空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

鳥の一族 4

 
長文になりますが、大和・山城の「鴨」系神社と関係氏族の項を、Wikipediaから(○印・抜粋しながら)引用します。
 
○高鴨神社(たかかもじんじゃ) 奈良県御所市
 
京都の賀茂神社上賀茂神社下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。
阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)を主祭神とし、下照比売命・天稚彦命を配祀する。
古くは阿治須岐高日子根命と下照比売命の二柱を祀っていたものが、後に神話の影響を受けて、下照比売命の夫とされた天稚彦命、母とされた多紀理毘売命が加えられたものとみられている。
ただし、主祭神以外の祭神については異説が多い。現在高鴨神社社務所では、上記の神の他に事代主命・阿治須岐速雄命を配祀するとしている。
 
『特選神名牒』では阿治須岐高彦根命と多紀理比売命としている。「主祭神以外の神は不詳」とする説もある。
 
当地は鴨氏一族の発祥の地であり、その氏神として祀られたものである。
鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が鴨都波神社を、東持田に移った一族が葛木御歳神社を祀った。
後に、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。
 
延喜式神名帳では「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」と記載され、名神大社に列している。
 

※「総本社と称する」
 
称するのは、まあ自由です。称される、ではなく自称、ですね。
また、同じ鴨族同士でも、山城の鴨氏は別系統という説もあるようです。
 
 
※「当地は鴨氏一族の発祥の地」、だそうです。

出雲の王、大国主命の子、阿治須岐高日子根命は、この地に移り住み、鴨氏が発祥した、という解釈なんでしょうか?

また、山城の鴨氏は、始祖は神武天皇皇軍を助けた八咫烏賀茂建角身命)ですから、南九州出身だとも言われています。もうわけがわかりませんね。
 
そもそも論で言えば、出雲の事代主命が鴨氏の祖神の一人とされたのは何故なのでしょうか?
系図がある?紀に書いてある?そういうことではなくて、何で二人ともが鴨氏なんですか?ということです。
この二人のどちらかが鴨氏の祖だというなら分かりますが、そうではないのですから、父の大国主命に祖を求めなければおかしいでしょう。
ところがそれだと、鴨氏発祥は出雲ということになりますが、それでは困るし?出雲の風土記や神社を見るとそういうことにはなりません。
そこで、「事代主に対する“信仰”が大和で生まれた」と言うんですね。
信仰が生まれるのと氏族の発祥は別の話でしょう。
 
第一、出雲が島根だと思い込んでるから、いくら痕跡を探しても無いんです。
記紀の「出雲」とは、阿波なんですから、徳島で痕跡を探してください。

延喜式神名帳に「高鴨阿治須岐託彦根命神」とあるということは、土佐神社の御祭神も阿治須岐高日子根命である可能性(一言主神・阿治須岐高日子根命・事代主命の説がある)が出てきます。
朝倉神社との絡みで矛盾がありますが要検証です。
 
 
イメージ 1
 
 
鴨都波神社(Wikipedia

○鴨都波神社(かもつばじんじゃ) 奈良県御所市
 
積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。
葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。
 
事代主神は元々は鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である。
 
下照姫命については、事代主とともに祀られることに疑問があることから、元は別の神が祀られていたものとみられる。
当社の古い社名は「鴨弥都波(かもみつは)」であり、「鴨の水際(みづは)の神」と解せる。
当地は葛城川と柳田川の合流地点であり、元々は水の神を祀っていたものとする説がある。
また、事代主の妹である高照姫命が祀られていたのが下照姫命と混同されたとする説もある。
 
社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建した。
一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡で、弥生時代の土器や農具が多数出土しており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。
 
延喜式神名帳では「鴨都波八重事代主命神社 二座」と記載され、名神大社に列している。
 

※「当社が事代主神の信仰の本源」・・・。

同じ大和国式内社「阿波事代主社」こと「率川阿波神社」が、わざわざ阿波国から事代主の神を分祀しているのに何をゆうとるんでしょうか?
 

 

『三輪叢書』によれば、この阿波の事代主命とは、二人目の事代主命「天事代主籖入彦命」であるとしています。
「都美波八重事代主命」の子にあたります。
 
三輪叢書の伝を信じるならば、率川阿波神社の元社である阿波国阿波郡の事代主神社の御祭神が天事代主籖入彦命ですから、もう一方の式内社阿波国勝浦郡事代主神社には、その父、都美波八重事代主命が祀られている可能性が高いでしょう。

式内社事代主神社が阿波国のみに、しかも同名の神社が2社あり、一社が率川阿波神社分祀されている状況を見れば、もう一社の鴨都波神社も勝浦郡から分祀された可能性が高いと考えられます。
 

 

事代主命大国主命とともに出雲にいて、国譲りの当事者だったはずですが、『出雲国風土記』にもその名が記されないため不思議がられています。
したがって、出雲では無かった「事代主信仰」が大和で生まれた、などと言われるわけです。信仰が無かったから地元出雲の風土記には出てこないのだと。

事代主命はそもそも「阿波神」なのですから、事代主信仰がイコール鴨信仰だというなら、その本源は阿波なのです。
 

 


※「弥生時代の土器や農具が多数出土しており古くから鴨族がこの地に住みついて」

弥生時代から人が住んでいたからといって、その人たちが何で鴨族ということになるんでしょうか?
遺跡から「鴨」の表札でも出てきたのでせうか?不思議な説明です。

※「社伝によれば」崇神天皇の時代、云々、とあるが、調べたところ、これは鴨都波神社の社伝というより『大三輪神三社鎮座次第』(1932)を元にしているようです。
崇神天皇の時代に当社が創建され、そのことが代々内々に云い伝えられてきた、というような話では全くありません。

また、「崇神天皇の時代」が大和地方の時代だという前提だからこういう由来になるのですが、阿波説ではご存知のように、この前提を真っ向否定しています。
 

※弥都波(みつは)に関しても、調べるといろいろ苦しい解釈をする先生がいるようですが、どう見てもこれはミツハノメであり、水の神。
折口信夫『水の女』 を、またまた引用(抜粋)いたします。
 

出雲国造の神賀詞カムヨゴトに見えた、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立(おひたてるヵ)若水沼間ワカミヌマの、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみの水のいや復元ヲチに、み変若ヲチまし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。
 
一番これに近い例としては、神功紀・住吉神出現の段「日向の国の橘の小門のみな底に居て、水葉稚之出居ミツハモワカ(?)ニイデヰル神。名は表筒男うわつつのお・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。
この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。
みぬま・みつはと言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。
水沼の字は、おなじ風土記仁多郡の一章に二とこまで出ている。
 
三津郷……大穴持命の御子阿遅須枳高日子命……
 
大神夢に願ネぎ給はく「御子の哭なく由を告ノれ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞コト通カヨふと見ましき。かれ寤さめて問ひ給ひしかば、爾時ソノトキに「御津ミアサキ」と申まおしき。
その時何処いずくを然しか言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖ミオヤの前を立去於坐タチサリニイデマして、石川渡り、阪の上に至り留り、此処ここと申しき。
その時、其津の水沼於而ミヌマイデ(?)テ、御身沐浴ソヽぎ坐マしき。
故、国造の神吉事カムヨゴト奏まおして朝廷みかどに参向まいむかふ時、其水沼出而イデヽ用ゐ初むるなり。
 
結論の導きになることを先に述べると、みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめなどと変化して、同じ内容が考えられていたようである。
地名になったのは、さらに略した みぬ・みつ・ひぬ などがあり、またつ・ぬを領格の助辞と見てのきり棄てた みま・みめ・ひめ などの郡郷の称号ができている。
 
みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。
阿波の国美馬郡の「美都波迺売みつはのめ神社」は、注意すべき神である。

大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなることを示している。
丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。ひちの郷に近いから、山の名も比治山ヒヂヤマと定められてしもうている。
丹波の道主ノ貴ムチが言うのに、ひぬま(氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬまの地名は、古くあったのである。
このひぬまも、みぬまの一統なのであった。
丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮げくうの神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。
この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。

阿波のみつはのめの社も、那賀なか郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。
出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。

丹波の宇奈韋ウナヰ神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつはの一面である。
 
国々の神部カムベの乞食こつじき流離の生活が、神を諸方へ持ち搬はこんだ。これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。
阿波から来経キヘ――移り来て住みつい――たことを言うのだから。

前に述べかけた阿波のわなさおほそは、出雲に来経たわなさひこであり、丹波のわなさ翁・媼も、同様みぬまの信仰と、物語とを撒まいて廻った神部の総名であったに違いない。
養い神を携えあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてでもあった。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。

論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、外宮の神だとも言えよう。
 

 

この沐浴の聖職に与あずかるのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。
宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである
ふかぶちのみづやればなの神・しこぶちなどから貴ムチ・尊ムチなども、水神に絡んだ名前らしく思われる。
神聖な泉があれば、そこには、ふちのいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはらと言うたのであろう。
 
みつはまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである。

だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島やそしま祓えや御禊ゴケイの行われた難波なにわの「御津ミツ」などがあるのだ。
 
 
 
水の女』には出てきませんが、阿波国式内社には、麻殖郡に、天水沼間(みぬま)比古神天水塞比賣神社二座 も、あります。

上記美馬郡(旧)の郷名の一つが「三津郷」です。
事代主命が居た阿波国の葛城の海岸一部も「三津」といいます。
本当の難波(香川県津田町)の海岸を東に進んだ地域です。

折口信夫が、水の神からその名が起こった可能性を指摘するミマ郡の式内社に、式内社弥都波能賣(みつはのめ)神社は在るのであり、同じ美馬郡式内社鴨神社も鎮座するのです。
 

 

式内大社、天石門別八倉比売神社の御祭神、大日孁貴(おおひるめむち)は、日の神であると同時に水の神とも指摘され、古事記における阿波国の別名「オオゲツヒメ」と合わせて、阿波全域で「水と食の国」を表しています。

ミツハノメの神名も、大河吉野川を有し水の神に溢れる阿波の神だと暗示しているのでしょう。
 
(続く)