大國主(おほくにぬし)神、
亦の名は 大穴牟遲(おほなむぢ)神 と謂ひ、
亦の名は 葦原色許男(あしはらしこをの)神 と謂ひ、
亦の名は 八千矛(やちほこの)神 と謂ひ、
亦の名は 宇都志國玉(うとしくにたまの)神 と謂ひ、 あはせて五つの名あり。
亦の名は 葦原色許男(あしはらしこをの)神 と謂ひ、
亦の名は 八千矛(やちほこの)神 と謂ひ、
亦の名は 宇都志國玉(うとしくにたまの)神 と謂ひ、 あはせて五つの名あり。
と記されます。
建速須佐之男命は、父、伊邪那岐命から海原を治めるように命じられますが、根の国へ行くことを熱望したために、怒りを買って追放されます。
挨拶のため訪れた高天原では乱暴を働き、また追放。
八俣遠呂智を退治した後、櫛名田比売と須賀の地に住みました。
これは、隣接する「名田河」の姫を娶って神山町「須賀」に住んだということである、という岩利大閑説を既に紹介しました。
挨拶のため訪れた高天原では乱暴を働き、また追放。
八俣遠呂智を退治した後、櫛名田比売と須賀の地に住みました。
これは、隣接する「名田河」の姫を娶って神山町「須賀」に住んだということである、という岩利大閑説を既に紹介しました。
徳島には、いくつかの地名が県内に複数存在するのですが、その一つがこの「須賀」です。
調べた範囲で書き出してみましょう。
調べた範囲で書き出してみましょう。
小松島市江田町字 (沖須賀)
まだあるかもしれません。
こんなものだろうと思いながら、他の調べで地図を眺めていると「あ、ここにもあった!」と書き足した「須賀」が上にも2~3あります。
こんなものだろうと思いながら、他の調べで地図を眺めていると「あ、ここにもあった!」と書き足した「須賀」が上にも2~3あります。
水辺といえば、これまでも書いたことがあります。
ひとつは、「滝の宮」。
ひとつは、「滝の宮」。
「滝宮」の名がつく地名・神社は全て川辺にあり、「滝宮神社」また「滝宮」にある神社には必ず「須佐之男命」が祀られています。
またひとつは、「蛭子」。
事代主神社 阿波市 に書いた「蛭子」の地名をマーキングしてみました。
「須賀」「蛭子」の地名と、「須佐之男命」「大国主命」「事代主命」の血脈の痕跡は、ほぼ一致しています。
「須賀」の地名にしても、まったく偶然に名付けられたものではなく、理由と法則性があるらしいことがわかるでしょう。
「須賀」の地名にしても、まったく偶然に名付けられたものではなく、理由と法則性があるらしいことがわかるでしょう。
すぐ近くには「須賀」の地名が見当たりませんが、吉野川沿いは須賀だらけといった感じです。
見づらくなるので、上の地図には全ての須賀をを書き入れてはいません。
また、頭の「○須賀」の部分は途中からカットしました。
また、頭の「○須賀」の部分は途中からカットしました。
高志之八俣遠呂知
と書かれています。
諏訪大社の元宮は徳島にあった!? に書いたように、「高志」は阿波の地名。
「勝占」と記入した場所の、式内「勝占神社」の御祭神は、大国主命で、事代主命も配祀されますが、『道は阿波より始まる』によれば、事代主命の神陵とのことで、私も参りましたが、社殿の裏側の山が古墳に見えました。
これらの地図に示される範囲、阿南市から海辺を北上、吉野川河口両岸(徳島市・鳴門市)から、
上流へ上り「ミマ」岐のあたりまでが、大国主命の勢力範囲だと考えられます。
まさにその境目に「倭大國玉神大國敷神社」が在ります。
上流へ上り「ミマ」岐のあたりまでが、大国主命の勢力範囲だと考えられます。
まさにその境目に「倭大國玉神大國敷神社」が在ります。
この大国主命が、「伊和大神」なのです。
古代、徳島は、北部の「アワ」と南部の「ナガ」に分かれていたと云われますが、正しくは「イワ」と「ナガ」だったのでしょう。
そして西部(須賀や蛭子の地名が途切れた先)にはもうひとつの国があった。
私が仮説を立てた「イミ」です。
私が仮説を立てた「イミ」です。
その南には「イヤ」もありますから、もしかしたら、阿波で四国でしょうか?
(続く)