空と風

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鳥の一族 13 須佐之男命

 
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①には、たとえば、三貴子の兄弟が即位する、という方法があります。
月読命は、この継承物語に登場しません。
一方、須佐男命は、ご存知のように、高天原に上り、それを天照大御神
 
「我が汝弟の命の上り来る由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲ふにこそあれ」
 
須佐男命自身が「高天原の王位を狙っている」と勘違いされ、有名な誓約を行うことになるのです。
 
この誓約の内容は、記紀によって異なりますが、話の本質は同じです。
須佐男命の「清き心」が、古事記では「女子を生む」ことで証明されます。
日本書紀では、反対に「男子を生む」ことで証明されるのです。
 
それが何故本質的に同じかというと、この誓約の物語で示されているのは、記紀ともに、天照大御神の王位確立と次の王を、どう男系に戻すか、という御苦労を表現しているからです。

日本書紀の一書では、天照大御神が須佐男命に対し、
 

 

汝、若し、あだなふ心あらざるものならば、汝が生めらむ子必ず男ならむ、如し男を生めらば、予(あれ)以って子と為して、天原を治しめむ。
 
と、言い、また別の一書では、須佐男命が、
 
また、吾(やつかれ)が清き心を以て生ませる兒等(みこたち)は、亦、姉(なねのみこと)に奉る。
 
と述べており、つまり、須佐男命自身は王位を欲せず、その男子を王位継承権を持つ後継者として、天照大御神に捧げたことが記されています。
これこそが、先に書いた第三案です。
 
 
古事記が「女子を生む」ことを「清き心の証明」とするのは、同じく、須佐男命が王位を欲していないことを示したものです。
天照大御神が男子を生み、その系譜が天皇につながるのであれば、その時点で男系は途切れていることになるので、実話としてはありえないのです。ただし、天照大御神の夫が王位継承権を持つ男性であったときのみは別です。
 
ところが、記紀を通じて分かるのは、天照大御神は男子に恵まれなかった、あるいは夫を持たなかった、そのため須佐男命の男子を後継としてもらい受けた、ということなのです。

天照大御神としては、須佐男命によって「自分の王位が安泰」となり、「後継の愁い」からも解放されたわけで、心から安堵し実弟に感謝したことでしょう。
 

もちろん、これが実話だったとして、子供らが持ち物から化成することはありえませんから、須佐男命は息子たちを「天の下から」高天原へ連れ上がったのです。
ただし、一度に5人(一書の一部では6人)を連れて行ったのか、別々に連れて行ったのかはわかりません。
昔は幼くして病で亡くなるケースも多かったので、後継予定者が一人や二人では安心できなかったのでしょう。
 

須佐男命自身は、もとより伊邪那岐命から海原または天下(あめのした)を治めるように命じられています。
高天原天照大御神のもとを訪れる前後は、葦原中国にいたのです。
ただし、須佐男命は中国(ナカの国)には興味がなく、根の国に住まいしたことが記紀に記されています。
富や権力には興味がなく自由奔放な生き方を好まれる方だったのでしょう。
あるいは、面倒なことが嫌だったのかもしれません。
 
豐葦原の千秋長五百秋の水穗國は、伊多久(いたく)佐夜藝弖(さやぎて)ありなり。
多に(さわに)蛍火(ほたるび)の光く(かがやく)神,及び蠅声なす(さばえなす)邪しき神(あしきかみ)あり。復(また)草木咸に(ことごとくに)能く(よく) 言語有り(ものいうことあり)。
 
と、ほぼ未開の地であった中の国は、開拓精神旺盛な人物でなければ、ただの住みづらい地域に過ぎません。
人が住むためには水辺でなければなりませんが、古代においては大河(吉野川)の中下流域は大雨による氾濫で人が住むには命懸け、漁法の確立していない海辺では安定的な食料調達に難儀します。
この時代、食料を必要量、最も安定的に得るのは農業だったことでしょう。
しかし、その後、時代の波が訪れ、その状況に逆転現象が生じました。
漁法の発展、そしてなにより、大陸との交易による富の発生です。
そのためには最大の天然の良港、阿波國風土記
 
中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナトト)ノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
 
と記された吉野川河口、古代の、大徳島湾を制する必要があります。
 

須佐男命は、この地域の開発に、五十猛命を当たらせていたとみえます。
五十猛命の別名は、射楯神。
 
 
天村雲命とは、須佐男命の子、五十猛命のことのようです。
 
須佐男命は、八俣遠呂智を退治した際に、天叢雲剣を入手していますが、これはこの戦闘を天村雲命が一緒に戦ったことを表しています。
戦利品に戦功者の名を刻んだのでしょう。
五十猛命が、天村雲命の名で、式内社で祀られているのは阿波一国であり、これは八俣遠呂智の物語の舞台を暗に示しているようなものです。
 
私は、八俣遠呂智吉野川河口北岸の高志に巣食った渡来系の海賊(盗賊)集団だと思っています。
倭建命の例にも見えるように、敵を油断させ酔わせて寝込みを襲うのは、族退治の戦術の基本のようなものです。
今の感覚ですと卑怯に見えるかもしれませんが、そんなことを言えば、もっと後の時代の宮本武蔵や戦国武将も卑怯ということになります。
この時代に卑怯もヘッタクレもありません。むしろ知性と勇気を感じさせる戦いぶりと賞されたのではないでしょうか。
 

また、日本書紀には、
 
素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處
 
と、一時、須佐男命が五十猛命とともに新羅の曾尸茂梨(ソシモり)に渡ったと記されています。
 
最大の富をもたらす交易は、朝鮮半島、また朝鮮半島を経由した中国大陸とのものであり、新羅國へは当然その使節が同行したはずで、交易先進国の港の視察のようなものだったのでしょう。
 
須佐之男命は後の時代に牛頭天王とも称されるようになります。
牛頭天王とはインドの祇園精舎の守護神ですが、本居宣長も批判しているように、日本における神仏習合の過程で須佐之男命と同一視されるようになったものです。
ところが、この曾尸茂梨(ソシマリ)または(ソモリ)という韓国語は「牛頭」を表すのだそうです。
また、当ブログに、ある方が寄せてくださった情報によれば、天村雲神伊自波夜比賣神社の御祭神で、天村雲命の妃である伊自波夜比賣の訓みについて、
 
ハングル読みで「五十」は「u sip」、「猛」は「chi yeol」。
伊志(自)波夜姫で、「志」と「自」の字が使われることがあるのですが、同時に並べた場合 伊:い、志:し、自:じ、波:い、夜:よる、で、ハングル読み(いしちゅいよる姫)となり、五十猛とほぼ同じ発音になるそうです。
 
つまり、伊志自波夜ひめとは五十猛ひめであり、意味は「渦巻」「龍巻」だそうです。
 
このように見た場合、須佐男命と五十猛命が一度は朝鮮半島に渡ったことは史実とも考えられます。
 
 
ところで、この五十猛命は、古事記では、木の国の大屋毘古(オホヤビコ)神の名前で登場します。
大穴牟遅命が、兄たちに殺されかけたとき、助けを求めた大屋毘古神とは、大穴牟遅命の兄(おそらく異母兄)だったのです。
 
木の国とは、吉野川河口部の南岸から南へ大きく広がる一帯で、新しい地名も含め今でも「木沢」「木頭」
など「木」で始まる地名群が有り、この南端が「木岐」あたりではないかと検討をつけているのですが、この「キ」の国の中に「キビ」もあります。
 
また、木の国は、中(長)の国の一部でもあります。
県の中に市があり、その中に町があるようなものです。
中国の郡県制に習い国郡里制を布くはるか昔の話で、単位はみな「クニ」だったのです。
クニとクニは並ぶこともあり、人の住まない地域をはさんで飛び地のように点在することもあり、重なり合うこともある、と考えるべきです。
現在の単位で、一つの県の人口が一つの市の人口程度だった時代のことを、今の感覚で考えてはいけません。
 
「木の国」は、阿波では標準語のように「きのくに」と発音せずに、「きぃのくに」と訓みます。
のちに地名を漢字二字に改めた際、その発音通りに書いたのが「紀伊の国」です。
 

阿波の木の国に住む五十猛命にも、この事態は手に負えなかったのか、大穴牟遅命は二人の父である根の国須佐之男命のもとへ助けを求めるようにアドバイスされます。
 
 
須佐之男命は、本来、五十猛命葦原中国を任せるつもりでした。一緒に新羅国へ渡ったのもその準備のためです。
しかしその後、何らかの理由により、須佐之男命は、中国の王候補としてもう一人、五十猛命の弟、大穴牟遅命を考えるようになりました。
結果はご存知のとおり、
 
 其汝所持之生大刀、生弓矢以而、汝庶兄弟者追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、
 意禮爲大國主神、亦爲宇都志國主〔玉〕神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、
 於宇迦能山之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、於高天原氷椽多迦斯理而居、是奴也。
 
 汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河瀬に追い払いて、
 おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女、須世理毘売を嫡妻として、
 宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽たかしりて居れ。この奴。
 
須佐之男命は、大穴牟遅命に、娘の須世理毘売と自分が所有していた兵力(生大刀・生弓矢)を与え、兄たちを従え葦原中国の王たる大国主となることを命じたのです。
 
この物語の本質は非常に重要なので記憶しておいてください。
 
 
(続く)