御祭神 御間都比古色止命 (みまつひこいろとのみこと)
御祭神の「長の国」祖神である「御間都比古色止命」とは、
第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう) のことである。
(みまつひこかえしねのみこと) と記される。
『先代旧事本紀』(国造本紀)に、
「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」
「観松彦伊呂止命」の九世孫にあたる「韓背足尼」(からせのすくね)が「長国」の「国造」になったとある。
この記録があるために、韓背足尼が、当地に祖神として観松彦伊呂止命を祀ったと“考えられて”いるようだ。
というのも、いつ誰がこの地に孝昭天皇を祀ったのかを、文献で探ろうとしても見当たらないからである。
つまり、韓背足尼が当社を建立したという記述はどこにもないが、長国の国造に任命された事実と、その血筋を考え合わせると可能性がある、ということだろう。
というのも、いつ誰がこの地に孝昭天皇を祀ったのかを、文献で探ろうとしても見当たらないからである。
つまり、韓背足尼が当社を建立したという記述はどこにもないが、長国の国造に任命された事実と、その血筋を考え合わせると可能性がある、ということだろう。
ところが、どこかにそう記されると、その後は確定事実のようにあちこちに書かれるようになる。
延喜式小社、
昭和九年、社殿改築。
『阿波志』に
また『阿府志』には
「御間都比古神社、同郡佐那河内村中峰にあり、俗に中峰とも云う、三木松ノ神 神主 井開伊予」
御祭神は「観松彦香殖稲天皇」とある。
~ 『徳島県神社誌』 他 ~
『道は阿波より始まる』によれば、鎮座地の中峰を「三(美)松の峰」と記しているが、ここにも「三木松」と呼ばれていた記録が見える。
そのようないきさつがあっても、現在も雑草の生い茂る荒れた境内となっている。
しかし当地は人口も少ない山村で、氏子を責める気にはならない。
神社や古墳が観光と結びついているような県であったならば、当社も荘厳なものとなっていただろう。
しかし当地は人口も少ない山村で、氏子を責める気にはならない。
神社や古墳が観光と結びついているような県であったならば、当社も荘厳なものとなっていただろう。
『新撰姓氏録』には、
また、
「 猪甘首、 首、 天足彦国押人命之後也」
とあり、
長の国造である、長公(ながのきみ)は、八重事代主命の子孫。
猪甘首(いかいのおびと)は、天足彦国押人命の子孫。
であることが分かる。
「佐那大人猪飼真人」(さなうしいかいまひと)の記載がある。
須佐之男命が櫛「名田」比売と住まいした「須賀」と御間都比古神社 |
井開氏は現在まで続く佐那県(さなのあがた)現・佐那河内村の神官で、
当社の御祭神「孝昭天皇」の皇子「天足彦国押人命」の子孫であり、その祖先は、
「八重事代主命」とその父「大国主命」そして「建速須佐之男命」までさかのぼることが可能である。
この名族「猪甘」氏を、ある古事記の研究者は、その字面だけから「豚を飼う部民」と校注し、そのせいか、当時すでに日本人には豚肉食の習慣があったという説の根拠として扱う食文化の研究者もいるようだ。
この点につき、『道は阿波より始まる』では、
「あまりの無責任さに思わず唖然としました」
「何たる見識のなさ浅学の徒となじられても返す言葉もないでしょう」
「何たる見識のなさ浅学の徒となじられても返す言葉もないでしょう」
と批判している。