空と風

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阿波国と伊倭国 2

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伊和神社(Wikipedia

兵庫県宍粟市に鎮座する、播磨国一宮 延喜式内社 名神大社 伊和神社(いわじんじゃ)。

御祭神は、『播磨国風土記』に描かれる「伊和大神」(大己貴神)です。

有名な「大国主命」の別名ですが、「大国主」が後世の忌み名であるのは明白で、古事記には、

 大國主(おほくにぬし)神、

 亦の名は 大穴牟遲(おほなむぢ)神     と謂ひ、
 亦の名は 葦原色許男(あしはらしこをの)神 と謂ひ、
 亦の名は 八千矛(やちほこの)神       と謂ひ、
 亦の名は 宇都志國玉(うとしくにたまの)神 と謂ひ、  あはせて五つの名あり。

と記されます。

大国主命は、もちろん阿波の神。大国主命を御祭神とする式内社だけを見てもこれだけあります。(論社含む)

 八桙(やほこ)神社    阿南市長生町   八千矛神  

 勝占(かつら)神社    徳島市勝占町   大己貴命

 大御和(おおみわ)神社  徳島市国府町   大己貴神

 宇志比古(うしひこ)神社 鳴門市大麻町   大己貴命

 八十子(やそこ)神社   美馬郡貞光町端山 八千矛命

 倭大國玉神大國敷(やまとおおくにたまのかみおおくにしき)神社 美馬市美馬町重清 大己貴命

 
大国主命は、『日本書紀』よればスサノオノ命の子。
古事記』、『日本書紀』の一書、『新撰姓氏録』によれば、スサノオノ命の六世孫です。

建速須佐之男命は、父、伊邪那岐命から海原を治めるように命じられますが、根の国へ行くことを熱望したために、怒りを買って追放されます。
挨拶のため訪れた高天原では乱暴を働き、また追放。
八俣遠呂智を退治した後、櫛名田比売と須賀の地に住みました。
これは、隣接する「名田河」の姫を娶って神山町「須賀」に住んだということである、という岩利大閑説を既に紹介しました。

徳島には、いくつかの地名が県内に複数存在するのですが、その一つがこの「須賀」です。
調べた範囲で書き出してみましょう。

 名西郡神山町阿野字 (須賀)

 徳島市川内町 (竹須賀)
 徳島市八万町 (沖須賀)
 徳島市(西須賀)町
 徳島市方上町(中須賀)

 小松島市江田町字 (沖須賀)

 阿南市上大野町 (須賀)
 阿南市羽ノ浦町古毛 (大須賀)(中須賀)(小須賀)(上須賀)(下須賀)(前須賀)
 阿南市見能林町 (沖ノ須賀)
 阿南市長生町 (寿嘉)

 阿波市市場町伊月字 (前須賀)
 阿波市吉野町西条字 (東須賀)
 阿波市市場町大野島字 (前須賀)

 吉野川市鴨島町粟島字 (前須賀)
 吉野川市鴨島町牛島字 (先須賀)
 吉野川市川島町児島字 (東須賀) (西須賀)
 吉野川市山川町(北須賀)(中須賀)(大須賀)

 美馬市穴吹町穴吹字 (市ノ須賀)
 美馬郡つるぎ町貞光字 (大須賀)(中須賀)

まだあるかもしれません。
こんなものだろうと思いながら、他の調べで地図を眺めていると「あ、ここにもあった!」と書き足した「須賀」が上にも2~3あります。


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徳島県内の「須賀」

地図が小さくて分かりづらいかもしれませんが、一つの例外もなく全て水辺です。
川のほとり、海辺。

水辺といえば、これまでも書いたことがあります。
ひとつは、「滝の宮」。

「滝宮」の名がつく地名・神社は全て川辺にあり、「滝宮神社」また「滝宮」にある神社には必ず「須佐之男命」が祀られています。

またひとつは、「蛭子」。

事代主神社 阿波市 に書いた「蛭子」の地名をマーキングしてみました。


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上は「大国主命」と、その御子「事代主命」(えびす)を祀る式内社です。

「須賀」「蛭子」の地名と、「須佐之男命」「大国主命」「事代主命」の血脈の痕跡は、ほぼ一致しています。
「須賀」の地名にしても、まったく偶然に名付けられたものではなく、理由と法則性があるらしいことがわかるでしょう。


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鮎食川沿い、神山町の「須賀」には「名田河」が隣接するため、須佐之男命が「わが心すがすがし」と名付けた須賀の地と云われますが、吉野川沿いにも「名田」の地名が見えます。

すぐ近くには「須賀」の地名が見当たりませんが、吉野川沿いは須賀だらけといった感じです。

見づらくなるので、上の地図には全ての須賀をを書き入れてはいません。
また、頭の「○須賀」の部分は途中からカットしました。


須佐之男命は、ヤマタノオロチを退治した後、須賀の地に宮を作ったのですが、そのオロチは『古事記』に

 高志之八俣遠呂知

と書かれています。

諏訪大社の元宮は徳島にあった!? に書いたように、「高志」は阿波の地名。

大国主命と「高志」の「沼河比売」の間に生まれたのが「建御名方命」で、上の地図で「諏訪」と書いた場所で、式内社・阿波國 「名方」郡 「多祁御奈刀弥神社」の御祭神となっています。

その北、吉野川対岸に「高志」。その下流に「名田」。

八俣遠呂知の正体は、吉野川かもしれません。
「須賀」、「滝宮」と、須佐之男命に関連する地名が全て川辺にあることを考えると、八俣遠呂知退治の話は、よく言われるように川の治水の物語なのでしょう。


「事代主」とあるところが、異母兄弟「事代主命」を祀る式内「事代主神社」。

「勝占」と記入した場所の、式内「勝占神社」の御祭神は、大国主命で、事代主命も配祀されますが、『道は阿波より始まる』によれば、事代主命の神陵とのことで、私も参りましたが、社殿の裏側の山が古墳に見えました。


これらの地図に示される範囲、阿南市から海辺を北上、吉野川河口両岸(徳島市・鳴門市)から、
上流へ上り「ミマ」岐のあたりまでが、大国主命の勢力範囲だと考えられます。
まさにその境目に「倭大國玉神大國敷神社」が在ります。



この大国主命が、「伊和大神」なのです。

古代、徳島は、北部の「アワ」と南部の「ナガ」に分かれていたと云われますが、正しくは「イワ」と「ナガ」だったのでしょう。

そして西部(須賀や蛭子の地名が途切れた先)にはもうひとつの国があった。
私が仮説を立てた「イミ」です。

その南には「イヤ」もありますから、もしかしたら、阿波で四国でしょうか?

(続く)