を置きつづける。「目を―・える」
7 灸(きゅう)をする。「灸を―・える」
8 捺印(なついん)する。「印を―・える」
9 鳥などを止まらせる。
  「矢形尾の真白の鷹をやどに―・ゑ掻(か)き撫(な)で見つつ飼はくし良しも」
 〈万・四一五五〉
10 植えつける。
  「世の中の常の理(ことわり)かくさまになり来にけらし―・ゑし種から」
 〈万・三七六一〉
 
 
 す・える【×饐える】
 
飲食物が腐って酸っぱくなる。「御飯が―・える」「―・えたにおい」  
 
 以上 (Yahoo!辞書)

 
他にも、
 
神仏・霊像などを据える
 「安置する」「 祭る」「 奉祀(ほうし)する」「(祭神として)合祀する」
 
というよう場合にも使われるらしい。

 
こう見てみると、なるほど標準語だな、とよくわかるはずである。
しかし、標準語の会話の中で、何かをそこに置くように言うときに
「それ、そこに置いて」とは言っても、「据えて」という人は少ないだろう。
私は聞いたことがない。
「お値段すえおき~!」とかくらいではないか。

私の父などは「ほれそこにすえんかえ」とか普通に使っている。
ただし、この場合、ある程度の「重量物」のように思う。「敷置く」という感じである。
 

 
この「据える」は、古事記文中にも登場する。
 
於是天皇、愁天下氏氏名名人等之氏姓忤過而、於味白梼之言八十禍津日前、玖訶瓮而【玖訶二字以音】定賜天下之八十友緒氏姓也。
 
ここに天皇(すめらみこと)、天の下の氏氏名名の人等の氏姓(うぢかばね)の忤(たが)い過(あやま)れるを愁(うれ)えて、味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前(さき)に、玖訶瓰(くかへ)を居(す)えて、天の下の八十友の緒(やそとものを)の氏姓を定め賜いき。
 
 ※くか‐たち【探湯・誓湯】 (日本国語大辞典
 
大化前代、事の是非、正邪を判定するために、神に誓って熱湯に手を入れて探らせたこと。
罪のある者は大やけどをするが、正しい者はやけどをしないと信じられていた。うけいゆ。

訶瓮(くかへ)は、この探湯に用いる釜のことで、それを居(す)える、と書かれている。
 
上の例を見てもわかるように、「据える」は、小さいものをコトっと置く、というイメージではなく、どっしりと落ち付ける感じである。

 
 
ところで、この「すえる」動詞である。
これが自動詞になったものが「すわる」である。
 
※ たどう‐し【他動詞】
 
その動詞の表す動作や作用が直接他に働きかけたり、他をつくり出したりする働きとして成り立つもの。
動作・作用が及ぶ対象は、ふつう格助詞「を」で表される。「本を読む」「窓を開ける」など。

※ じどう‐し【自動詞】
 
動作主体の動作・作用が他に及ばないで、それ自身の働きとして述べられる動詞。「を」格の目的語をとることがない。
「雨が降る」「花が咲く」の「降る」「咲く」などの類。
 
 
 
古事記、古文に「すわる」という表現があるかどうかはわからない。
胡座(あぐら)をかく、(腰を)掛けるという表現はあるようだ。
 
古事記を見ていると、建御雷神が大国主命に国譲りを迫るシーンで、
 
是以此二神、降到出雲國伊那佐之小濱而【伊那佐三字以音】拔十掬劔、逆刺立于浪穗、趺坐其劔前、
 
ここをもちてこの二はしらの神、出雲國の伊那佐の小濱に降り到りて、十掬劍を拔きて、逆に千浪の穗に刺し立て、その劍の前に趺(あぐ)み坐(いま)して
 
とあり、また宇遲能和紀郎子と大山守命との戦闘シーンにおいては、
 
故聞驚以兵伏河邊、亦其山之上、張施垣立帷幕、詐以舍人爲王、露坐呉床
 
故、聞き驚ろき、兵を以ちて河の邊に伏せ、また其の山の上に垣(きぬがさ)を張り帷
幕(あげはり)を立て、詐りて舍人(とねり)を以ちて王(みこ)と爲し、露(あらわ)に呉床(あぐら)に坐(いま)せ

他にも、古事記中の歌謡に
 
やすみしし 吾が大王(おほきみ) 獣(しし)待つと 阿具良(あぐら)に坐(いま)し・・・
 
など、「アグラと 「ます」 がセットになっており、「座」を「すわる」とは読まないようである。
 
古文においても、「座る」「ゐる」なのであって、やはり「する」は「する」から、いつの時代か自動詞として転化したとみえる。
 
 
従って、すわるの意味は、すえると殆ど同じであるが、自動詞として使われるだけである。
なぜ、自動詞が「する」なのか?

 
 「わ」 (自分自身) を 「据える」 

からである。
 
阿波弁風に言えば、
 
 わがでに (自分自身で) 据える
 
ということである。
 
 
なぜ私が先に 「わ」 を書いたのか、分かってもらえただろう。
 
 
「かがま」 のところで、私は、「しゃがむ」 は、「座り」+「かがむ」 であると書いたが、
 
「据える」+「かがむ」
 
「すえかがむ」 の短縮形かもしれない、と思うのである。