御祭神 事代主命
創祀年代不詳。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
岩利大閑説によれば、太田田根子とは阿波の太田村の住人で、隣村の大王「阿遅鉏高日子根神」の後裔だとしている。
~出雲神であるはずの、コトシロヌシが『出雲国風土記』に記載されている神社の、どこにも祀られていないのは、いったいどういうわけか。
実際、コトシロヌシを祀る神社は、『延喜式』の神名帳によれば、名神大社である「鴨都波八重事代主神社」であり、現在の葛城山麓、御所市にある「鴨都波神社」なのである。
『出雲国風土記』が編纂された当時、コトシロヌシを祀る神社は、「出雲」に存在しなかった。
つまり、コトシロヌシは、「出雲」とは全然関係のない神と言えはしないだろうか。~
実際、コトシロヌシを祀る神社は、『延喜式』の神名帳によれば、名神大社である「鴨都波八重事代主神社」であり、現在の葛城山麓、御所市にある「鴨都波神社」なのである。
『出雲国風土記』が編纂された当時、コトシロヌシを祀る神社は、「出雲」に存在しなかった。
つまり、コトシロヌシは、「出雲」とは全然関係のない神と言えはしないだろうか。~
『真説日本古代史、第3部、神服部宿禰兼行著』
↑ このように、阿波の式内社はことごとく無視するというのが、日本中の学者・研究者の常なのだが、
出雲の話は参考になると思い引用した。古事記には、
故、此の大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売(たきりびめの)命 娶して生める子は、
此の阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と謂うぞ。
と記されている。
太田田根子が迦毛大御神の血を引くからこそ、その孫の大賀茂都美命は「賀茂」を名乗り、
社名が「鴨都波 八重事代主命神社」なのだろう。
なんでもこの地が、京都を含め全国の「かも」の地名の発祥だそうである。
もちろん、眉唾だと思っている。
社名が「鴨都波 八重事代主命神社」なのだろう。
なんでもこの地が、京都を含め全国の「かも」の地名の発祥だそうである。
もちろん、眉唾だと思っている。
事代主命の話も当然簡単に書き切れるものではないが、全国の阿波系神社の御祭神として祀られていることはすでに紹介した通り。
天神七代の内、六世面足尊(おもたるのみこと)惶根尊(あやかしこねのみこと)
七代伊弉諾尊、伊弉冉尊
八島を生む先に淡路の州(しま)を生む、是を淡道之穂之狭別(あわぢのほのさわけ)という。
次に伊與(いよ)の二名(ふたな)の島を産みます。一身に四面あり。
降り居ます | 磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに) | 是也。 |
七代伊弉諾尊、伊弉冉尊
降り居ます | 玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに) | にあたる。 |
八島を生む先に淡路の州(しま)を生む、是を淡道之穂之狭別(あわぢのほのさわけ)という。
次に伊與(いよ)の二名(ふたな)の島を産みます。一身に四面あり。
一を 愛比売(えひめ)という、 是 伊豫(いよ)の国也。
ニを 飯依比古(いよりひこ)という、 是 讃岐(さぬき)の国也。
四を 建依別(たけよりわけ)という、 是 土佐(とさ)の国也。
ニを 飯依比古(いよりひこ)という、 是 讃岐(さぬき)の国也。
三を | 大宜都比売(おおげつひめ) | という、是 粟(あは)の国也。 |
元根は伊與の二名の圓(ひとつ)なるところ、人情の賢を構え、二つの名を別けて四国と云い、
(中略)
名づくる中に、 | この大宜都比売は天つ神の相応恵会する玉牆の内つ国 | と為す。 |
(中略)
神代の初め二神、珍貴尊(うずのみこと)を産みのぼり祝て後、三柱彦神を産み上ります。
名を奉りまして エビス という。 今鷲敷社在。
そのとき乗りましし天の樟船は為上久にあり鎮座す。 『鷲敷町史』
『日本書紀』には、
「昔伊弉諾尊目此国曰。 日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。」
「復大己貴大神目之曰。玉牆内国。」
復(また)大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、目(なづ)けて曰(のたま)はく、玉牆の内国とのたまひき。
と記され、「やまと」の国の形容として、
浦安国(うらやすのくに)
細戈(くはしほこ)の千足(ちた)る国
磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)
玉牆(たまがき)の内国(うちつくに)
細戈(くはしほこ)の千足(ちた)る国
磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまのくに)
玉牆(たまがき)の内国(うちつくに)
が、挙げられている。
「大和(やまと)」の表記に関しては、本来「倭」であったものが、写本の段階で書き換えられたのではないか?と想像する。
現在でも、「倭」=「大倭」=「大和」と思い込んでいる人がほとんどで、たとえば、万葉集の歌の原文には「倭」と書かれているのに、解説文ではほとんど例外なく「大和」と書かれている。
現在でも、「倭」=「大倭」=「大和」と思い込んでいる人がほとんどで、たとえば、万葉集の歌の原文には「倭」と書かれているのに、解説文ではほとんど例外なく「大和」と書かれている。
「倭(やまと)」が「阿波」であり、「大倭(おおやまと)」が奈良である。(“読み”からして違う)
「浦安」「磯輪上秀真」 海のない奈良には当てはまらない形容である。
『新撰姓氏録』には、
「長」「中」「那賀」「那珂」
(ナカとナガは発音の違いで同じ。『和名抄』にもそう書かれ、近年の「那珂・那賀」の地名を調べても“読み”はどちらでもよいと書かれている)
(ナカとナガは発音の違いで同じ。『和名抄』にもそう書かれ、近年の「那珂・那賀」の地名を調べても“読み”はどちらでもよいと書かれている)
のルーツは「長の国」である。
これも九州だと言っている人がいるが、阿波の長国のことを知らないがゆえの誤認だろう。
これも九州だと言っている人がいるが、阿波の長国のことを知らないがゆえの誤認だろう。
御神名に関しては、上の地図、当社のある沼江の北が「長柱」となっている。
岩利大閑氏の説では、この長柱(なごしろ)の大人(うし)が転じて、事代主になったのだという。
勝浦川のさらに上流を「八重地」と呼ぶため、「八重事代主」という。
岩利大閑氏の説では、この長柱(なごしろ)の大人(うし)が転じて、事代主になったのだという。
勝浦川のさらに上流を「八重地」と呼ぶため、「八重事代主」という。
当社の場所については、阿波藩主として入国した蜂須賀家の『阿波国治世紀』に、
「昔時当村にてゑびす誕生有り故、生夷、とは生夷と書也」
と記される。
つまり、「生まれる」+「夷(えびす)」で、「生夷(いくいな)」の地名となったというわけである。
つまり、「生まれる」+「夷(えびす)」で、「生夷(いくいな)」の地名となったというわけである。
※参考 『道は阿波より始まる 』 『記・紀の説話は阿波に実在した』