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式内社 御間都比古神社 名東郡佐那河内村

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日本一社 延喜式式内社 阿波國名方郡 御間都比古神社

鎮座地 徳島県名東郡佐那河内村下字中峰物見石74-2

御祭神 御間都比古色止命 (みまつひこいろとのみこと)


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御祭神の「長の国」祖神である「御間都比古色止命」とは、

第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう) のことである。

日本書紀』に、「観松彦香殖稲尊」、『古事記』では、「御真津日子訶恵志泥命」

(みまつひこかえしねのみこと) と記される。


『大日本地名辞書』にも、御祭神は孝昭天皇であり「即ち天皇を祀る」とある。


先代旧事本紀』(国造本紀)に、

「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」

「観松彦伊呂止命」の九世孫にあたる「韓背足尼」(からせのすくね)が「長国」の「国造」になったとある。

「長国」とは、『古事記』(允恭記)に「阿波国長邑」とあり、『和名抄』に「阿波国那賀郡」が記されるように、
現在「那賀郡」として地名の残る阿波南部の「長(なが)のくに」のことである。

この記録があるために、韓背足尼が、当地に祖神として観松彦伊呂止命を祀ったと“考えられて”いるようだ。
というのも、いつ誰がこの地に孝昭天皇を祀ったのかを、文献で探ろうとしても見当たらないからである。
つまり、韓背足尼が当社を建立したという記述はどこにもないが、長国の国造に任命された事実と、その血筋を考え合わせると可能性がある、ということだろう。

ところが、どこかにそう記されると、その後は確定事実のようにあちこちに書かれるようになる。


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 延喜式小社、

 長の国の祖神「観松彦色止命」、初めて佐那県に移住し、
 山野を開き水田を起こし、海浜の地に漁業を教えて産業を開発せられた。

 成務天皇のときに、観松彦色止命九世の孫、韓脊足尼が長の国造となり、
 祖神観松彦色止命を長峰の中腹に奉祀し、祭政一致の実を示された。

 延喜の制に国幣小社に列せられる。
 戦国の世に社殿破壊され、旧跡に形ばかりの小社取立祭祀を奉仕。

 天保十一年(1840)五月、社殿改築、明治二十一年神殿建築のことがみえるが、神社明細帳に脱漏したので、
 神職の任命がなく社殿は荒廃した。

 大正九年十二月、宮内省諸陵寮考証官の実地調査があり、同十四年九月境内を拡張し、本殿を改築した。


 昭和九年、社殿改築。

 『阿波志』に

 「御間都比古祠延喜式亦小祠と為す。中辺村にあり、今中峰また三木松と称す。
  即ち観松彦色止命、蓋(けだ)し、遠孫韓脊宿弥之を祀る也」と。

 また『阿府志』には

 「御間都比古神社、同郡佐那河内村中峰にあり、俗に中峰とも云う、三木松ノ神 神主 井開伊予」

 御祭神は「観松彦香殖稲天皇」とある。

~ 『徳島県神社誌』 他 ~


『道は阿波より始まる』によれば、鎮座地の中峰を「三(美)松の峰」と記しているが、ここにも「三木松」と呼ばれていた記録が見える。

上記のように、御間都比古神社は、一時期荒廃し、徳島ではその所在地さえも不明となっていたが、大正九年宮内省諸陵寮考証官の実地調査により当所であることが確認されたものである。

そのようないきさつがあっても、現在も雑草の生い茂る荒れた境内となっている。
しかし当地は人口も少ない山村で、氏子を責める気にはならない。
神社や古墳が観光と結びついているような県であったならば、当社も荘厳なものとなっていただろう。


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孝昭天皇の皇子に「天足彦国押人命」(あまたらしひこくにおしひとのみこと)がある。
大倭帯日子国押人命(第六代孝安天皇)の兄にあたる。


新撰姓氏録』には、

 「長公大奈牟智神児積羽八重事代主命之後也」

また、

 「 猪甘首、 首、 天足彦国押人命之後也」

とあり、

 長の国造である、長公(ながのきみ)は、八重事代主命の子孫。

 猪甘首(いかいのおびと)は、天足彦国押人命の子孫。

であることが分かる。


上の『徳島県神社誌』には、「神主・井開伊予」とあるが、他に同村「大宮(八幡)」を和銅の時代に建立した

「佐那大人猪飼真人」(さなうしいかいまひと)の記載がある。

「真人」(まひと)とは、古代の姓(かばね)の一種で、684年(天武天皇御宇)に定められた八色(やくさ)の姓の第一位にあたる。
天皇家及びその直系氏族に与えられる性である。


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須佐之男命が櫛「名田」比売と住まいした「須賀」と御間都比古神社

井開氏は現在まで続く佐那県(さなのあがた)現・佐那河内村の神官で、
当社の御祭神「孝昭天皇」の皇子「天足彦国押人命」の子孫であり、その祖先は、
「八重事代主命」とその父「大国主命」そして「建速須佐之男命」までさかのぼることが可能である。

この名族「猪甘」氏を、ある古事記の研究者は、その字面だけから「豚を飼う部民」と校注し、そのせいか、当時すでに日本人には豚肉食の習慣があったという説の根拠として扱う食文化の研究者もいるようだ。

この点につき、『道は阿波より始まる』では、

「あまりの無責任さに思わず唖然としました」
「何たる見識のなさ浅学の徒となじられても返す言葉もないでしょう」

と批判している。


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大宮八幡神社の石碑