空と風

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鳥の一族 2

 
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倭文と天羽槌雄神について、昨日、ALI爺さんからコメントがありましたが、これは、今下書き中の記事をアップせよとのメッセージ(誰からのじゃ?)と受け取りました。
 
時間を見ながら少しずつ書いているんですが、まだ7割くらいなのです。
それでもかなりの長文なので、整理して短くしながらアップします。
今回の記事は、まあ“読み物”として読んでください。
私自身は、ほとんど「そういうことだろう」とは思っているのです。
ただ、それを文章にして、かつ読む人に説得力を感じてもらうには、まだ弱いのです。
 
古代の歴史を完全解明した人はおらず、史実に近づくためには、昨今の裁判関係のニュースで時々報じられるように、直接的な証拠がない場合、質の高い状況証拠を数多く積み上げることで事実を認定する、という方法しかないのです。
それで、出来るだけの情報を並べてから書くつもりだったのですが、それではいつになるかわからないので、おいおい追加していくことにします。
それでも、昨年から書いている大国主命の正体について、頭の片隅でもに置きながら記紀を読み返すならば、今まで見えなかった物語や歌の裏側が見えてきます。
 
 
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倭文氏の祖、天羽槌雄神は、天日鷲命の子の一人で、『安房国忌部家系』によれば、同じ母、言笘比賣(イフトマヒメ)命、(※阿波の忌部神社では、言筥女(イイラメ)命)を持つ兄弟に、

大麻比古命(又名、津咋見命・津杭耳命)、天白羽鳥命(又名、長白羽命・伊勢国麻績氏の祖)がいます。
 
大麻比古命=事代主命、ですから、言筥比売=神屋楯比売、ということになります。
ただし、事代主命は親子2代、二人いましたので、大麻比古命が初代事代主である、都美波八重事代主命であるならば、です。
天日鷲命は、別名、三島の「溝咋耳命」ですが、その子の名が「津杭耳命」というのも自然な感じがいたします。

天羽槌雄神(『安房国忌部家系』では天羽雷雄命と表記)の別名は、建葉槌命(同じく、武葉槌命)です。
 

この建葉槌命の名は、古事記には登場しませんが、日本書紀には興味深い逸話が記されています。

於是、二神、誅 諸不順鬼神等
【一伝、二神、遂誅 邪神、及 草木石類、皆已平了。其所不服者、唯 星神香香背男 耳。
 故、加遣、倭文神 建葉槌命。者則服。
 故、二神、登 天也。
 倭文神、此云 斯圖梨俄未】
果、以復命。

高天原から下された経津主神武甕槌神は、大国主命一族に国譲りを了承させたあと、中の国の従わぬ神たちを誅し、草木石の類まで平定したが、唯一人、星の神、香香背男が屈しなかった。
そこで、倭文神・建葉槌命を遣わすと、香香背男もついに命に従った、というのです。
 
経津主神武甕槌神でさえ、攻略・説得できなかったほど人物を従わせた武勇の人、天羽槌命は、それゆえ「建」葉槌命の別名を持ったといえるでしょう。
しかし、ここには、建葉槌命香香背男を武力で叩いたのか、懐柔したのか、経緯を一切書いていないのです。
 
 
ここで、昨年から書いている、鳥の一族の系譜を当てはめれば、その謎も解けるでしょう。
 
つまり、大国主命とは、天日鷲命
天羽槌命は、天日鷲命の子。
 
大国主命一族が、高天原に国を譲ることを決定しても、葦原の中国(なかのくに)の国津神たちの中にはそれを不服に思う者が少なからずいたのです。
それは以前も書いた大国主命の言葉、「事代主命天孫に従って見せて初めて、国津神たちもそれに習うだろう」という言葉で分かります。
言い換えれば、中の国の諸氏は、大国主命事代主命に相当の忠誠心を持っていたということです。
建御名方命が不服としたように「それはないだろう」というのが国津神たちの本音でしょう。
そして最後まで不服の意思を通したのが香香背男でした。
その香香背男を最後に説得に来たのは、自分の国の王、大国主命の実子だったわけです。
だから香香背男は、ついに折れたのです。
 

ここでもう一つ分かるのは、大国主命の子の少なくとも一人は、高天原に“残って”いた、ということです。
 
おかしいですか?
おかしくないのです。
 
大国主命は、須佐之男命の子。
天日鷲命は、『姓氏録』等に、タカミムスビの神、カミムスビの神の、数代目の孫、と記されています。
上の『安房国忌部家系』では、神産巣日神 の孫、としています。
 
元々、ばりばりの高天原族なのですから。
 
そしてさらには、「国譲り」という物語そのものが、歴史の大きなカムフラージュだったのです。

 
(続く)