空と風

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鳥の一族 12 高天原

 
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高天原の時代や古代日本を考えるとき、常に頭において思考しなければならないのは、その王家は必ず男系で継承されるという点です。
 
以前も書きましたが、前イスラエル駐日大使の一人に、エリ・コーヘン氏がおり、氏は数冊の日本に関する本を上梓されていますが、その中にコーヘン家系について書いた部分があります。
要約すると「ユダヤ教徒の中で、祭祀氏族はレビ族であり、その中でも大祭司・祭司の家系がコーヘン家であり、その家系は男系で継承される」ということです。

男系で引き継がれるという点では、日本の天皇家も同じですが、これは「そう決まっているから」「そうする」という類のものです。
 

 

現代人は、何かにつけ納得できる理由を求めたがるので、遺伝子がどうとか様々な説明を試みたりしますが、本来そんなものは不要の「しきたり」「掟」なのです。
125代の天皇家、さらには高天原の時代にさかのぼり、ずっと継承されてきた王家の掟であり、ユダヤ教大祭司と同じく宗教的権威でもあり、本来、現行の法律などとは全くそぐわないものです。

現代でも超法規的存在である天皇家を、国会議員ごときが、得体の知れない有識者とかいう奴らの浅はかな意見を参考に、その法で縛ろうとする、その図々しさが私には理解できません。
なぜ、自分にそんなことを判断する能力や資格があると思えるのか?
女系天皇容認論とか偉そうに口にする輩が多いのですが、お前らは一体何様なのだ?と言いたくなります。
 
 

 

女系天皇について、どうしても議論するというなら、まず天皇陛下天皇家の意見を聞くのが筋でしょう。
ところが、天皇家は自由に意見が言えない立場に置かれています。
そういう意味で、竹田恒泰氏のように、外部から天皇家の意見を代弁する存在は貴重と言ます。
小沢一郎に見るように、民主党議員らは、天皇憲法上の「日本国の象徴」という存在それ以外の何者でもない、という認識・態度で、政治利用することは考えても、皇室に対する敬意はかけらも持ち合わせていません。
 
かりに法で女系天皇が認められたとき、皇室はそれに従うでしょうが、それは表向きのことであり、裏では、どんな手を使ってでも男系で天皇を引き継ぎ、事実上二人の天皇が存在することになるでしょう。
女系天皇には国民の目に見える御公務を中心にしていただくことになると思います。
そしていずれは、国民に気づかれないまま、この二つの系統の天皇を統合し、元の男系に戻そうとされるでしょう。
この場合、つまり、裏天皇・本当の天皇男系天皇)が、女系天皇の血を引く女性天皇と御結婚すれば、その皇子は男系に戻るわけです。
そんなご苦労をかけることになる、ということさえ分からないのが、政治家と有識者というボンクラどもです。
 
 
 
ところが、実は古代にも、これに似たような事態が起こったのではないか?と、私は考えているのです。

これまで多くの研究者が、中世以降、古代についてあらゆる説を称えていますが、どれも完璧なものはありません。ただその発言者に知名度や権威があるかないか程度の違いです。
中には失笑してしまうような珍説も数多いのです。
私が書くこともツメが甘いことは自覚していますが、それはあとから補っていこうと思います。
それでは、これから歴史の真実を書きましょう。(強気)
 
 
天照大御神が男性ではないか?という説もありますが、記紀の文章からは女性と読めます。
ところが、当然皇室の祖先たる高天原の王家も、その時代以前からずっと、王は男系で引き継がれてきたのです。
つまり、天照大御神は、今風に言えば「女性天皇」です。
 
天照大御神が女王として即位したということは、当然それなりの事情があったのでしょう。
記紀を読めばわかるように、古代において、女性の方が男性よりも霊力が高かった、ということが関係すると考えられます。
もちろん、天照大御神は「女系天皇」ではなく、次の王は男系に戻すという前提の、一代限りの女王だったはずです。
以前も私の一つの仮説として、初代天照大御神とは、伊耶那美命ではないか?と書きました。
天照大御神が二人いたという説に、私も与しているのですが、今回はまた違った角度で考えてみました。
 
 
上の例でいえば、女王のあと次代の王を男系に戻そうとしましたが、何らかの理由により再度女王が立つ、という非常事態になったといえます。
二人の天照大御神が誰であれ、記紀の記述から分かるのは、後を継ぐ男王の候補は、伊邪那岐命か、須佐之男命か、その息子たちだった、ということです。
説明しましょう。
 

高御産巣日神」が、高天原の王を表す「称号」名だと考えていることは書きました。
そして、天照大御神時代のタカミムスビである「高木神」とは、伊邪那岐命だと思います。
伊邪那岐命は、記紀の言動から、王位継承権を持つ人物だったたことがわかります。
また、古事記では、天照大御神と並び、大御神とも称されています。
そして、禊で生まれた三貴子の一人である天照大御神を、高天原の王に即位させます。
その後、伊邪那岐命は淡路島の幽宮に御隠れになった、とされますが、紀の一書では、高天原に戻り「日少宮」に住まわれました。
 
亦曰(い)はく、伊奘諾尊、功(こと)既に至(いた)りぬ。徳(いきほひ)亦大きなり。是に、天に登りまして報命(かへりことまう)したまふ。仍(よ)りて日の少宮(わかみや)に留(とどま)り宅(す)みましきといふ。
 
「日の宮」が、天照大御神の住まわれる宮。
「日少宮」とは、まだ少女であった二代目天照大御神の宮と思われ、伊邪那岐命はここで高木神として政治的に彼女を補佐したのでしょう。
 
「亡くなる」ことを「隠れる」と表現したため、幽宮とは伊邪那岐命の御陵で、この時点で薨去されたと解釈されますが、それならば全ての御陵が「幽宮」と呼ばれなければおかしい、ということになってしまいます。
これは文字通り、実際は高天原に御健在だったが、表向き、淡路島に御隠れになった、とカムフラージュしたための命名でしょう。
もちろん、本当に薨去されたあとで正式に幽宮に祀られたと思います。
 

この二代目天照大御神の後の王も、当然、男系に戻す努力がなされます。
その方法は、
 
① もともと王位継承権を持つ男性を王とする。
② 王位継承権を持つ男性と天照大御神が結婚し、その皇子を即位させる。
 
という方法になります。
ところが、記紀を読むと、この二案は成立しなかったようです。
そこで、非常の第三案が採られました。
 
 
(続く)