古事記には、
「大國主(おほくにぬし)神、亦の名は大穴牟遲(おほなむぢ)神と謂ひ、亦の名は葦原色許男(あしはらしこをの)神と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこの)神と謂ひ、亦の名は宇都志國玉(うつしくにだまの)神と謂ひ、あはせて五つの名あり」
阿南市HPによれば、
『阿府志』には
「八桙神社 祭天八千桙命宮内村に在 土俗八桙大明神と号す 別当 八桙寺
三代実録に陽成帝の元慶七年(883)十二月二十八日授従五位下、土俗伝ふ、諸国官物海賊の為に奪わる。
今千歳の久しきを経る共田畔不浄を用いす、築墓ならず因って隣村に葬る。
不浄を忌むること忌部に異ならず。
上古の鳥居跡あり地中に埋る、大きさ一丈五尺廻り、二柱の間二十間余隣村の神社多くは爰の摂社ならんと、今は甚小社なり」
とある。
『阿波志』には
延喜式亦小祀と為す、宮内村に在り、八桙寺之を管す、
崇神紀に伝ふ九年三月戊寅、天皇夢に神人有りて誨へて曰く、赤盾八枚 赤矛八竿を以て墨坂神を祠れ、
亦黒盾八枚 黒矛八竿を以て 大坂神を祠れ、
或は曰く、恐くは八千桙神と旧事記に伝ふ大己貴、又の名は八千矛神
亦黒盾八枚 黒矛八竿を以て 大坂神を祠れ、
或は曰く、恐くは八千桙神と旧事記に伝ふ大己貴、又の名は八千矛神
三代実録元慶七年十二月二十八日庚申従五位上を授く
とある。
八桙神社由緒案内
一、八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す
長ノ国は北方粟ノ国と相対して阿波民族の源を形成す
長ノ国は北方粟ノ国と相対して阿波民族の源を形成す
一、承平四年朱雀天皇の御宇
歌聖紀貫之土佐守の任満ちて上洛の途上南海水道にさしかかりし時
豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる
直ちに那賀川河口に碇泊西瀉なる竹原庄の要津に松壖栢城高く聳へ立ち
威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す
忽ち「霊験早印下之泥」海上無恙上洛せりとあり
歌聖紀貫之土佐守の任満ちて上洛の途上南海水道にさしかかりし時
豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる
直ちに那賀川河口に碇泊西瀉なる竹原庄の要津に松壖栢城高く聳へ立ち
威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す
忽ち「霊験早印下之泥」海上無恙上洛せりとあり
一、長寛元年九月二十五日関白左大臣左大将正二位藤原基実卿後白河上皇の勅令を承け
法華八講料として免租水田五段と紺紙金泥法華経一部八巻合せて五種十二巻を奉納し
この善根に依り後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に併せて
二品家一門の神徳冥助を乞い並に南海水道の海上安全を祈願す
法華八講料として免租水田五段と紺紙金泥法華経一部八巻合せて五種十二巻を奉納し
この善根に依り後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に併せて
二品家一門の神徳冥助を乞い並に南海水道の海上安全を祈願す
現在当社の周囲は田園となっているが、以前は湿地帯、古くは上記のように海が入り込んでいたという。
徳島を中心に周ってはいるが、香川の神社にも時々立ち寄る。
おおむね、香川の神社のほうが、その場所や規模に関係なく奇麗である。
お金のかかった見事な社殿も多いが、何といっても手入れが良くなされている。
おおむね、香川の神社のほうが、その場所や規模に関係なく奇麗である。
お金のかかった見事な社殿も多いが、何といっても手入れが良くなされている。
最近訪れた中では、観音寺市の瀧宮神社などもたいへん綺麗であった。
山間の田舎町の神社である。
拝殿の横に回ると、2~30本はあろうかという竹ぼうきがきれいに並べて壁に掛けられていた。
神主だけでなく、氏子みんなで神社を大事にしている様子がありありと感じられた。
山間の田舎町の神社である。
拝殿の横に回ると、2~30本はあろうかという竹ぼうきがきれいに並べて壁に掛けられていた。
神主だけでなく、氏子みんなで神社を大事にしている様子がありありと感じられた。
神殿や祠の一部が壊れているのは、経済的な理由などもあるだろうし仕方がない。
しかし、これほどの神社でありながら、掃除片付けができていない(たまたまゴミがあったのではなく、上の状態で放置されているのは一目瞭然)という状態には失望と憤りを感じる。
しかし、これほどの神社でありながら、掃除片付けができていない(たまたまゴミがあったのではなく、上の状態で放置されているのは一目瞭然)という状態には失望と憤りを感じる。