空と風

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阿波国と伊倭国 4

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                   岩津の渡し

それでは、阿波に「イワ」の名残の残る地名がないか?「イ」国を探した時のように眺めてみましたが、これはなかなか難しい作業でした。
何故ならば、「イワ」の音に漢字を当てはめるとすれば、どうしても「岩」の字になりやすいと考えられますが、地名の起こりの代表的なものには「地形や自然の状態」をそのまま使うということがあるからです。

 

たとえば、阿波に複数存在する地名に、「立岩」「岩戸」がありますが、これらは自然の巨石を地名にしたのではないか?と想像できます。

 

 海部郡海陽町鞆浦字(立岩)
 鳴門市撫養町(立岩)
 徳島市多家良町(立岩)
 名西郡神山町上分字(立岩)

 

 阿南市長生町口ノ(岩戸)
 小松島市大林町字(岩戸)
 吉野川市山川町(岩戸)
 三好市山城町(岩戸)

 

「イワ」という「音」にどんな漢字を当てるかによって、現代人が受けるイメージが変わってきます。
たとえば、「イワキ」さんという姓がありますが、その字の一例である「岩城」さん、「井脇」さん、では全く違った印象を受けます。
たまたま音が同じということも中にはありますが、たいていルーツは同族で後世に違う漢字が当てられたケースがほとんどでしょう。

 

秦氏のハタさんも、「秦」、「畑」、「畠」、「羽田」、「波田」、「波多」、「八多」、「八田」さんなど、様々な漢字表記がされています。

 

「イワ」に当てはまる漢字はそれに比べれば少なく、また人名ではなく地名ならばなおさら「岩」の字が最も使われやすいことは考えてみればすぐに分かります。
従って、それが自然地名であると誰もが感じてしまうのではないでしょうか?

 

そこでその他、その場所が「イワ」国の地であることを示す可能性のある「岩」地名を書いてみます。

 

 阿波市阿波町(岩津)
 阿波市市場町日開谷字(岩野)

 

以前、このブログに「岩津」とは「伊倭の津」ではないか?と書いたことがあります。
岩津の吉野川周辺には巨岩が見えるのですが、地理的にもイワ国の津にふさわしい場所だからです。
市場町から、香川の旧難波郷へ抜ける街道沿いには「岩野」があります。
車を走らせても、岩に関係するような地形的特徴は見えません。「イワ」国の「野」ではないかと感じました。
というのも、徳島・香川に、何カ所か「長野」の地名があるのですが、これは「ナガ」国の人間の移住先ではないか?と考えていたからでもあります。 

 

 美馬市穴吹町穴吹字(岩手)

 

穴吹町の北端、吉野川沿いの地名です。
「~て」というのは「~側」のことで、舞台などでも「上手・下手」と使いますが、徳島ではもっと日常的に使います。
「東側」「西側」を「東手」「西手」と言います。
「岩手」は「イワ」国側、と読めます。

 

 美馬市脇町(岩倉)
 那賀郡那賀町(岩倉)

 

地形名称で「岩の倉」とは考えにくく、「イワ」国の倉があったのでは?と考えさせます。

 

 鳴門市撫養町大桑島字濘(岩浜)
 鳴門市撫養町斎田字(岩崎)

 

 徳島市北山町(岩崎)
 徳島市渋野町(岩鼻)

 

 阿南市見能林町(岩崎)
 阿南市長生町(岩ノ下)
 阿南市長生町(岩ノ脇) 
 阿南市羽ノ浦町(岩脇)

 

「イワ」国があったとすると、全てその東端・東海岸にあたる地域になります。

 

「イワ」の「浜」
「イワ」の「崎」
「イワ」の「鼻」(当地の言葉で、鼻は“先”と同じ意味)

 

「イワ」の「脇」も、「横端」の意味でしょう。羽ノ浦町岩脇には「神代地」の字名もあります。
「イワ」の「下」は「伊倭国」の南端を示すものでしょうか?
長生町は、大国主命を御祭神とする式内社のうち、阿波国内の最南端にある「八桙神社」の鎮座地です。

 

 三好郡東みよし町西庄字(岩神)

 

「イワ」の「神」とは、どんな場所か?と見てみると、
なんと大国主命の御子「阿遅鉏高日子根神」を祀る式内社 鴨神社 のすぐ下でした。




『道は阿波より始まる』では、仙覚律師の『萬葉集註釈』の一文を引用し、「阿」と「伊」が「同意」であると記しています。

 

※【万葉集註釈】
 
 鎌倉中期の万葉集の注釈書。10巻。仙覚著。文永6年(1269)成立。
 万葉集の本格的な注釈書として最初のもの。仙覚抄。万葉集抄。

 

※【仙覚】

 

 鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。
 万葉研究における仙覚の功績ははなはだ大きく、彼が生涯をかけて完成させた万葉集校本と
 それをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』は、以降明治期にいたるまで万葉集の定本として
 多くの研究者に利用されている。  (Wikipedia

 

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① 天竺には「阿」字を発語の詞とす。我が朝には「伊」字を発語の詞とするなり。

 

② 伊は発語の詞なり。 
  梵語には「阿」字を以って発語の詞と為し、和語には「伊」字を以って発語の詞と為すなり。

 

つまり、「伊ワ」と書いてあれば「阿ワ」と同意であるというのが、岩利大閑氏の指摘です。

 

播磨国風土記』に描かれる「伊和大神」(大己貴神)は、やはり「阿波大神」という意味だったのでしょうか?

 

兵庫県赤穂市式内社「伊和都比売神社」(イワつひめじんじゃ)の御祭神「伊和都比売」は、式内社「伊和神社」の御祭神「大穴牟遅神
=(大己貴神)の后神と云われていますが、元名は(豊受比売)だというのです。

 

古事記』国産みにおいて、阿波国の名前として記される(大宜都比売)の別名とされる女神です。


ところで、これを書いているうちに、もうひとつの「伊豫之二名嶋」の意味が浮かんできました。
この検証は今後も続けますが、そのとっかかりを書いておきます。

 

最近、神社周りした徳島市の渋野地区に「伊予王子」という地名があります。
阿波古代史に関係の深い地域です。

 

その隣、佐那河内村に鎮座する「大宮」(現・大宮八幡神社)の神主は、代々、孝昭天皇の皇子「天足彦国押人命」の後裔である井開氏が務めています。

 

徳島県神社誌』にも、「神主・井開伊予」の名が見えますが、この「大宮」に伝わる「阿波神代文字」を公開した『神名書』(かんなふみ)には、

 

 阿波国大宮神主 伊豫守藤原充長

 

の記名があります。
個人名とはいえ、なぜ「伊豫守」(いよのかみ)なのでしょうか?

 

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上に紹介した『萬葉集註釈』のなかで、仙覚律師は『土左國風土記』を引用し、「神河」(みわかわ)の説明をしています。

 

 土左の國の風土記に曰はく、神河(みわかは)。

 

 三輪川と訓(よ)む。

 

 源は北の山の中より出でて、伊予の國に届(いた)る。
 
 水淸し。故、大神の為に酒醸(か)むに、此の河の水を用ゐる。故、河の名と為す。

 

土佐の山中から出て「他国」に流れ込む川といえば、阿波へ流れる現「吉野川」です。

 

しかも吉野川が流れこむのは、阿波国の旧美馬郡「三繩郷」のあたりです。前々回に書いた「ミ」の国です。
そのずっと下流には、大己貴神を祀る式内社「大御和(おおみわ)神社」が在ります。

 

この点には、阿波の郷土史家も首をひねっています。
しかし、これらを眺めると、もうひとつの仮説が浮かび上がります。

 

つまり、四国には二つの「伊予」があったのではないでしょうか?
「伊豫之二名嶋」とはそのことを表しているのではないでしょうか?

 

片方の「イヨ」が、「イワ」⇒「アワ」に変名したのでしょうか。


地球旅行研究所 というHP書かれていた、伊予の語源について転載します。

 

その(伊予)語源についての伝承は現存していない。種々の説を略記しょう。

 

[1]室町末期の『予章記』には、三島大明神当国支配につき、彼(かれ)二予(預、アヅクル)国。
[2]松山市の伊予豆比古命の神名からと説く。史家景浦椎桃は、さらに、
[3]弥二並(いやふたならび)の島という語のイヤより転じた(本居宣長説)。
[4]出場(いでゆ)からの転(内山真龍説)。
[5]イは発語でヨは善しの意から(伴信友説)。
[6]温泉(いゆ)よりイヨ、イは発語。
[7]聖徳太子の湯岡碑文中の夷与村(いよのむら)から国名に、など列挙している。

 

最近の『愛媛県の地名』には、[6]温湯説、今日の道後が古代伊予の文化発祥の中心であったからとし、
角川日本地名大辞典には、[3][4][5]など近世国学者の説を列挙している。

 

そのほか、アイヌ語の〈入る〉本土より渡海の入口説、レプチャ語「美しい女」(愛媛)、チベット語・マレー語・タガログ語など外来語説もあるが、
相互間の言語体系の緊密な対応は明確でなく、方法論上に難がある。

 

小泉道は、これらの諸説を検討し、日本語語源研究に必須の上代特殊仮名遣いに拠り、国語学的研究からメスをいれた。
古代における「イヨ」の万葉表記の出典を見るに、「伊豫-古事記日本書紀万葉集・藤原宮、平城宮出土木簡など」
「伊余-古事記・国造本紀」「伊輿-日本書紀万葉集・平城出土木簡など」「伊預-新撰姓氏録」などがある。

 

元来ヨに二通りの表記があり、「甲類、音はYo」「乙類、音はYo」で豫(予)・余・輿(与)など、いずれも乙類である。
したがって、上代人はイヨを〈i Yo〉と発音したと推定される。

 

さて、上代日本語の母音交替では、ユ〈Yu〉が乙類のヨ〈Yo〉になる可能性はきわめて低い。
よって、[6]温泉(いゆ)がイヨになる説、[4]出湯(いでゆ)がイヨに転じたとする説は成立しにくい。

 

[5]発語イと善し説、上代の接頭語は形容詞語幹につく例はない。
[7]夷与村(伊与村)の小地名から伊予郡伊予国造ヘ、四国の総名になっているが、原点は不明。

 

[3]弥(いや)説は乙類ヨとヤの交替例は多く許容されている。
しかも、「伊予之二名島」は四国の男女2組が並ぶ「二並」、イヨは弥イヤの意としている。

 

宣長や谷川士清の弥説は、国生み神話にもとづく語源説で、条件付きで認められる。
吉田茂樹は、弥イヤの母音交替説をとり、イヨヨカ(森・挽)のイヨ(樹木の高くそびえるさま)とみる。

 

中四国の地名イヨが山谷を主とし、急崖の多い地形から四国の総名、背後の地形から小地名とすると、イヨヨカは古辞書『新撰字鏡』『類聚名義抄』に「森」「森々」などの訓で、特殊仮名遣いからも許容される。

 

決定説は得がたいが、「イヨ」は「イヤ」(弥)と同じく、物ごとの状態の無限であるさまを意味し、国名も限りない発展の意をもつめでたい称え名と小泉は推定し、「豫」は古辞書にタノシム・ヨロコブ意、好い字を使用したいという。

 

「イヨ」の語源は「イヤ」なのだそうです。

 

倭(イ)国のふるさと、阿波と伊予の国境に位置する、「祖谷」(イヤ)がすべての出発点なのでしょうか?
あるいは、「ヤ」と「ヨ」が同意で、「イヤ」「イヨ」で「二名嶋」、だったのかもしれません。